第十九話 澱みの伝播
「立てるか?」
「うん……」
朝陽が落ち着いたのを見計らって、俺達はゆっくりその場を離れた。とは言っても、たったの数メートルの距離。
すぐ隣の部屋に入ると、ドアの音を聞いて千春さんがリビングから出てきた。
「おかえりなさい。二人とも慌ててどうしたの?」
首を傾げる千春さん。
朝陽はうまく言葉にできなくて、靴を乱暴に脱いで千春さんに抱きついた。
さっき見たことを話すべき?
信じてもらえるのだろうか。
どうするべきなのか分からず幾つもの言葉を飲み込んでいると、千春さんが「あらあら」と朝陽の背中をあやすように撫でる。
その顔には笑顔が――張り付いていた。
「どうしてクッキー食べなかったの?」
「え……? クッキー?」
千春さんに預けていた頭を離して、呆然とした顔で聞き返す朝陽。千春さんは、笑顔を貼り付けたままゆっくりと頷いた。
「そう、いただいたんでしょう? どうして食べなかったの?」
「え……あっ……」
「なんでも食べなきゃ、死んじゃうのよ?」
ダメだ、と思った。
反射的に朝陽に手を伸ばし、その小さな身体を千春さんから引き離す。
「な、何言ってるんですか。千春さん……」
俺の声は震えていた。
千春さんは、俺の腕の中で震える朝陽を黒く濁った瞳で見つめている。その瞳は、さっき隣の部屋で見た瀬戸一家と同じ目だった。
「病気になるよ? いいの? お顔にぶつぶつができちゃうのよ?」
「ママ、やめて……怖いよ……やめてってば!」
「役に立たない子供は、ただでさえ殺されちゃうんだよ?」
朝陽が泣き叫んでも、千春さんは動じない。
それどころか、彼女はゆっくりと口を開け、目に見えない何かを放り込み咀嚼するような動作を始めた。
その口元からは、ドロリとした黒い液体が零れ落ち、床に広がる。
『ピンポーン』
響くチャイムの音。
何度も聞いた、チャイムの音だ。
咄嗟に後ろのドアの鍵を閉めた。
「お兄ちゃん」
縋るように朝陽は俺の腕を握る。
その手を上から覆って握り返した。
ドンドン!!
真後ろのドアが大きな音と共に振動する。
嫌な予感は俺が想像した以上の速さで、その通りになっていく。
「入れてください」
あの声だった。
愛菜ちゃんの、抑揚のない冷たい声。
「入れてください。入れてください。入れてください」
音は次第に大きくなり、まるで何十人もの子供が壁を拳で叩き壊そうとしているかのような衝撃がドアを揺らす。
ああ。ここはダメだ。
澱んだ冷たい空気がドアのほんのわずかな隙間を伝って、背後から入ってくるのを感じた。
こうやって、少しずつ広がってるんだ。
壁一枚、ドア一枚で防ぎ切れるようなものじゃない。
朝陽の手を無理やり引いて、千春さんの身体を押し退けるようにして自室に入った。
ドアを閉めた俺は、すぐそばにあるテーブルを強引に動かした。
テーブルの上からゲームが音を立てて地面に落下するのも構わず、内開きのドアが開かないよう封鎖する。
押し込まれても絶対開けさせない。
両足とテーブルを押さえつける両手に目一杯力を込めた。
ガチャガチャガチャガチャ
何度も揺れるドアノブ。
ドアの隙間からは無数の細い指が這い出し、蠢くように空を掻いている。
「お兄ちゃん、この音、何?」
開けようともがくドアを必死に押さえつけながら、その声に後ろを振り返る。
朝陽は背後の壁に近づこうと、ベッドの上で膝をついていた。
ドアノブが揺れる音。
それに混じって、声が聞こえる。
切実に助けを求める誰かの叫び。
それと一緒に、ゴリゴリと削れるような音が壁から響いていた。
「朝陽! これつけてろ! 何も見るな! 何も聞くな!」
足でヘッドホンを蹴飛ばして、朝陽に渡す。
朝陽の目は壁からヘッドホンへと移り、すぐにそれを手に取って耳に装着した。そして言われた通り、膝を三角にした朝陽はその中に顔を埋める。
「大丈夫。絶対大丈夫。耐えたら、きっと終わる。終わるから」
テーブルに背中を預け、座り込んだ。
朝陽だけに目を向けながら、全部の音を掻き消すように俺は叫ぶ。
全ての音が止む、その時まで――
♦︎ ♦︎ ♦︎
「みんな食べて? せっかくお隣さんがくださったのよ」
ダイニングテーブルに皿を置く千春さんの顔は、影に沈んでいた。
父親は壁を引っ掻くのをやめてユラユラと引き寄せられるようにダイニングテーブルにたどり着き、テーブルの上の黒い何かを食べ始める。
千春さんが狂ってからは一瞬だった。
たった一夏で、この部屋は飲み込まれた。
俺は変わり果てた両親の姿に震える朝陽の手を、強く握りしめる。
「……行こう、朝陽」
「でも、お父さんとお母さんが」
あちら側へと足を踏み出そうとする朝陽を、こちらに引き戻す。もう、何度目にもなるこのやり取り。
なるべく二人を見ないように目を背けて、朝陽と視線を合わせた。
「大丈夫。兄ちゃんがいるだろ」
反対の手に持っていたヘッドホンを朝陽にかぶせる。
地面に転がっていた父の鞄を蹴り飛ばし、リビングから外に出た。
夏の終わり。
共用部の廊下に出ると、蒸しかえるような熱気が身体を包み込んだ。
廊下を突っ切って、エレベーターを素通りし、階段を駆け降りる。
何度も後ろを振り返ろうとする朝陽の手を引きながら、マンションのエントランスを抜け、駅に向かって歩き出す。
向かうのは、母と暮らしていたアパートだ。
入院中の母はいつ帰ってくるかもわからない。
……帰ってこないかもしれない。
でも、なんとかする。
なんとか、してみせる。
だって俺は兄なんだから。
「お兄ちゃん、もし、アレがついてきたらどうするの?」
後ろからの朝陽の声。
それを、俺は聞かなかったことにした――
第二章『611号室』
閉幕です。
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