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「久しぶりだね、とても」
「ノエル先輩!」
思わず大きな声を出してしまって、慌てて口を押さえると、今度は持っていた本を落としてしまった。
ここは第一図書室で、ノエル先輩に会うことも予想できたのに。
なんてこと。本が傷んでないといいんだけど。
わたしがあたふたしているうちにノエル先輩が本を拾い上げてくれた。
だけど本のタイトルを見て眉を上げる。
「また借りるの? この『心の輪舞曲』がよほど気に入ったんだね」
「いえ、これは、勉強というか……その……せ、先輩は恋をしたことがありますか?」
「うん? その質問は僕にとって、ちょっとショックだな」
「あ……すみません」
「いや、別にいいけどね」
女たらしで有名なノエル先輩は〝恋多き貴公子〟とも呼ばれているのに、失敗したわ。
その気持ちが顔に出てしまったのか、先輩はわたしを見て小さく笑う。
「もちろん、恋したことはあるよ。でも叶ったことはないな」
「そうなんですか?」
「うん。僕はいつも他に好きな人がいる人を好きになってしまうから……。横恋慕ってやつだね」
「横恋慕……って、すごく苦しいですよね? 好きな人が別の人を好きだなんて」
「……それでエリカさんは『心の輪舞曲』をまた読もうと思ったの? 苦しいから?」
「ち、違います。今のは一般論というか……」
ノエル先輩の意外な告白にびっくりして、なぜか同調してしまっていた。
よく知りもしないのに、何を言っているのかしら。
「そうだね。一般的には横恋慕……というよりも、片想いは苦しいよね。もちろん幸せなこともたくさんあるけど。だけどやっぱり苦しくて悲しい」
そうそう。そうなのよ。
わたしもギデオン様のことは、お会いできると嬉しくて、お話できると浮かれてしまって、夜寝る前には勝手に一緒の将来を妄想したりして幸せをたくさん感じていたわ。
だけどご病気だと知ってからは眠れないほどにつらくて、この先に望みがないと気付いたときには苦しくて悲しくて、いっぱい泣いたもの。
「ねえ、エリカさん。恋が終わるときって、どんなときだと思う?」
「恋が終わるとき?」
先輩に問われて思わず顔をしかめてしまったのは、失恋したばかりのあの気持ちを思い出したから。
それでもあのときほどの悲しみはなくて、今はもう胸がちょっと苦しいだけ。
自分のそんな変化に気付いて驚く。
あんなに大好きだったギデオン様のことを想っても、悲しみよりも温かい気持ちになれるなんてすごく不思議だわ。
ふと目を上げると、ノエル先輩はじっとわたしを見つめて微笑んでいた。
その表情はすごく優しくてどきどきしてしまう。
どうしよう。わたし、すごく浮気っぽいのかも。
「恋が終わったとき、その人のことを想うと、苦しみよりも悲しみよりも、温かな優しい気持ちになれるんだ。それからほんのちょっとだけ切ないかな」
「切ない……」
「もちろん、きれいさっぱり忘れ去ってしまうこともあるけれど……。でもきっと恋が終わると、愛になるんだよ。とても穏やかな愛にね」
「愛、ですか?」
「うん。愛にも色々な形があるよね? あ、ちなみに愛が終わるときのことは考えないほうがいいよ。怖いから」
ノエル先輩はくすくす笑いながらわたしにぐっと近づいた。
気が付けば本棚に両手をついた先輩に閉じ込められていて身動きが取れない。
びっくりしてすぐ目の前の整った先輩の顔をただ見つめるだけ。
「エリカさんは、恋が始まるときって、どんなときだと思う?」
「恋が、始まるとき?」
「そう。たとえば僕は今――」
「何してるんだ?」
この状況と新たな質問に戸惑っていると、厳しい声が割って入った。
突然現れたのは殿下で、レリアの結婚式以来ちゃんと話していないから焦ってしまう。だって顔を合わせづらいんだもの。
何か言わないと、と口を開いたのに言葉が出てこなくてあわあわするわたしとは違って、ノエル先輩は平然としたまま動こうともしない。
「やあ、ヴィクトル。邪魔をしないでくれないか。今、エリカさんを口説こうとしているところなんだから」
「エリカさんは僕の婚約者だ、ノエル」
「だから?」
「だから……またノエルと噂が立てば、妃殿下派の連中が活気づくだろう? だから、やめてくれないか?」
「それがお前の言い分か? くだらないな。僕とエリカさんの噂なんて、前からあるだろう? 今さら誰も驚きはしないよ」
これは王子様二人がわたしを巡って争う、乙女なら誰もが憧れるシチュエーションだわ。
だけどちっともときめかないのは二人とも本気じゃないから。
ノエル先輩はからかっているだけだし、殿下は政略的に考えてのこと。
二人のやり取りを聞いていると、慌てたのが馬鹿らしく思えてくる。
殿下もいくら不利になるからってそんなに嫌そうな顔をしなくてもいいのに。
わたしが殿下の婚約者として失格なのはちゃんとわかっているし、それでも妃殿下派を抑えるために婚約せざるを得なくて我慢しているのは知っているわ。
時々ため息をついているのは、わたしにがっかりしているからだって。
今度はだんだん腹が立ってきて、本を持ったままどんっとノエル先輩を勢いよく押した。
先輩はびっくりしたのか、軽くよろめいて向こう側の本棚に背をつく。
「兄弟ゲンカはわたしのいないところでやってください。では、さようなら」
本当に男子ってどうしようもないんだから。
あんなふうにケンカを始めるなんて、失礼よ。
ちらりと振り向いても、殿下も先輩も追って来る様子はない。
やっぱり失礼よ。ふん。
貸出手続きをしている間に、男子生徒に扮していた護衛が先に廊下に出て行った。
そういえば今までの会話、聞かれていたのかしら。
まあ、いいわ。別にわたしは何も困ることは言っていないもの。
ぷりぷり怒ったまま馬車に乗り込んで、ノエル先輩が殿下のことを名前で呼んでいたことに気付く。
もちろん殿下はすぐに気付いていたはず。
ノエル先輩はいつもどこまでが冗談でどこからが本気なのかわかりづらくて、わたしの気持ちは簡単に読むのに何を考えているのかは教えてくれない。
今のもどういうつもりだったのかよくわからないまま。
うむむむ。恋が終わるとき、か……。
ギデオン様へのこの気持ちは切なくて、でも温かくて、愛だと言われればすごくしっくりできる。
でもそれが、恋が終わったからだなんてそんなのおかしいわ。
恋と愛の違いは何? 愛の形にも色々あるっていうのはわかるけれど……。
それに、恋が始まるとき、というのは?
うむむむ。急に殿下が現れたから聞きそびれてしまったわ。
殿下は図書室に何か用事があったのよね?
ノエル先輩に会うためだったのかも。
そうよね。わたしに会いに来たのだったら、追ってきてくれたはずだもの。
よくわからないけれど、また腹が立ってきて、屋敷に着いたときにもぷりぷりしていた。
だけど出迎えてくれたクレファンスから、デュリオお兄様が帰ってきていると聞いて怒りも消える。
ずっと、お兄様には訊きたいことがあったのに、忙しそうでなかなか機会がなかったのよね。
急いで着替えると、お兄様のいる書斎へのドアの前に立って、汗ばむ手をこっそりドレスで拭いた。
これはとても大切なことだから。知りたくなくても聞かないと。
頑張れ、わたし。覚悟を決めなさい。




