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「エリカ、待って。あなたが部屋から一人で出るなんてダメよ」
使命に燃えてドアノブに手をかけたところで、リザベルに引き止められてしまった。
確かに、殿下の婚約者が一人で出歩くなんてありえないわね。
これは離宮を抜け出した時にわたしの姿が見えないことを不審に思われないためにも必要だから我慢もできた。
本当なら狭い馬車の中ではなく、たまには馬に乗って移動だってしたいのに。
だけど今はお淑やかに振舞うよりも大切なことがあるわ。
やっぱり殿下に早く伝えたいと意気込むわたしに待つようにリザベルは手で合図すると、奥様に向かってにっこり微笑んだ。
「申し訳ないけれど、エリカが呼んでいると近衛隊長に伝えてくれないかしら?」
「は、はい。かしこまりました」
リザベルの頼みに奥様は少し不安そうにしながらも急いで出て行く。
その背を見送って、リザベルは自分が座るソファの空いている場所をぽんぽんと叩いた。
「エリカ、ひとまず座りなさいよ。心配しなくても、あなたがレオンス隊長を呼べば何事かと殿下もいらっしゃるわ」
「確かにそうですよね。殿下は本当にエリカさんのことを大切に想っていらっしゃいますもの」
「そうかしら……」
嬉しそうに同意するコレットさんに微笑んで応えながら、リザベルの隣に腰を下ろす。
殿下は品行方正なふりだけでなく、最近ではわたしを好きなふりまでしているから、みんなすっかり騙されているわ。
それはもう、本物の役者も真っ青なくらいの演技力よ。
だけど、いつも偽りの姿でいるなんて疲れないのかしら。
一番心を許せるはずのご家族の前で一番気を張って過ごしているなんて……。
だからマティアスは従兄弟同士という関係以上の大きな存在なのかも。
「ねえ、エリカはエサルドの街が誰の領地かは知っている?」
「え?……エサルド……あ、ええ。王太子妃殿下よね?」
もやもやと殿下のことを考えていたせいで、リザベルに話しかけられてもすぐには応えられなかった。
でも頭が回り始めるとその意味にはっとする。
まさかそんなこと――。
「エリカ! どうした!?」
勢いよく入って来たレオンスお兄様の大声に押されて、考えていたことがどこかへ消えてしまった。
その後ろからは申し訳なさそうに殿下とマティアスが顔を覗かせる。
お兄様、たとえ妹の部屋でもノックはして欲しいわ。
しかも他の女性もいるのに失礼よ。
「お兄様……お呼び立てしてすみません。お訊ねしたいことがあるのですが、あまり人には聞かれたくなかったので――あっ、殿下はどうかいらっしゃって下さい」
わたしの言葉に素直に従って出て行きかけた殿下を引き止めると、ちょっとびっくりした顔で振り返った。
でもすぐに了承の印に頷いて、空いている席に腰を下ろす。
するとなぜかコレットさんが立ち上がった。
「わたし、少し散歩してきますね」
「え? コレットさん、気を使わないで。それに一人では危ないわ」
「ご心配には及びません。ここのお庭を歩くだけですから」
くすりと笑ってから、コレットさんは殿下達に軽く頭を下げて出て行ってしまった。
コレットさんとはあの更衣室でのことからかなり仲良くなって、今回の旅でも帰省ついでに一緒に来てもらったけれど、やっぱり殿下達の前では緊張するみたい。
こういう時にはいつも遠慮して席を外してしまうのよね。
うーん。申し訳ないわ。
「それで、何なんだ、エリカ?」
コレットさんだけでなく、控えていた侍女も部屋から出て行くと、レオンスお兄様が痺れを切らしたように問いかけた。
この騒ぎの中でもユニス伯母様はすっかり寝入っている。
「あの、お兄様……少し小耳に挟んだのですが、先ほどこの地の名代の方から使者が来たと……」
「ああ、出発が遅れているから気になったのか? エリカは心配性だからな。目の前を横切る蟻の行列が襲ってくるかもしれないと泣いたのはいつのことだったか……」
「……お兄様。それはもうずっと昔の話です」
小さい頃はあの黒い一団がどうしても怖かったのよ。
それにしても、どうしてこう身内って子供の時の恥ずかしい話を平気でするの?
しかもレオンスお兄様は、お母様が「あの子はデリカシーをわたしのお腹に忘れてきたみたいね」って嘆いていたくらいだもの。
殿下もリザベルも同情してくれなくても、笑っていいのよ。マティアスみたいに。
「使者が伝えに来たことによると、クレウス川に架かる橋がこの春の鉄砲水で流されてしまったらしい。それで明日からの行程を変更するために話していたんだ。知らせるのが遅くなって悪かったね」
無神経なお兄様の代わりに説明してくれた殿下のお話は予想通りのもの。
だから切り出すのに迷う必要はなかった。
「その橋ですが、この一年半で三回も流されたと聞きました。それって異常ではないですか?」
「三回? 一年半で?」
「……その報告は受けていないな」
わたしの問いかけにレオンスお兄様とマティアスは驚きの声を上げたけれど、殿下はそれよりも怒りの方が大きいみたい。
応えた声は鋭くて、以前街で悪漢に絡まれた時を思い出してしまったほど。
「あのダウツとか言う使者を問い質してみましょう」
「いや、待ってくれ。おそらく彼からは何も得られないだろう。それよりも、エリカさん」
「は、はい」
「その情報はここのおかみさんから聞いたの?」
「あの……ええ、そうです」
お兄様の提案に殿下は首を横に振ると、わたしに質問を向けた。
それでついびくっとしてしまったせいか、続いた殿下の声はとても優しいものに変わっていた。
「ヴィクトル、さすがに三度も橋が流されて我々の耳に入ってこないのはおかしい。誰かが報告を止めているんだ」
「ああ、間違いないな。もし名代とその者が共謀しているのなら、補助金を懐に入れることもしているだろう。それに……。まあ、とにかく早急に調査させなければ」
お兄様が奥様を呼びに部屋から出て行くと、殿下とマティアスは難しい顔で相談を始めた。
その間、リザベルと静かにお茶を飲みながらもその会話に耳はしっかり傾ける。
『淑女は殿方のお仕事に関心を持ったりはしないもの』なんて言われているけれど無理よ。気になるんだもの。
それからレオンスお兄様が不安そうな奥様を連れて部屋に戻って来ると、あれやこれやと問答が繰り広げられた。
その内容は橋についてで、当たり前だけれどこれからの行程については何もない。
口を出すべきじゃないのはわかっているけれど、やっぱり我慢できないわ。
「殿下、あの……差し出がましいことをお訊ねいたしますが、明日からの行程はどうなさるのでしょうか?」
「それはやはり迂回するしかないだろうね。橋の復旧にまだあと数日はかかるらしいから」
そうよね。当然そうなるわよね。
だけど、このまま他人任せになんてしたくない。だって、知ってしまったんだもの。
「わたしは橋を渡ってパルサットへ行きたいです。もしこのままわたし達が迂回してしまったら、パルサットの街の人達は見捨てられてしまったと思うかもしれません。ただでさえ街は活気を失くしているそうなのに、追い打ちをかけたくはないのです。それにわたし達が復旧した橋を渡って安全だと旅の人達にも伝えられれば、また街道も活気づくのではないでしょうか?」
「……予定より離宮への到着は遅れるだろうけれどいいの?」
「ご迷惑をおかけすることは心苦しいですが、わたしはかまいません」
「そう。じゃあ、そうしようか」
目を逸らすことなくはっきり自分の気持ちを伝えると、殿下はにっこり笑って応えてくれた。
ほっとわたしが息を吐くのと同時に、マティアスが渋い顔で口を開く。
「ヴィクトル、本当にいいのか?」
「そもそもパルサットの街を通る予定だったんだ。旅にアクシデントは付きものだし、遅れることだってあるよ。それより、レオンス」
「はい、殿下」
「お前の隊は確か、兵士の訓練も取り入れていたな?」
「はい」
「では、土木作業も可能なんだな?」
「もちろんです」
「では、明日から橋の復旧工事に加わってくれ」
「かしこまりました」
橋の復旧についてどんどん話が進んでいく中で、奥様だけが不安げな顔をしていた。
きっと少し愚痴っただけのつもりが、大事になってしまって名代に咎められたりしないか心配なのかもしれない。
「あの、殿下……」
「うん? どうした?」
「これはわたしの我が儘です。わたしがラベンダーで有名なパルサットへ行きたいと、今の時期とても美しいと評判のラベンダー畑を見たいと我が儘を言っているのです。使者の方にはそう伝えて下さいませんか?」
「――ああ、いいよ。僕はエリカさんの望むことは何でも叶えてあげたいほどに、エリカさんを熱愛しているからね」
その言葉にみんなが驚いている間に立ち上がった殿下は、一番びっくりしているわたしの頬に軽くキスをした。
って、え?
いいえ、違う。今のはふりだけ。
だって、触れていなかったもの。ただ、吐息が頬に……? あら? え?
混乱するわたしの耳に、お兄様のせき込む苦しそうな声が聞こえて、それからドアの閉まる音が聞こえて、あっという間に静かになった。
でもそれも一瞬――。
「お嬢様! ありがとうございます!」
感極まったような奥様の声に我に返ると、その奥様がわたしの足元に膝をついていた。
「お嬢様の我が儘などとおっしゃって、あたしを庇って下さったのでしょう? しかも橋を渡ってパルサットの街へ向かって下さるなんて! あの街にはあたしの両親と弟夫婦がここのような宿屋をしているのですが、最近ではすっかり客足が遠のいて……。でもこれできっと救われます。街のみんなもどんなに喜ぶか……。本当にありがとうございます!」
「い、いえ、そんな……」
ラベンダー畑を見たいのは本音だから、まさかそんな我が儘にお礼を言われるなんて。
リザベル、笑っていないで助けてよ。
ずっと悪役ばかりしてきたから、感謝されるのも、熱愛されるのにも慣れていないんだから!




