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思い通りに進まない苛立ちを抑えて隣に立つ殿下を見上げると、その圧倒的存在感に何も言えなくなってしまった。
これが王者の風格というものかしら。
ノエル先輩には人を惹きつけて止まない魅力があるけれど、今の殿下には人々が畏敬の念を抱かずにはいられない何かがあるもの。
だとすれば、今までの親しみやすさはクラスメイトとしての見せかけ? それともこちらが見せかけ? もしくはどちらも本物?
悶々と考えるわたしを殿下はちらりと見てからロレーヌさんへと向き直った。
「レゼルーさん、あの時は君にもサジュマン伯爵夫人にも、きちんと挨拶をせずに申し訳なかったね。心配する侯爵夫人を待たせたくなくて、仰々しくはしたくなかったんだ」
「い、いいえ。そのようにもったいないお言葉を頂き、恐縮でございます。どうか、お気になさらないで下さい。きっと叔母も同じことを申しますわ」
「そうか。それなら、僕も気が晴れるよ。夫人にはどうかよろしくと伝えてくれるかな?」
「はい、殿下。確かに承りました」
ロレーヌさんの顔は真っ赤だし、腰を少し落とした足も震えている。それでもしっかり殿下に応えている姿はさすがとしか言いようがない。
わたしも見習わないと。
そんなよくある社交辞令が殿下とロレーヌさんとで交わされる間、みんなが呆気に取られていた。
それも当然よね。わたしとロレーヌさんの見世物的なちょっとしたいざこざから、こんな状況になっているんですもの。
それに、わたしと殿下が……って、そうよ!
「でっ――」
「黙って」
あの時、殿下と一緒にいたことが知れ渡ってしまったらどうなるか、今さらながら気付いて慌てたわたしを、殿下が冷静に遮る。
わたしはいったいどれだけの迷惑をかけているのか、そう思うともう何も言えず、囁くような殿下の声におとなしく従った。
殿下はわたしの反応に構えていたようだけれど、すぐにふっと軽く息を吐くとノエル先輩に笑顔を向ける。
「兄上、お久しぶりです。こうして同じ学舎にいるというのに、なかなかお会いできませんね。できれば、もう少し頻繁にお会いしたいのですが」
「あまり無理をおっしゃらないで頂きたい、殿下。では、私の用事は終わりましたから、これで失礼致します」
学院内では身分の上下は関係ない。
だけど殿下のことだけは、みんな敬称で呼んでいるし、親しくしながらもどこか距離を置いている。
同じ王族のマティアスさんは一般の生徒とも軽い冗談を言い合っている姿を見ることもあるのに。
兄であるノエル先輩でさえこんなに畏まった態度で接するなんて、ちょっと寂し過ぎるんじゃないかしら。もちろんお二人は難しい関係だし、みんなの目もあるから仕方ないのでしょうけど。
ノエル先輩の背中を見送る表情には何も表れていないけれど、勝手に想像していたわたしに視線を戻した途端、殿下は爽やかに微笑んだ。
それはいつもの笑顔で、いつもの親しみやすい殿下。
「ちょっと二人だけで話がしたいんだけど、時間は大丈夫かな?」
「え?」
「あら。でしたら、侯爵家の御者には少し遅くなると、わたしが伝えておきますわ」
「ありがとう、アジャーニさん。じゃあ、僕達のことで騒がせてしまって、すまなかったね。みんな、気を付けて帰ってくれ」
「ちょっ――」
「ほら、エリカ。心配しないであとは任せて」
これで解散だとばかりに殿下は有無を言わせぬ口調でみんなに告げると、教室の隅に立っていたマティアスに軽く頷いてから、すたすたと出口へ向かった。
その間、一切フェリシテさんには目を向けず、完全に無視したまま。
それは殿下からのこれまでの友情を終わらせる絶縁宣言にも等しく、フェリシテさんは真っ青になって前を向いたまま一言も発することはなかった。
帰り支度を再開したみんながフェリシテさんを避け、遠巻きに囁き合う声が聞こえる。
(本当にこれで良かったのかしら……)
リザベルに促されて出口に向かいながらも迷い、ついフェリシテさんへと目を向けた。
すると、返ってきたのは背筋の凍るような鋭い視線。
(こ、怖い……)
どうしてこれほどまでにフェリシテさんに悪意を持たれてしまったのかがさっぱりわからない。
すっきりしないまま廊下に出て、みんなが帰る方向とは違う場所にある自習室に入った殿下を追いかける。
「殿下、フェリシテさんのことですが――」
「座った方がいいよ」
「え?」
「さっきまでずっと立ったままだったんだから、座った方がいい」
「……ありがとうございます」
戸惑いながらも素直に座ると、殿下はふっと微笑んで窓枠に腰掛けた。
今のは本物の笑顔?
これはひょっとして、わたしが美術の時間に倒れてしまったことを知っていて気遣ってくれているのかもしれない。
そう思うとちょっと嬉しくなって、緊張していた体から力が抜ける。
「フェリシテさんのことは気にする必要はないよ。彼女は自分が何をしているのか、はっきりと自覚して行動していたんだろうから。その代償もわかっているはずだ」
「……そうですか」
腑に落ちないことはたくさんあるけれど、もうわたしが口を出さない方がいい。
下手に動いても今回のように色々と台無しにしかならないもの。
そこまで考えて、深々と頭を下げた。
「――殿下、申し訳ございませんでした」
「うん? 何が?」
「殿下までこうして巻き込んでしまったことです」
「ああ、いや。……あれは僕が出しゃばってしまっただけで、エリカさんは上手くやっていたよ。だから、謝らなければならないのは僕のほうだ」
「何をおっしゃるのです。殿下はわたしを庇って下さったのですから、そのような必要はございません」
「本当にそう思う? これで僕とエリカさんの婚約が、公然の秘密になってしまったのに?」
「は、い?」
座ったままではあったけど、この騒動に巻き込んでしまったことへの謝罪を口にすると返ってきた驚くべき言葉。
意味がわからなくてぽかんとして、意味がわかって唖然としてしまう。
「本来なら、学院内での出来事に大人達が関わることはないんだけどね。あの時、よりにもよってサジュマン伯爵夫人に見られてしまったのは痛かったな。今回のような場でノエルの名前を出されてはね……」
「あの……でも、母は従兄弟だと伝えているでしょうし、このままでは矛盾が生じてしまいます」
「いや、その心配はいらないよ。侯爵夫人は社交界でも妃殿下に次ぐ実力者だからね。今回のことでも上手く立ちまわってくれるだろう」
「なるほど……」
お母様が嘘つきになることはないと知ってほっとしながらも情けなくなる。
わたしよりも殿下の方がお母様について詳しいなんて。
だけどここはもう、恥だろうがなんだろうが、わからないことはちゃんと訊かないと。
「それで、どうして今回のことが殿下とわたしとの、その、婚約話になるのですか? 一緒に街を歩いていただけで?」
「ああ、うん。そうだな……今回はただの噂ではなく、サジュマン伯爵夫人に見られてしまったために、〝従兄弟″だと説明することにしただろう? この〝従兄弟″というのは大抵の場合、恋人を秘密にしておきたい時に使う便利な言葉なんだよ」
「恋人?」
「まあ、愛人と言ってもいい。ただ、エリカさんのような独身女性の場合は、まだ公にしたくない婚約者のことになるかな。だけど今回僕が名乗り出てしまったために、婚約の相手は僕だと皆が思うだろうね」
「そんな……」
「別に悲観しなくても大丈夫だよ。高等科を卒業するまでは正式発表を控えているとでも勝手に思わせておけば、時間は稼げる。だからそれまでに打開策を見つければいい」
「ですが、わたしのせいで殿下を巻き込んでしまったことには変わりありません。このままにしておくわけには……」
わたしの軽率な行動のせいでここまで大きくなってしまうなんて。どうしよう。
やっぱりわたしは馬鹿だわ。あそこでフェリシテさんと対峙したりせず、素直に引いておけばこんなことにはならなかったのに。
「――わかりました。やっぱりあれは嘘だったと、殿下がわたしを庇って下さったんだとみんなに伝えます。それで――」
「いや、ちょっと待って。僕の言い方が悪かった。そこまで思いつめなくていいから」
「いいえ。殿下のおっしゃった通りわたしには無理ですし、このままにしておいては時間の無駄です。そもそもわたしには好きな方が――」
「だから待てって!」
これ以上迷惑をかけたくなくて決意を固めた私の言葉は、殿下に激しく遮られてしまった。
その大きな声にびくりとして息をのむ。
「――あ、いや……ごめん」
殿下自身も自分の声に驚いたようにはっとして、わたしが泣くとでも思ったのか慌てて謝ってくれる。
もう泣いたりなんてしないのに。
「先日は、言い過ぎたと思う。自分があまりに不甲斐なくて、苛立ちをぶつけてしまった。八つ当たりなんだ」
「ですが、殿下のおっしゃったことは事実です」
「いや、……うん、そうだね。だけど自分のことを棚に上げてよく言ったと思うよ。もっと違う言い方もできたのに」
ため息混じりの殿下の言葉には珍しく後悔が滲んでいる。
いつもは嫌味なくらい自信たっぷりなのに。
どうしたのかと見上げても、逆光でその表情がよく見えない。
「巻き込んだのは僕の方だ。相手を甘く見て、利用するつもりがされてしまった。ここ数年で一番の大失敗だよ」
「あの、いったい何が……?」
「それは……エリカさんは、フェリシテさんに何か……個人的に恨みでも買うような覚えがある?」
「いえ……わたしにはさっぱり……」
「そうか。まあ、とにかくエリカさんとフェリシテさんが関わるきっかけを作ってしまったのは僕だから。本当に、すまなかった」
「いいえ。そうは思いません。偶然とはいえ、フェリシテさんとデボラさん達の間に割って入ったのはわたし自身ですし、いずれにしろ彼女とは関わることになったと思います」
何が目的なのかはさっぱりだけど、悪意ある噂を流していたのがフェリシテさんだったのなら殿下は関係なかったはずだもの。
それとも関係あるのかしら?
そもそも殿下はフェリシテさんを利用しようとしたってことよね。いったい何のために?
「あの……」
「うん、何?」
「あ……いえ、その……では、人生一番の失敗とはどんなことですか?」
先ほど殿下は、わたしの質問に答えることを避けたのよね?
それなのに今また訊いても困らせるだけ。だから質問を変えたのに、殿下はわたしをじっと見たあと、くすりと笑った。
何だか嫌な感じ。
「まだ子供の頃のことだよ。かっこつけて大失敗したんだ。――けど、これ以上は教えない」
「ええ?」
せっかくだから殿下の失敗談が聞きたかったのに。
いつもの爽やかな笑顔に戻った殿下にはやっぱり腹が立つわ。もう。
「では、これで失礼させて頂いてよろしいでしょうか?」
「ああ、うん。ごめんね、引き止めて」
「いいえ。今回のことはわたしの責任ですから」
「いや、エリカさんだけの責任ではないよ。だけどさすがに今回のことは学院に報告させてもらうよ。もちろん、それで何か処罰が下るわけではないけど、やはり先生方の耳には入れておいた方がいいだろうからね」
「――わかりました。お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」
最後にもう一度深く頭を下げてから立ち上がると、殿下も苦笑しながら腰を上げた。
まさかとは思ったけれど、「送るよ」と言われてためらってしまう。
「あの、少しだけ兄の研究室に寄るつもりですので」
「では、研究室まで送るよ」
「殿下……」
「うん、何?」
「……いえ、ありがとうございます」
これ以上迷惑をかけるのも、婚約話を肯定するような行動も避けたいけれど、親切心から申し出てくれているのに断るのは失礼よね。
お兄様が今日のことを万が一にも知ってしまったら、絶対に心配なさるから元気な姿を見せるだけして帰ろうと思ったのに。殿下と一緒だとちょっと大事になってしまいそう。
まさかギデオン様にお会いしたりはしないわよね?
ギデオン様には明日改めてお礼に伺って、誤解がないようにお話しておかないと。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのかしら。
ロレーヌさんと対決するだけのつもりが、みんなを巻き込んで、最後は後味悪いものになってしまったわ。
やっぱりフェリシテさんとは一度、きちんと話し合ってみよう。
わたしの気付かないうちに、何か嫌われるようなことをしてしまったのかもしれないもの。
仲直りするのは難しいでしょうけれど、せめて普通に接するふりだけでもできれば、クラスのみんなも気まずい思いをしなくてすむわよね。
研究室までは殿下のお説教めいた忠告が延々続いた。
もう絶対に一人では出かけない、出かける時は護衛をつけるとか、学院でも一人にならないとかまで。
殿下には迷惑をかけてしまったし、申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、ちょっとうるさい。
ああ、もう。まるで過保護なお兄様がもう一人できたみたいだわ。




