第二十話 510号室
510号室 島田 真緒
お父さんはずっと苛立っている。
元から少し気性の荒い性格だったとは思うけど、今では廊下を歩く住人の足音にさえ過敏に反応し、低い唸り声を上げながら音の方角を睨みつけるようになった。
「……まただ。また上の奴らが暴れてやがる」
お父さんは天井を睨みつけながら、手にした焼酎のグラスをテーブルに叩きつける。
確かに足音のような音が微かに聞こえるけれど、これは家鳴りの一種だと思う。
だって上の階には誰も住んでいないのだから。
もう、三年半ほど前だろうか。
真上の610号室の旦那さんがベランダから飛び降りるという事件があった。
当時受験生だった私は、塾から帰宅して遅い夕食を食べていた。
ドタドタと走り回る大人の足音。
苦情を言いに行こうとするお父さんと、それを必死に止めるお母さんが言い争っている最中。
窓の外を一瞬何かが通過していった。
そのすぐ後にドンという音が響いて、落ちてきた物が人間だと知ったのはその数分後。
これが『事故物件』の真下、510号室に住む我が家の経緯。
「ねえ、お父さん。気のせいだってば」
「……お前に何がわかる」
お父さんは血走った目で私を睨みつけた。
お母さんは「口答えしないの」というように、キッチンから私に向かって首を振る。
お父さんがピリピリするのも理解はできる。
元々この辺りの土地は、田んぼと荒地と数軒の家しかなかった。その数軒のうちの一つが私の家。
街の再開発に伴い、マンションが建つという事で我が家は土地を売った。元々祖父母の代に建った古い家だ。
無駄に庭だけが広くて、細々とやっていた田んぼと畑しかない、そんな土地。
マンションに部屋も貰えるし、残ったお金は私の大学資金と祖母の老人ホームの入居費用に充てられるとなれば、十分美味しい話だった。
ただ、その美味しい話はたった2年で塵となる。
上の階に住んでいた沖田さんの自殺によって事故物件という瑕疵がつき、資産価値が暴落した。
お父さんは土地を売った際に早期退職して、今は警備員のアルバイト。お母さんも近所のスーパーでパートをしている。
それで十分生活はできているし、ここを引っ越すつもりもないのだから構わないと思うんだけど。
「まあ、お父さんにもきっと色々あるのよ」
お父さんがバイトで不在の夕食中。
お母さんは苦笑いをしながら私を宥めた。
「はぁ……でも最近本当ピリピリしすぎ! 前の家だって、よくミシミシ言ってたじゃん!」
「あの古い家と新築マンションを一緒にしちゃダメよ。それに、最近ピリピリしてるのはお母さんのせいでもあるのよ」
お母さんはため息を吐きながら、誰もいないキッチンに視線を向けた。
「実は最近、排水溝の流れでも悪いのか……たまに変な匂いがするのよね。それ、相談しちゃったの。マンションの管理会社に言ってもらおうと思って」
「げぇ。今度は匂いまで怪奇現象に繋げる気?」
「そうなのよ。お父さん怒っちゃってさ。『二度と言うな!』って言うのよ。管理会社に言ってっていう話をしてるのに!」
お母さんは「参ったわ」と肩をすくめた。
お父さんへの不満を笑い話に変えながら、私達は夕食を終える。
『ピンポーン』
唐突に響いたインターホンの音。
ソファーでスマホをいじっていた私に、キッチンのお母さんは呆れながら声をかけた。
「ちょっと真緒。出てくれない?」
「はいはーい」
モニターの画面には、何も表示されていない。
ということは玄関からのチャイムだ。
「はい」
『すいません、上の階に越してきました佐藤です。ご挨拶に伺いました』
私とお母さんは思わず顔を見合わせた。
最後の610号室の住人、瀬戸さん一家が消息を絶ってから一年半ほどだろうか。
それまで空室だった上の部屋に、新しい住人がやってきた。
お父さん……またうるさくなるじゃん!!
「す……すぐ出ますね」
私は急いで玄関へと向かった。扉を開けると、そこには見知った男の人が笑顔を浮かべて立っていた。
「あれ……佐藤先輩?」
「え、嘘! 真緒ちゃんじゃん!」
「なんで?! どうしてここに?!」
「いや、越してきたって言ったよね?」
佐藤圭介。
私の大学の先輩にあたる彼は、カラカラと笑いながら紙袋を二つ差し出した。
学部も違うけど、去年の学祭で実行委員の仕事を手伝ってくれた顔見知りだ。『人類みな友達』と平気で口にしそうな、軽快な性格が印象的だった。
悪い言い方をするならば、チャラい大学生代表のような人。
そんな彼が、ファミリー向けの分譲マンション……しかも『事故物件』なんかに越してくるなんて。
「……まさか先輩、学生結婚ですか?」
「そんなわけないじゃん。一人暮らしだよ」
事故物件とは言え築5年の分譲マンションに一人暮らしなんて。
どんな金持ちですかと思いながら「はあ」と軽く返事し、その紙袋を受け取る。
紙袋には二つとも同じお菓子が入っていた。
「あれ? 二つ貰ってよかったんですか?」
「あー、お隣の609号室に持ってったらさ、インターホン越しに『あっちにいけ』って怒鳴られてさ。渡す事もできなかったから貰って」
引越しの挨拶に行って、そんな事を言われたら不安で一杯になると思うけど……。
佐藤先輩はただ面白がるように笑うだけだった。
私の部屋の斜め上の609号室。
どんな人が住んでいたっけ?
「まあ、また大学で話そ。色々話聞きたいし協力してもらいたいからさ。番号だけ教えてくれる?」
佐藤先輩は、そう言ってスマホを取り出した。
この、相手に嫌だと言わせない押しの強さ。
懐かしいなぁと思いながら、連絡先を交換する。
ちゃんと交換できた事を確認して、佐藤先輩は「また連絡するね」と軽い足取りで去っていった。
……色々聞きたいって何だろう。
ちょっと面倒だな、なんて思いながら扉を閉めると、それを待っていたかのようにお母さんがリビングから顔を出す。
「真緒……分かってると思うけど、あまり余計な事は言わないようにね」
やり取りを聞いていたのだろう。610号室であった『事件』についてお母さんは釘を刺してきた。
「分かってるよ。住んでる人に事件の事を話すなんて悪趣味な真似しないって」
私は唇を尖らせて軽く言い返す。
この時、佐藤先輩の言った『聞きたい事』と『協力して欲しい事』が、全て『事故物件』……610号室に関わる事だったなんて思いもよらなかった。




