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「ギデオン様!」
「エリカちゃん、大丈夫かい?」
「っえ、ええ、……あの……」
今もまだ心臓はばくばくしていて冷や汗が止まらない。
だけどギデオン様に何かあったとは思われたくなくて、それなのに上手く返事ができなくて慌ててしまう。
「誰、君?」
そこへ後ろからユリウスさんに声をかけられて、びくりとしてしまった。
そんなわたしを見て、ギデオン様は気遣わしげだった表情を険しくする。
初めて見るその表情に驚きはしたけれど不思議と怖くはなくて、伸ばされた腕に任せて傍へと寄った。
するとギデオン様はわたしを庇うようにユリウスさんから遠ざけてくれる。
「女性を怯えさせるような輩にわざわざ名乗るつもりはないよ。――さあ、行こう。エリカちゃん」
「待てよ。このまま僕を無視して許されると思うのか?」
「ここはケインスタイン王立学院だ。国王陛下の名の下に、生徒はみんな平等なんだよ。たとえそれが他国の王子様でもね。もちろん、お坊ちゃんでもそれくらいは知っているだろう?」
「何を――」
まるで嘲笑するように応えたギデオン様は、何か言いかけたユリウスさんを無視してその場から離れた。
その話し方も初めて聞くきついものだったけれど、わたしの背に添えられた手はとても優しくて安心できる。
だけど、このままギデオン様を巻き込むわけにはいかないわ。
「ギデオン様、今の方は――」
「バルエイセンの第三王子だって? アルドから聞いたよ。そう言えば、エリカちゃんは文化祭実行委員に立候補したんだってね。僕も二学年のときに経験しているから、何か困ったことがあればいつでも頼ってくれていいからね」
「あの……ありがとうございます」
「いや、まあ、僕はどちらかと言うと問題の多い生徒だったから、あまり参考にはなれないかもしれないけど、少しは助けになるはずだよ」
「まさか……」
「本当だよ。サムエル先生や他の先生方に聞いてみればよくわかるんじゃないかな。両親にも何度知らされて怒られたか……」
「まあ……」
「だけど一番怖かったのはジェラールだよ。迷惑もたくさんかけたからね。今でもあの頃のことを持ち出されると弱いんだ」
思いがけない話にわたしの口からは間抜けな言葉しか出てこない。
そして気が付けば、重く沈んでいた心は軽くなっていた。
強張っていた体からも力が抜けて自然と笑いがこぼれる。
「……ジェラールお兄様がそのようにお怒りになるなんて、ギデオン様はいったい何をなされたのですか?」
「それは秘密だよ。エリカちゃんに話したなんて知られたら、また怒られてしまう」
「ええ?」
わたしがくすくす笑うと、ギデオン様は小さく息を吐いていつもの穏やかな笑みを浮かべた。
きっとギデオン様はわたしの気持ちを全部わかった上で、話題を変えてくれたんだわ。
「ギデオン様、ありがとうございます」
「ん? いや、図書室の窓から侯爵家の馬車が見えてね。それで久しぶりにエリカちゃんに会いたくなって急いで下りてきたんだ。でもゆっくりはできないね?」
馬車寄せでトムが手持ち無沙汰に待っている姿を見て、ギデオン様は残念そうに呟いた。
トムには遅くなるとは伝えてもらっていたけれど、待たせ過ぎたものね。
「お嬢様、お帰りなさいませ。――あ、ギデオン様、お久しぶりでございます」
「久しぶりだね、トム。僕がエリカちゃんを引き止めてしまったせいで、待たせて悪かったね」
「いいえ! 滅相もございません!」
ギデオン様の口からさらりと出た嘘はトムに心配をかけないため。
直立不動で畏まるトムに苦笑しながら、ギデオン様はわたしを馬車へ乗せてくれた。
「また侯爵家に遊びに行ってもいいかな?」
「ええ、もちろんです! 両親も喜びます!」
もしギデオン様がお家に遊びに来てくれるなら四年ぶり。
それはきっとお元気になったからよね?
そう思うと嬉しくて嬉しくて、別れの挨拶の後も見送ってくださるギデオン様に、門を出るまで車窓から手を振った。
子供っぽいけれど今さらだもの。
明日はお兄様にお会いしてちゃんと訊いてみないと。
ふうっと大きく息を吐いて座席に背を預ける。
すると高揚していた気持ちも落ち着いてきて、先ほどのことを冷静に考える余裕がでてきた。
あの時、ギデオン様がいらっしゃらなくてもきっと、何もなかったのだとは思う。
だけどトムには心配をかけたでしょうし、こうして笑うこともできなかったことは確かだわ。
ギデオン様はわたしが困っているといつも助けてくれる。
五年前と同じ。
何も訊かないでくれる優しさと、笑わせてくれる温かさが嬉しい。
それに今はリザベルもいる。
だから大丈夫。くじけたりなんてしない。
明日もちゃんと登校できるわ。
ユリウスさんについてはわけがわからないけれど、知りたいとも思わない。
ただ二人きりにならないように、学院内でも油断しないようにすればいいのよ。
* * *
「――何それ、最低じゃない!」
翌朝、登校してすぐにリザベルに事の顛末を話すと、激しい反応が返ってきた。
こんなに怒ったリザベルを見るのは初めてかも。
それがなぜか嬉しくて笑いが込み上げてくる。
「笑いごとじゃないわよ、エリカ」
「ええ……そうね。でも……」
「エリカ……」
笑っていたはずが、おかしなことに涙が溢れてきそうになって、慌ててハンカチで目を押さえる。
自習室に移動していてよかった。
「ごめんね、リザベル。泣いたりなんてして。でも……」
「謝る必要なんてないわよ。エリカは何も悪くないんだから」
昨日のことはお母様にも話せなくて、本当は誰にも知られたくなかった。
だけどやっぱりリザベルには相談してよかった。
ぎゅっと抱きしめてくれるリザベルの優しさに甘えてそう思う。
「……許せないわ」
「リザベル?」
しばらくしてリザベルが怒りに震える声で呟いた。
驚いて顔を上げると、リザベルは不機嫌に眉を寄せている。
「だけどまだ何もできないわね。残念だけど。とにかくエリカは絶対に一人にならないこと。昨日は幸いギデオン様がいらっしゃったから良かったけれど。とにかく、エリカが話してもいいって思える人に協力を頼みましょう?」
「でも……あまりみんなに迷惑をかけるのも……」
「馬鹿なこと言わないの! 迷惑なわけないでしょう!? こういう時に女の子は引け目を感じるものじゃないの! 弱気になってはダメよ!」
「わ、わかったわ……」
今までにないリザベルの剣幕に押されて頷くことしかできない。
そんなわたしに気付いて、リザベルは表情を変えた。
「ごめんなさい、エリカ。傷ついているエリカに怒鳴るような真似をして。わたしって最低ね」
「ううん。リザベルは最高よ。だって、元気が出てきたもの」
「そう……なら良かった」
いつもの笑顔を浮かべたリザベルにわたしも微笑み返す。
そこで予鈴が鳴ったので教室へと向かいながら小声でリザベルが提案した。
「まず、ヴィクトル殿下には相談しましょうね? 何かすぐにでもいい案を持っているかもしれないもの」
「ええ……。そうね」
頷いたものの、殿下に打ち明けるのはちょっと情けなくて恥ずかしい。
殿下にまた警戒心が足りないって馬鹿にされたら、立ち直れそうにないわ。
わたしだってちゃんと警戒するべきだってわかってたんだから。
でもまさか学院内であんなふうに詰め寄られるとは思っていなかっただけ。
よし。笑われたら笑い返してみせるんだから。
――そう思っていたのに。
この日もまた、殿下はマティアスとともに欠席だった。




