第三章 龍王院対鳳凰院 5
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授業後のホームルームも終わり、放課後になった。
隣のクラスでは教室の天井と壁が破壊されたと大騒ぎになっていたようだが、薫子のクラスは平穏無事だった。
七瀬もなにごともなかったかのように登校してきて、体調はすこぶる快調らしい。ネズミに噛まれた影響は今のところない。さらに今朝、登校前に三月に会って渡したネズミの調査結果はまだ出てきていない。とりあえず、次になにをやるべきか、判断に迷うところだ。
きのうの男のことは三月にも報告してあるが、三月にも正体がわからないらしい。
三月のいうことを信じる限り、『楽園の種』の工作員なら、まるでマンガに出てくるサイボーグのように体になんらかの武器を仕込んでいる場合が多い。いわゆる機械化テロリストだ。だが霊体から判断するに、あの男は生身の人間だった。
首領である祖父に相談してみると、「あるいは龍王院かもしれん」といわれた。
大昔には鳳凰院と戦ったこともあるといわれている龍王院。今では存続しているかどうかすらわからない闇の流派だ。
もしそんなやつらが敵側についたとするとやっかいだ。調べてみたいが、残念ながら手がかりがなにもない。
「そっちの方は任せろ」ともいわれた。どうやら桜子たちを使って、龍王院を調べさせる気らしい。
ポケットの中のケータイが鳴る。
モニターに映し出された番号は三月のものだった。薫子は教室から出て、廊下の隅に行くと電話を受けた。
「はい、薫子です」
『薫子さん? 三月です』
三月の声を聞くと、非常事態にもかかわらず、ちょっとだけ胸が高鳴る。よく考えたら、今まで若い男から電話をもらったことなんてあっただろうか?
『七瀬さんていったよね。ネズミに噛まれた人』
挨拶もなしにいきなり七瀬の名前が出て、少し気分を害した。
『その人、インターネットとかする人かな? そういうことで情報を集めるのが好きなタイプの人?』
「たぶんね。彼女、新聞部員で好奇心旺盛だから。この学校にもネットにつながったパソコンがあって、七瀬はよく使っているようよ」
自然と発する言葉にもそこはかとなく刺が出る。
『もしその人が黒死館総合医学研究所に行くといいだしたら止めてほしいんだ』
「え? なに? 黒死館……」
『ええと、説明するよ。まず、薫子さん、インターネットの掲示板って知ってる?』
「田舎者だと思って馬鹿にしてる? 鳳凰院は現代の情報社会に適応してんのよ。そうでなきゃ、こんな仕事できっこないじゃない」
ネットに接続したパソコンを持っている人なら誰でも書き込める、それこそ掲示板。つまりここではいろんな情報を知ることができると同時に、自分も情報を発信できる。日本にはそういう掲示板がいくつかある。そんなこと今や一般常識だ。
『ごめんごめん。それもそうだよね。で、今その中で、ネズミに噛まれたものは一定の潜伏期間を経て、発病し死に至るというデマが流れてるんだ。しかもネズミに噛まれる事件は、学園の外でも頻繁に起こっているらしい。それを治療するには黒死館総合医学研究所に行くしかない。そう煽ってる。でもそれはデマだ。絶対に彼女をそこに行かせないでほしい。それと他にも学校で噛まれた人いたよね。その人も探して、同じことをいってほしいんだ』
三月の声は真剣だ。つまりその黒死館なんとかとやらが、今回のネズミ事件の黒幕なのか?
「つまり、あのネズミはそこに行かせるための手段なの? 検査の結果は?」
『ああ、そうだったね。まずそれをいわないと話にならない』
三月の失笑が聞こえた。
『結論からいうと、あれは普通のネズミだ。病原菌の類も持っていない』
それを聞いて一安心した。素手で触りはしなかったが、内心気持ち悪かったし、七瀬が心配でもあった。
「じゃあ、なんであいつら人間を襲ったの?」
『それはまだわからない。おそらくネズミを凶暴化させる音波かなにかを使ったんじゃないかな。それを探るのも君の仕事の内だよ』
「じゃあ、学園内にネズミを操る機械でもあるのかな? それを探る? でも、そっちの黒死館を調べる方が先じゃない?」
薫子はあたりに気を遣い、小声で話す。患者を装えば、中の様子は簡単に探れる。
『そうだね。ちょっと探ってきてほしい。ただその前に、噛まれた生徒に直接会って絶対に行かないように釘を刺しておいてくれ』
「わかった」
『黒死館の場所はケータイにメールで送っておくよ。じゃあ、気をつけて』
電話は切れた。
とりあえず、七瀬を探す。七瀬なら放っておけば、勝手に黒死館にたどり着いてしまうかもしれない。
七瀬はまだ教室にいた。薫子はさりげなく話しかける。
「七瀬、インターネットの掲示板とか見たりするよね?」
「もちろんよ。今の時代、マスコミが垂れ流す情報を鵜呑みにするだけじゃだめ。自分で検証するにはネットは必須よ。巨大掲示板には悪意のあるデマやたんなる噂も流れるけど、貴重な情報もあるの」
七瀬は生徒に講義する講師のように、えらそうにいった。
「で、きょうは覗いた?」
「さすがにきょうはまだ見てないけど。いくらあたしだって昼休みのたびに情報処理室に行って掲示板をチェックしたりはしないって」
「よかった」
黒死館総合医学研究所とやらにどんな危険があるのか、具体的には知らないが、とりあえず七瀬はそこに行かないですむだろう。
「いい? 今、ある掲示板では、あのネズミは某国がまき散らした生物兵器で、噛まれれば二、三日の潜伏期間をおいて発病し、死に至るっていう噂が流れまくってるの」
「なんですって?」
さすがに七瀬の顔色が変わった。
「だいじょうぶ。デマだから。デマっていうよりもある目的のために流した虚偽の情報って感じよ。それによると、治療するには黒死館総合医学研究所っていうところに行くしかないって書いてあるんだけど、ぜったいにそれを信じちゃだめ。罠なのよ」
「なんかおもしろそうな話ね?」
心配ないとわかったせいか、驚愕の表情が好奇心に取ってかわられた。
「どうしてあんたがそんなこと知ってるの?」
「う、うん、お兄ちゃんがじつは新聞記者なのよ。さっき警告されたの。それ以上のことはあたしも知らないんだけど」
「え、そうなの? 初耳。早くいってよね。どこの新聞社?」
「ええっと、……三月新聞」
「すっごいじゃない。大手よ大手」
七瀬が目を輝かせる。いざとなれば三月を兄として紹介するが、この一言が変なスイッチを押してしまったらしい。
「ふんふん、黒死館総合医学研究所ね。大新聞の記者がそこを怪しいといっている……と」
七瀬は下唇をぺろっと舐めながら、黒死館の名前をメモしだした。
「ちょ、ちょっと、なに考えてんのよ?」
「決まってるじゃない。そんな面白そうなこと、放っておけますかってんだ。探るのよ、その黒死館なんとかを」
いわない方がよかったのではないかと思った。素人記者として名を売ろうとでもする気なのだろうか? しかも、特殊技術もなにも持っていない癖に。
「だめよ、危険すぎるって。それに囮捜査をするらしいし、邪魔になっちゃう。あたしが怒られるじゃないの」
もっともその囮捜査をおこなうのは、自分自身のわけだが。
「ふ~ん、囮捜査ね」
「だめ」
七瀬があまりに嬉しそうな顔をするので、薫子は思わず睨み付けた。
「わかったって。ときどき怖い目をするんだから、薫子は」
七瀬は両手の平を上に向け、おどけて見せた。
「約束だよ」
「わかった、わかった」
「それと、きのうもうひとりネズミに噛まれた人いたよね? 七瀬知ってる? その人にも忠告しなくっちゃ」
「隣のクラスの前田さんよ。たぶんこれから顔を合わせるからいっておいてあげる」
「え、なんで?」
「保険の香坂先生から念のため、きょうも放課後保健室に来るようにいわれてるの。彼女もいっしょ」
「そう? じゃあ、頼んだよ」
「オッケー」
七瀬は笑顔でそういうと、保健室に向かった。
その前田さんという人が、仮に七瀬のいうことを信じなくても、保険の先生がいっしょなら問題ないだろう。保険の先生が、細菌兵器の心配があるから、すぐ黒死館総合医学研究所に行きなさい、なんていうはずがないからだ。
ただ前田が保健室に行くことをサボる可能性もあるので、念のため薫子は隣のクラスに行って前田を訪ねた。
佐々木という級友から「気分が悪くなったらしくて、六時間目の途中で保健室に行ったわ」という返事をもらい、薫子は安心した。
わざわざ保健室に確認に行くこともないだろう。もっとも七瀬とすれ違いになることもありうるので、念のため、佐々木に、前田のケータイ番号とメールアドレスを聞いておいた。
教室に戻ると、彼女のケータイに掛けてみる。出ない。薫子は留守電サービスにメッセージを残した。
「鳥島薫子といいます。突然すみません。今ネットではネズミに噛まれると恐ろしい病気にかかるという噂が流れていますが、デマですから気にしないでください。とくにネットでいわれている黒死館総合医学研究所には行かないでください」
念のため、しばらくしたらもう一度掛けてみたほうがいいかもしれない。
これ以上学校でやることもないので、あとは黒死館研究所に行くばかりだ。なにかあったときのため、鳳凰院の里に黒死館に行くことを報告しておく。首領は捕まらなかったが留守電を入れておいた。それがすむと帰り支度をする。
下足入れに向かう途中、廊下で藤枝の一行を見かけた。相変わらず、藤枝の後ろをぞろぞろとファンだか、手下だかがついて回る。よく見ると、きのうよりも数が増えている。しかも女子だけでなく、男子まで二名ほど混じっていた。
ひょっとして生徒会の役員たち?
薫子は生徒会役員の顔など知らないが、そうであれば不思議でもない。藤枝は生徒会長なのだから。しかし、その内の何人かはきのうもつきまとっていたファンらしき女子生徒だし、彼らの顔からは藤枝に対する陶酔が感じられる。どう見ても、生徒会役員だのなんとか委員会だのといった雰囲気ではない。
いったいなんなんだか?
薫子は呆れながらも、その大名行列を眺めていた。
七瀬も彼に夢中だったし、きっと都会の学校ではこういうことも珍しくないのだろう。 もしこれ以上取り巻きが増え続ければ、さすがに異常だとは思うが。
靴を履き替え校舎を出るころには、薫子は藤枝のことを忘れていた。




