第三章 龍王院対鳳凰院 4
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「あいつの正体がわかったのか?」
慎二は地下の秘密部屋に入るなり、デスクにふんぞり返っている東平安名に聞いた。
昨夜、捕まえたネズミを引き渡したついでに、例の女のことを調べておいてくれと頼んでいたのだ。呼び出されたのはそのためだと思った。
「今、おまえの妹が調べてる」
よりによってあいつか? ほんとうにあいつにそんなことができるのか? まあ、今回に限ってはしょうがないが。
「あまり信用していないようだな」
慎二の顔に不満が表れたのか、東平安名が意地悪そうに笑う。
「ふん、あいつはそういうことには俺以上に向いてないような気がするからな。がさつでいい加減な女だ。戦うしか能がない」
「まるで自分は違うっていってるみたいですね」
緑川がパソコンの前に座りながら、鼻で笑った。
「とりあえず、その女が三月財閥と繋がりがあることだけはわかっている」
「あんたの家のライバルか?」
「まあ、そんなところだ」
東平安名が苦虫をかみつぶすように顔をしかめた。
東平安名と三月。ともに日本を代表する企業総合体。さまざまな分野でしのぎを削る関係だ。
「おまえの方こそ、戦ってみて相手の見当はつかないのか?」
只者ではないのはよくわかった。
剣の速さ、身の軽さ、壁越しにこっちの攻撃を読んだこと。さらに指弾を使い、逆にこっちの指弾をたたき落とす反射神経。
そういうことでもわかるが、あの女から感じた波動だけでその力を推し量るには十分だった。
昨夜の女から感じた思念波はすさまじいものだった。鏡のように凪いだ水面が、天高く吹き上がったかのように、一瞬にして無の状態から殺気を放つ。変化する状態が大きく、変化のスピードが速ければそれだけ強い波動として感じられる。
「わからん。とにかく普通じゃない腕だ。ただの人間じゃない。だがどうも『楽園の種』の機械化テロリストとは違う感じだ。ひょっとしたら鳳凰院かもしれん」
「鳳凰院だと?」
「あんたなら知ってるだろう? 龍王院と同じようなもんだ。闇に生きる武道家集団。現代の忍者。だが互いに相手の技をよく知らない」
「敵対しているのか?」
「そういうわけでもない。ただし依頼人同士が敵なら、敵にもなりうる」
「ふ~ん?」
東平安名は興味深そうな顔をした。
「まあ、『ハンター』と呼ばれるシンさんが普通の人間に逃げられるなんて、ちょっぴり間抜けですからね」
緑川がなにやらキーボードを叩きながらきゃらきゃら笑った。
「黙れ。逃げられたわけじゃねえ。ちゃんと追った」
そう、慎二は追った。強い感情を放ちながら移動すれば、それは強い思念波となってあとに残る。それはちょうど水面をモーターボートが走れば、しばらくの間波が残っているのに似ている。
あの女の放つ強烈な思念波はすぐには消えなかった。慎二はその残留思念波を追えばよかった。それが『ハンター』と呼ばれる慎二の特技だ。
かつては龍王院家の人間なら誰でもできたことらしいが、今ではほとんどの者がその力を失いつつある。それでもたまに突然変異的にその能力に長けたものが生まれることがあるらしい。それが慎二だ。慎二は龍王院家の中でも、格闘技能とともにこの力がぬきんでていた。
その力を使って女を尾行し、隠れ家をつきとめたのだが、よりによって……。
「で、あいつの正体がわかったんじゃなければ、俺を呼び出した理由は?」
「ネズミの方だ」
東平安名はデスクにおいてある封筒から写真を撮りだした。
「あのネズミには機械の類は一切埋め込まれていない」
ネズミのX線写真を見せるなり、不満そうにいった。そのまま写真をデスクの上に放り投げる。
「そのようだな」
デスクの前で立っている慎二も覗き込んだが、見えるのはやはりネズミの骨格、それに内蔵。それ以外のものはなにひとつ写り込んでいない。脳に小型の受信機が仕込まれているとか、そういった事実はない。
ネズミは今、別室にいる東平安名が個人的に集めた科学捜査班員によって徹底的に分析されている。手元にあるX線写真と所得データはその手始めだった。
血液データ。とくに変わった数値はないらしい。その他、体温、呼吸回数、血圧、心拍数、正常の範囲内ということだ。
「つまり、今のところあれは普通の健康体のネズミでしかないってことだ」
「ってことは、ただのネズミが意味もなく人間を襲ったのか? 東京のネズミはそこまで腹減ってんのかよ?」
慎二は思わず口にする。
「あたしだって信じられないさ。だが事実だ。おそらく遺伝子レベルまで調べてもたいした結果は期待できないだろうな。あれはただのネズミだ。細菌兵器でも生物兵器でもない。どうやってコントロールしているのかはわからないが、あれ自体はほとんど無害だ。せいぜい人間に噛みつくだけで、それによってどうこうなるわけじゃない」
「しかし、『楽園の種』がどうしてそんな無意味なことをするっていうんだ? ほんとうにネズミを操るためだけの実験なのか?」
「無意味。たしかにそれ自体は無意味だ。だがなにか意味があるはず」
東平安名は目をつぶって考え込んだ。
「シン、おまえだったらネズミに囓られたら、どうする?」
「さあな。俺だったらせいぜい消毒して化膿止めのクスリでも塗っておくくらいだろうな。たいしたことなけりゃ、なにもしないで放っておくかもしれん」
「それこそ無意味だな」
警視はつまらなさそうにつぶやいた。
「隊長!」
そのとき、ずっとパソコンとケータイとにらめっこをしていた緑川が、悲鳴にも似た叫び声を上げた。
「インターネットの掲示板が大変なことになってます」
「どうした、アキラ?」
「こ、これを見てください」
警視が緑川のデスクに走って、モニターを覗き込んだ。慎二もそれに続く。
モニターにはこう書いてあった。
401 病院へ行こう名無しさん
うわっ、おまえら、さっきネズミに囓られたよ。血が出てる。
病院行ってくるよ。
402 病院へ行こう名無しさん
おまえの家のネズミは凶暴だの。はやく逝け。
403 病院へ行こう名無しさん
ネタ? ここは日本だぞ。
404 病院へ行こう名無しさん
》401
マジ? 実は俺も。普通じゃないぞ。
405 病院へ行こう名無しさん
おまいらだいじょうぶか? 俺の友達、三日前にやはりネズミに噛まれたんだが、
きのう、そいつ倒れたぞ。全身に不気味な湿疹が出たって話だ。
今、そいつ入院してる。
406 病院へ行こう名無しさん
嘘だろ? ね、俺どうしたらいいの?
407 病院へ行こう名無しさん
マジ病院逝け。
408 病院へ行こう名無しさん
いや、俺も似たような話を聞いたぞ。
某国がネズミを使った細菌兵器を放ったって噂だ。
とにかく今ネズミは危険だ。絶対に噛まれるな。
「こ、これは?」
慎二は目を疑った。潜入捜査官から入った情報は、トップシークレット。東平安名が警察上層部に報告しているかどうかすら怪しいくらいの極秘情報だ。『楽園の種』の名前こそ出ていないが、ネズミを使った細菌兵器という噂まで流れ出した。
「ふん、あいつらネットを使ってデマを流しはじめたってことか?」
東平安名が忌々しそうにいう。
「なんのために?」
「その答えは引き続き読んでいけばわかりますよ、シンさん」
緑川はマウスを使って画面をスクロールしていく。
進むにつれて、飛び交う情報は過激かつ具体的になり、そのかわり、どう考えても事実からかけ離れていく。
ついに噂は、こういうことに落ち着いた。
ネズミは北朝鮮がばらまいたテロ兵器で、囓られると二、三日はなんともないが、その後全身に不気味な発疹が浮かび、地獄のような苦しみを味わい衰弱して死んでしまう。
「おいおいどういうことだよ? ネズミにはそんな細菌に感染してなんかしてねえだろうが。そうだろ、緑川?」
「じっさいに感染させる必要なんてなかったんです。噂を流せば十分。きっとこれは口コミでもっと広まりますよ」
「だからなんだ? やつらの狙いはパニックの誘発か? 東京都民がネズミを怖がるようになってなんの得があるんだよ?」
「答えはこれです」
緑川はえらそうに胸を張ると、さらに画面をスクロールさせる。
689 病院へ行こう名無しさん
で、噛まれた俺はどうすればいいんだ?
病院病院って、どこいけばいいんだよ?
690 病院へ行こう名無しさん
おまいら朗報だ。この病院なら治せる。ここへいけ。
http/www.○×△■.
緑川はURLをクリックし、その病院の運営しているサイトに飛んだ。
黒死館総合医学研究所。
現れたホームページの上の方には大きな文字でそう書いてあった。
「どうやらここは治療もするようですが、病院というよりも医学研究所のようです。細菌やウイルス、伝染病などの研究、治療の分野ではかなり有名なようです。一方で催眠治療などの心理治療にも定評があります」
「それでネズミに囓られた患者がどうしてここへ行くんだ?」
慎二はいまひとつ納得がいかない。
「このサイトにネズミに囓られた場合の危険性について書いてあって、その場合、この研究所に来れば適切な治療を施すと書いてあるんです」
「つまり、『楽園の種』の目的は、無作為にネズミに囓らせた患者をここに集めるためだっていうのか?」
「そう思います。『楽園の種』はネットの掲示板で嘘の情報を流し、大衆を踊らせたあげく、その不安の解消先としてこの研究所を上げた。つまり、それが目的のはずです」
緑川は小鼻をふくらまし、きっぱりといいきった。
「しかし、ここに集めたあとどうする?」
「そ、それは……」
緑川は口ごもった。
「たぶん、いや、十中八九、洗脳だ」
東平安名が口を挟んだ。
「クスリや催眠を使えば洗脳は簡単に行える。考えても見ろ。得体のしれない細菌に冒され悶え死ぬかもしれないと思っている患者なら、注射やカウンセリングをとうぜんのように受け入れる。さらに相手は医者だと思えば無条件に信頼もするというものだ。しかも通院させることも簡単だし、場合によっては入院という名の監禁だってできる。得体のしれない宗教やイデオロギー団体が洗脳する場合でも、善意の団体などに偽装して相手の警戒心を解くものだ。相手の警戒心が強い場合、洗脳はうまくいかない。相手が医者で、治療という名目ならこれほど好都合なことはない。しかも無理に勧誘しなくても、ネズミに噛まれた連中は勝手に集まってくる。考え得る最強の洗脳システムだ」
東平安名の推理には説得力があった。たしかにそれならば、ネズミを操るなどといった大がかりな計画のわりには細菌兵器を使うわけでもないといった不可解な行動も納得がいくし、これからさらに人間を襲うネズミを大量にばらまけばさらに大量の人間が集まってくる。
「放っておけば大変なことになる。これが成功すれば、おそらく洗脳した信者を使って彼らの身近な人間を引き込む。たとえば、クスリを使えば心理的なパニックを起こさせることなど簡単だ。いい病院があるといって、仲間を病院に引き連れていく。まさにねずみ算式に洗脳が広がっていく。叩くのは今しかない」
『楽園の種』に忠誠を誓う人間をねずみ算式に増やしていく。そのきっかけにネズミを使うとはなんとも皮肉だ。やつらにしてみればブラックジョークのつもりかもしれない。
だがそれはとうてい許されないことであると同時に、放っておくときわめて危険なことだ。
「でもどうするんですか、隊長。なんの証拠もありませんよ」
緑川のいうことももっともだった。黒死館総合医学研究所の連中が、直接ネズミをばらまいたわけでもないだろうし、仮にそうでもそれを証明する手段はない。まさかいくらんでも、研究所の一角でネズミを飼育しているなどという間抜けなことはしているわけがない。
「決まってるだろう? 囮捜査をする。シン、おまえは護衛だ」
その一言とほぼ同時にドアが開いた。ひとりの女性が立っている。
ゆるめのウエーブがかかったふんわりした髪は肩まで届き、顔立ちは派手さこそないが上品に整っている美形で、深窓のお嬢様を思わせる。真っ白なブラウスに膝下までのふんわりとしたスカートと装いも清楚にして優美。いかにもミッション系の女子大生という感じだ。
「彩花?」
慎二は思わずその女の名前を口にした。
東平安名が集めた特殊な力を持つ捜査員のひとりだ。緑川がネット掲示板の説明をしている間に東平安名が呼んだらしい。
「虹村彩花、入ります」
彩花はおとなしそうな顔に似合わないはっきりした口調で挨拶した。
慎二の顔をちらりと見ると、魅惑的な笑みを浮かべた。
「ひさしぶりね、慎二さん」
「あ、……ああ」
常時この部屋に居座っている緑川と違い、彩花は必要に応じて呼ばれる。慎二と同じく一仕事単位で契約しているいわば傭兵で、慎二と組むのは二度目だ。そのとき慎二は彩花といわゆる大人の関係になった。夜、服を脱いだ彩花は少なくとも清楚なお嬢様ではない。男を惑わす妖しい獣だった。
慎二がぎこちなくそっぽを向くと、彩花は悪戯ぽい目を投げかけ、くすりと笑った。
「アヤカ、頼みたい仕事がある」
東平安名が真面目な顔つきでいった。
「はい。なんでしょう?」
緑川がちらっと慎二を見つめ、意味深な笑みを浮かべた。
まさか、こいつは俺と彩花のこともお見通しかよ? 彩花が自分でしゃべったのか? よりによってこいつに。
ある意味それは戦略的だ。緑川に情報を流すことで、公認の仲にしようとしているのかもしれない。けっこうそういうことには不器用な慎二は、惚れた女しか抱くことはないが、そういう手を使ってくる彩花も本気なのかもしれない。いい女はみなしたたかだ。
慎二は内心、苦笑いした。




