第二十二話 異様な変化
あれから二ヶ月――
あの小さな家鳴りが私も気になるようになってしまった。
天井がぎしりと小さな音を立てる度に、つい天井を見上げてしまう。
元々家鳴りはあったし、今は佐藤先輩が住んでる。
だから何もおかしいことはないはずなのに。
二人の自殺者。
失踪した瀬戸一家。
それに続くようにして起きた611号室の殺人未遂事件。
凄惨な事件がこんなに続くことなんて事あるだろうか。
本当に偶然?
それとも……610号室に何かある?
そこまで考えて、私は一人で首を振った。
そんなわけない。
これ、なんて言ったっけ。
アポフェニア? 錯誤相関? 脅威性バイアス?
大学で習った心理学の知識を頭から引っ張り出す。
関係のない事象を勝手に結びつけて意味を見出してしまう思い込みの一種だ。
そんな自問自答を繰り返しながらリビングで天井を見上げていると、お母さんがキッチンから声をかけた。
「ねえ真緒、何か臭くない? 一度私から管理会社に連絡してみようかしら」
お母さんは鼻に指を当てながら顔を顰め、匂いの元を探すようにシンクの中や冷蔵庫の下を覗き込んでいる。
「まだ臭いの?」
ソファーから立ち上がってキッチンに向かうが匂いなんてしない。
排水溝周りも綺麗だ。お母さんの性格上、掃除を怠るようなこともない。
「何も匂わないよ?」
「そう? 微かに匂う程度なんだけど……」
「あれじゃない? ほら、副鼻腔炎だっけ」
お母さんは首を傾げて、不安げにキッチンを見渡した。
「そうなのかしら……確かにキッチンだけじゃないのよね。廊下でも、寝室でも、ふとした瞬間に……」
「一度病院行きなよ」
「そうね、そうしてみようかしら……」
お母さんの肩を軽く叩いてソファーに戻った。
置きっぱなしだったスマホに一件通知が入ってる。
「佐藤先輩……?」
メッセージを送ってきたのは佐藤先輩だった。
『先日はごめん。どうしても見てほしいものがある』
ただそれだけ書かれたメッセージ。
内容を伝えずに人と約束を取り付けるのが彼の手口なのだろうか。
先日の不快な気持ちが呼び起こされる。
私はそのメッセージを無視した。
学部も学年も違うのだ。学祭はとうに終わったし、共通の知り合いがいるわけでもないのだから、わざわざ気を使う必要なんてない。
しかし、翌日も、その翌日もメッセージは送られてきた。
最後のメッセージには『助けてほしい』と縋るような一文が綴られている。
ここで無視を決め込むほど非道にはなれなかった。
後悔するってことはわかっていたのに。
こういう所が『変にお人好し』と友人から言われる所以なのだろう。
返信した翌日、私達は再び大学のカフェテリアで待ち合わせをした。
今回も彼は先に来て私を待っていた。
一刻も早く話したかったのか、すでにテーブルには2人分のドリンクが並んでいる。
「お待たせしてすいません」
私の声に振り返った彼の顔に、思わず目を疑った。
佐藤先輩の様相は、あの時と全く違う。
髪はぐちゃぐちゃで、何日も眠れていないのか目の周りは黒く落ち込んでいた。
軽薄そうな態度は姿を消し、椅子の上で居心地悪そうに縮こまっている。
すれ違っても本人だと気づけないかもしれない。
それほどまでに、彼の纏う空気は別人のように変わっていた。
佐藤先輩は私の顔を見た瞬間、緊張の糸が切れたようにホッと表情を緩める。
「真緒ちゃん……来てくれてありがとう」
「いえ、それより先輩。この暑いのにどうしたんですか?」
私は嫌でも目につく佐藤先輩の首元に視線を向けた。
梅雨の時期特有のじとじとと肌に纏わり付くような湿気の中、佐藤先輩の首にはスカーフが巻かれている。
「ああ、これね」
佐藤先輩は力無く笑いながら、そのスカーフに手をかけた。
ゆっくりと解かれるスカーフの隙間から見えたのは、幾重にも重なった赤い爪痕。
一部はかさぶたになっていることから、何度も皮膚が削られた事が分かる。
「これ……どうしたんですか……」
「なんかさ、首が痒いんだよ。なんかこう、首に何かかかってる気がして。気が付いたら血が出るまで掻き毟ってるんだ」
佐藤先輩はすぐにスカーフを撒き直した。
聞きたくない。席を立ちたいと思うのに、どうしても真上に住んでいる彼の話を確かめたくなってしまう。
「それで話って」
「なぁ、あのマンションってなんなんだ?」
「なんなんだって……言われても」
「ずっと見られてるような気がするんだよ」
佐藤先輩は唐突に後ろを振り返った。
当然そこには何もいない。大きな窓から太陽の光が降り注ぐ明るい大学のカフェテリアだ。
でも彼は真っ暗な地下室にでも閉じ込められているみたいに、不安を滲ませ周囲を見回している。
「あの部屋さ、おかしいんだ。ずっと叫び声がしてる。助けてって声が聞こえるんだ」
一般的に見れば、どう考えても佐藤先輩の方がおかしい。確かに私も不可解に思ってはいたけれど、現実的に考えて「何かいる」方がありえないのだ。
「事故物件に住んでるからっていう、脅威性バイアスの一種ですよ。あ……脅威性バイアスっていうのは」
「それくらい知ってるよ。でも、そんなんじゃない。本当にずっと誰かに見られてる。視線を感じるんだよ。声も聴こえるし、匂いもするんだ」
「匂い……??」
嫌な音と共に、私の心臓が大きく跳ねる。
その言葉が、顔を顰めたお母さんと重なった。




