第三章 龍王院対鳳凰院 3
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薫子はあたりに人影がないことを確認して、学園の塀をひらりと跳び越えた。
もう夜中の一時だから、さすがに人影は少ないが、もたもたしていると誰かに見つかって通報される恐れがある。
今の薫子はジーンズにスニーカー、スエットと動きやすい格好をしている。いずれも黒っぽい色だ。腰からは捕まえたネズミを入れるための缶をぶら下げ、ポケットにはネズミをしとめるためのつぶてとして、パチンコ玉を十数個入れていた。
『千年桜』は持ってきていない。もし来る途中、警官に呼び止められたら面倒だと思ったからだ。夜中に木刀持って徘徊する女子高生。怪しすぎる。
だがこの仕事に『千年桜』はどうしても必要だ。薫子は念じる。
千年桜よ、来い。
右手の中に木刀が瞬時に現れた。
薫子が呼ぶことで空間を超えてやってくる。千年桜の精がいったことに嘘はない。いつでもどこでも、距離に関係なく呼び寄せられるらしい。アポート能力というようだが、薫子の場合、『千年桜』限定だ。他のものは呼び寄せられない。
薫子は自分の視覚を残しつつ、千年桜の感覚を繋ぐ。
灯りもない深夜の暗闇から、さまざまな光景が浮かび上がった。校庭に植えられている樹や芝生などが発する霊体の姿だ。
植物の霊体は動物のものと違い、短い時間ではほとんど変化しない。霊体の形としては実態の形とほぼ等しい。昼間、日差しの強いときと違い、光合成をしていないせいか、葉の部分の霊体をきらきら輝かせることもなく、静かにたたずんでいる。闇に溶けそうなくすんだ緑色の霊体がかすかに存在を主張しているだけだ。
薫子は意識を校舎の中に向けた。とりあえずなにも感じられない。
残念ながら『千年桜』で感じられる霊体は、比較的近いところのものに限定される。それが『千年桜』の力の限界なのか、受信した弱い霊体を薫子が感知できないだけなのかはよくわからない。いずれにしろ、霊体の強さにもよるが、半径にしておよそ二十メートルの外になると急にわからなくなってしまう。相手がネズミごときならもっと近くでないとわからないかもしれない。
動き回るしかないか。
薫子は覚悟を決めた。とりあえずは、昼間七瀬が襲われたところだ。
ライトも点けず、校舎裏に回る。いちおう宿直の先生なり、警備員なりが校舎にいるはずだからむやみに灯りは使えない。
残念ながらそこからはネズミの霊体らしきものは感じられなかった。
向こうの方がアンテナの範囲が広いのかも?
その可能性はあった。ネズミは臆病だから敵を察知する能力に長けている。
だが泣き言もいっていられない。とりあえず、校舎の中を探すしかないだろう。
薫子はここから校舎に入る裏口のドアを開けようとする。鍵がかかっていた。
おそらく単純なディスクシリンダー錠。
ポケットからピッキング用のツールを出す。まずテンションと呼ばれるピンセットに似た金具を鍵穴に差し込んだ。さらにピックとよばれる細長い金具をつっこむと、かき回す。わずか数秒で開いた。
静かにドアを開け、中にはいると、ドアを内側からロックした。
校舎の中は月明かりが照らす外よりさらに暗い。だが灯りを点ければ、警備の人間に見つかる恐れがあるだけでなく、まっさきにネズミが逃げる。
人工物の固まりである建物の中では、いかに『千年桜』を使おうとも、霊体の位置でまわりの状況を掴むことはできない。逆に生体反応が現れればすぐにわかるともいえるが、移動するのには不便だ。
さいわいにして薫子は夜目が利く。そういう訓練をしてきたからだ。
窓から入るかすかな光を頼りに、薫子は廊下を前に進んだ。
とりあえず当てがあるわけでもないが、動き回るしかない。極力気配を消し、足音を殺した。
しばらく歩き回ったが反応がなく、上の階に行って同じことを続ける。三階までいったとき、ついに前方から望んでいたものが現れた。教室の中の天井裏。二年B組、薫子たちのクラスの隣だ。それも一匹じゃない。
真っ暗な廊下から壁越しに覗き込んでも、眼ではなにも確認できないが、千年桜には霊体が見える。
三匹のネズミが宙に浮いているように感じる。いくぶん透き通り、陽炎のように揺らめきながら。
薫子は息をこらし、極力殺気を押し殺そうとした。逃げられたくはない。
教室のドアを静かに開ける。霊体が反応した。
ネズミの形のまま、いくぶんゆらゆらと揺れていた霊体が石のように固まっていく。必死に気配を殺そうとしているのだ。
薫子は机にぶつからないように注意しながら、忍び足でネズミが固まっている真下に向かう。
三匹の反応はそれぞれだ。今にも逃げだそうとしているやつは、霊体が風にたなびくススキのようにしなる。威嚇しようとしているやつは、霊体が炎のように燃えた。最後のやつは、凍り付いたように見える。徹底的に気配を絶ってやりすごす気だ。
標的は決まった。最後のやつを狙う。こいつは最後まで逃げない。
パチンコ玉による指弾では天井板をぶち抜けない。薫子は真下のポジションをキープすると剣を構えた。
激しく跳躍すると同時に、剣を真上に突きたてた。
弾けた火の玉のようになって、二匹の霊体が散る。
だが天井を貫いた剣先には確かな手応え。同時に凍り付いたようだった霊体が黒ずみ、闇に消えそうになる。
殺したか?
目標は生け捕りだから、手加減はしたつもりだが、天井を貫く必要があったため、ある程度以上には力を弱められなかった。
霊体は弱まったが、完全には消え去れなかった。気を失っただけらしい。
「ラッキー」
思わず独りごちたが、さていったいどうやって回収しようか?
あまり時間は掛けたくない。警備の見回りが来るかもしれないからだ。
ま、あした大騒ぎになるかもしれないけど、いいか?
薫子はもう一度ジャンプすると、剣を振るう。
天井の化粧石膏ボードが一メートル角ほどの大きさで床に落ちた。
ボードは砕け散ったが、その中央にネズミのかすかな霊体が見える。素手で触らないように石膏ボードの破片にネズミを乗っけると、腰の缶のふたを外し、押し込んだ。
さあって、長居は無用ね。
薫子は教室から退散しようとしたとき、壁越しに廊下から霊体を感じた。
ネズミじゃない。人間。それも男だ。
警備員かもしれないと思い、気配を絶つ。
廊下の霊体は筋肉質な大男を形取っている。だがその全身が炎に包まれた。
殺気だ。自分に対して放っている。しかも炎を形取った殺気は今まで感じた誰よりも激しく、なにかが爆発炎上したかのような錯覚を起こす。ある程度の距離を保っているのにはっきりと熱さまで感じた。
薫子は反射的に剣を身構え、後ろずさる。
「何者だ、貴様?」
男がしゃべった。荒々しい声だ。
薫子が中にいることを見抜いている。気配を殺したつもりだったが、わずかな殺気がもれていたのか?
まさかこいつもあたし同様、相手の霊体が見えるんじゃ?
男を包む、霊体の炎は、とりあえず薫子を攻撃しない。相手も様子を見ているという感じだ。
薫子は息を止めたまま、足音を立てずに横に動いた。
それに伴って男も動く。まるでこの暗闇の中、壁越しに薫子の動きが見えているかのように。
やっぱりこいつも、あたしの霊体が見えている。
しかも薫子と違って、霊剣の力など借りていない。『千年桜』のような霊剣を持っていればひとめでわかる。
こいつが敵? 『楽園の種』とかいうやつ? こんなやつが相手なの?
まずい。まともにやったら勝てないかも。
薫子は先手必勝とばかりに剣先で男を突いた。
コンクリートの外壁とちがい、薄い間仕切り壁など、薫子にとっては障子紙のようなもの。
だが男は渾身の突きをかわした。同時に火の玉の形をした霊体が薫子に向かって飛んでくる。
やばい。
薫子は剣を引き、後ろに飛び退く。
一瞬遅れて、拳が壁をぶち抜いて飛んでくる。霊体の動きで攻撃を読んでいた薫子には届かなかった。
ここは逃げるが勝ちね。
こんなことは予期してなかった。きょうの目的は達成された。戦うべきじゃない。
そう判断した薫子は、窓に向かって走る。
幸か不幸か、『千年桜』のおかげで、振り向かなくても真っ赤な炎のような霊体が自分を追うのが見える。
窓を開けると、下を見た。三階だから、さすがにそのまま飛び出せはしない。
さいわい、少し離れたところに樹が見える。なんの樹かは知らないが、高さにして二階分くらいはある。
薫子は迷わず、それに向かって跳んだ。
そのまま枝を掴み、それをクッションにして落下を和らげ、さらに下の枝を掴んだ。そしてもう一度スピードを殺すと、そのまま地面まで降りる。
後ろを見ずに一目散に一番近くの塀に向かって走る。
うわっ、追って来やがる。
巨大な火の玉が迫ってくる。まるでその殺気の炎で薫子を焼き付くさんとせんばかりに。
信じられないが、あの大男も薫子なみに身が軽いということだ。
振り向きざま、パチンコ玉を指ではじいた。いわゆる指弾で頭を狙った。拳銃弾ほどのスピードは出ないが、野球のピッチャーの投げるほどの速さはある。
この暗闇ではまずかわせないはず。というか、見えない。
だが男は一瞬足を止めると、首を横に振ってかわす。
化け物め。
薫子はふたたび男に背を向け、全速で走った。
真後ろから小さな火の玉が高速で飛んでくる。
なにかを飛ばした殺気。こいつも指弾を使う。
霊体に一瞬遅れて飛んできた実弾を、薫子は振り向きもせず、千年桜でたたき落とした。
「ち、化け物め」
男の舌打ちが聞こえる。化け物に化け物といわれたくはない。
そのまま塀の上に飛び乗ると、歩道をまたぎ、近くの道路を走っていた車に向かって跳ぶ。
まるで猫のように身軽に車の背に着地すると、そのまま学園を離れていく。さいわいにして運転者は薫子が飛び乗ったことに気づいていないようだ。
車が走って行くにつれ、ついに薫子にも燃える霊体が感じられなくなった。ようやく距離を取れたってことだ。
相手が薫子よりもはるかに遠くの霊体を感知できればべつだが、同じ程度なら相手も薫子を見失ったことになる。
薫子は、車が信号でとまったときを見計らってさっさと降りると、そのまま走り去った。 さいわいにして男は追ってこなかった。




