93
すっかり朝の日課になってしまった魔法の壺磨き。
いつもは楽しい作業のはずなのに、今日はなんだか気分が晴れない。
たぶん昨日のお父様の言葉がどうにも胸につかえているからだわ。
『エリカがもし無理をしているのなら、殿下との婚約を解消してもかまわないんだよ』だなんて。
あれから帰宅したお父様と話し合ったとき、最後に言われた言葉。
突然のことにびっくりしたけれど、お父様もお兄様も真剣だった。
『理想的な縁組ではあるけれど、破談になったからといっても問題は何もないんだ。確かに民はがっかりするだろうが、エリカに無理を強いるつもりはないよ』
続いた言葉は思いやりにあふれていたけれど、それはきっとわたしが思い詰めないように気遣ってくれたからだわ。
だけど、その言葉はわたしよりも殿下に必要なのよ。
たとえば身分差が原因で殿下が想う相手と一緒になれないのなら、王太子殿下とノエル先輩のお母様のような悲劇になってしまうもの。
妃殿下だって本当はもっと違った人生を歩まれていたかもしれないのに……。
ああ、もう。わたしにはどうしようもない過去をくよくよ考えたって仕方ないわ。
レオンスお兄様の言う通り、これからどうするかを考えないと。
今日は美術があるし、リザベルとゆっくり話せるんだから、悩むのならそのときでいいのよ。
というわけで、午後の美術の時間は自習室に向かった。
課題は人物画だけれど、どこで描いてもいいのよね。
美術を選択していて本当に良かったわ。
「ねえ、リザベル」
「何かしら?」
「わたしね、あれから色々と考えてみたんだけど……」
「何を?」
「愛人って何かしらね?」
「は?」
「世の男性たちの多くに愛人がいるのは理解しているわ。もしくは女性にだって。以前、殿下とカフェに行ったときも、素敵な女性がとある男爵と一緒にいたの。その方もどうやら愛人らしいのよ」
「うん、それで?」
「わたし、子供は宣誓して夫婦になった二人の間に生まれると思っていたけれど、違うわよね」
「……そうね」
今までどうして気付かなかったのか、ノエル先輩のお母様と王太子殿下は宣誓して夫婦になったわけじゃないのよ。
王太子殿下と妃殿下とのことを思えば、愛し合う二人の間ってわけでもなさそう。
「要するに〝花嫁の義務〟って、子供を生むことだと思うのよね」
「ええ、それはわたしもそう思うわ」
「だけどそれが何かは調べてもよくわからないのよ。家の図書室も学院の図書室にも、それらしいことが書かれた本がなくて……」
「そうそう。わたしも探してみたけれど、見当たらなかったわ。でもまあ、どんなに仲の悪い夫婦でも子供はいたりするから、それほど悪いことじゃないわよ」
「そうよね。……うん、そうなのよ。ただね、わたしやっぱり愛人は嫌なの」
「は?」
「世の中には色々な人がいるように、色々な夫婦もいるわ。だから全てを否定するわけじゃないけれど、わたしの結婚生活には嫌なの。愛人ってただ愛と語り合ったり、キスをするだけの相手じゃないみたいだし」
「ああ、なるほど」
「それに愛人じゃなくても、結婚相手に別に好きな人がいるのはつらすぎるわ。たとえ愛し合っていなくても、せめてお互いを敬っていたいの」
「……そうね、それは大切よね。だけど、エリカは愛し愛される生活が夢だったんじゃないの? 今の言い方だと、まるで殿下との結婚を本気で考えているみたいよ?」
要領を得ないわたしの言葉もリザベルは真剣に聞いてくれる。
だからわたしもきちんと答えたい。
そう決意してすっと息を吸った。
「――考えているわ」
「そうなの!?」
思い切ったわたしの返答に、リザベルは驚いて目を見開いた。
当たり前よね。わたしも驚いているもの。
だけどここ最近ずっと考えていたこと。
「わたしね、この学院に入学して、殿下たちと出会って、たくさんのことを学んだわ。離宮への旅も色々なことがあって、この国の人たちに幸せになってほしいって心から願うようになったの。そのためには殿下たちの力が必要で、わたしもその助けに少しでもなれればと思うわ。でも……殿下はどうなのかしら?」
「どうって?」
「以前、殿下は自分は王の器じゃないって言っていたけれど、そんなことないわよね。ううん、殿下でなければと思うほどよ。だけど殿下は自由に生きたいとも言っていたの。それなのに自分を犠牲にしてまでこの国のために生きようとしているわ。きっとわたしがこのまま婚約を解消しなければ、殿下は約束を守るためにわたしと結婚すると思う。でもそれじゃ、殿下の気持ちは? 好きな人がいて、その人を諦めて幸せになれると思う? それならいっそ、わたしは殿下の恋を応援するべきじゃないのかしら。王太子殿下とノエル先輩のお母様のようにはなってほしくない。だって、先輩もヴィクトル殿下もそれで……」
話しているうちに感情が溢れてきて止まらない。
自分でも何を言っているのかわからなくなってくる。
もっと冷静になるべきなのに。
一度口を閉じて、それから大きく深呼吸。
リザベルはそんなわたしをじっと見ていたけれど、スケッチブックを膝に置いてゆっくり話し始めた。
「エリカの言いたいことはわかるし、わたしもそう思うわ。だけど結論を出す前に、エリカは殿下としっかり話し合うべきよ」
「殿下と……」
「ええ。エリカはいつも自分の胸の内に溜めて、悩まなくていいことまで悩んでいるでしょう? それはエリカの悪い癖よ。そんなところだけ引っ込み思案が治ってないのね」
「……そうかも。わたし、未だにみんなに甘えているんだわ。今まで何も言わなくてもいつも誰かがわたしの希望を酌んで叶えてくれたから……。それに家族には遠慮なんてしないし」
そんなことさえもリザベルに言われて気付くなんて情けない。
ギデオン様のことだって気付いてくれるのを待っていただけで、失恋したのだって口に出せず自己完結しただけ。
本当はただ怖かっただけなのに。
今の関係を壊したくなくて、気まずい思いをしたくなくて。
殿下に対してもいつも受け身だったわ。
そこまで考えたとき、終鈴が鳴って我に返った。
リザベルはさっさと片付けを始めている。
「今日はどうするの?」
「お兄様に用事があるから研究室に行くわ」
「あら、大丈夫?」
「大丈夫よ。護衛がいるもの」
「そう。でも気を付けてね」
「ありがとう」
教室でリザベルと別れ、研究室に向かう。
さり気なくいる護衛や以前より増えた警備の人たちとすれ違って研究室に着くと、ドアをノック。
すると迎えてくれたのはギデオン様。
「ギデオン様!?」
「こんにちは、エリカちゃん」
挨拶しながらギデオン様が部屋へと招き入れてくれる。
歩を進めて室内を見回してもお兄様もルイの姿もない。
「ジェラールは先ほど先生に呼ばれて実験室に行ったんだ。そんなにはかからないと思うから待っていてほしいと伝言を残してね。ルイもいないのに、僕はどうやらジェラールにかなり信用されているみたいだ」
「――もちろんです」
冗談めいたギデオン様の言葉にもちゃんと笑って応えることができた。
うん、もう大丈夫。
ほっと息を吐くと、ギデオン様がくすりと笑う。
「エリカちゃんは僕がぼんやりしている間に大人になったんだね」
「え?」
「僕にとってのエリカちゃんはとても小さくて儚くて、守ってあげないと壊れてしまうようなか弱い存在だった。そんなエリカちゃんをずっと大切な妹として思ってきたんだ。だけどこの学院で再会したエリカちゃんはとても強く輝いていて、眩しいのに目が離せなくて、でも僕には近づくことができなくて……悔しかったな」
「そんな、そんなこと……。わたしはずっと、ギデオン様が好きでした。小さい頃からずっと……初恋だったんです……」
ギデオン様の微笑みは少し寂しそうで、思わず口をついて出たのは言うはずのなかった告白。
引っ込めるにはもう遅くて、恥ずかしくて顔を上げられない。
すると、ギデオン様の立ち上がった気配がして、次にはわたしの足元に膝をついていた。
「エリカちゃん、どうか僕を見て」
そう言われて恐る恐る視線を上げる。
膝の上には握り締めたわたしの手に重ねられた大きな手。そして温かなチョコレート色の瞳。
「ありがとう、エリカちゃん。今のは、僕にとって最高に嬉しい言葉だよ。たとえそれが過去への言葉だとしても」
「ギデオン様……?」
「今のエリカちゃんの心の中には、別の人がいるよね?」
「それは……」
問われて目を逸らしてしまったのがわたしの答え。
ギデオン様はそんなわたしの手を、まるで励ますようにぎゅっと握ってくれる。
「他の男が相手なら僕は戦ったよ。だけど彼なら、今は心から応援できる。あの時は彼と会わせないほうがいいと思ったけれど……。エリカちゃんはとても傷ついて、思い詰めていたからね」
「あの時……?」
「王妃様の庭園で催されたお茶会だよ」
「あのお茶会は……わたし、あの時のことはまだ思い出せなくて……」
「そうか……。でも大丈夫。何があっても彼がエリカちゃんを傷つけることはないよ。僕のせいで遠回りをしてしまったかもしれないけれど、彼ならきっとエリカちゃんを幸せにしてくれる。そして、エリカちゃんも彼を幸せにできるから」
ギデオン様のお話は思いがけないもので、続いた励ましの言葉は嬉しいはずなのに、胸がぎゅっと苦しくなってしまった。
その苦しみから逃れるようにふっと息を吐き出す。
「わたし……ヴィクトル殿下が…好き、みたいです」
「うん」
吐息と一緒にこぼれた気持ちはずっと気付かないふりをしていた恋心。
ギデオン様があんまりにも優しく頷いてくれたから、今度はなぜだかおかしくて笑いが込み上げてきた。
「やっぱりエリカちゃんは笑ってる顔が一番可愛いね」
「――ありがとうございます、ギデオン様」
ふふっと笑うと、にっこり笑顔が返ってくる。
こんなに穏やかな、温かな気持ちでギデオン様と過ごせる時が来るなんて。
これがきっと恋が終わったとき。
そして、恋が始まるときなんだわ。




