第十七話 歪
「実はね……私、お隣がちょっと怖いの」
思い詰めた表情を浮かべながら千春さんは後ろを振り返った。
その視線の先にあるのは、間仕切りで仕切られた朝陽君の部屋。
そして――
「610号室……あの部屋、一人亡くなってるの。瀬戸さんの前に入居していた、沖田さんのご主人が自殺して。実はその前に住んでた霧島さんもすぐ引っ越してって……」
このマンションを父親がいつ買ったかなんて正確な日付は覚えてない。だけど、3年とかそのくらい前だったと思う。
そんな短い期間に住人が二回も入れ替わる?
そんなことあるか?
父が裏切ってから、俺と母は小さなアパートにずっと何年も住んでるのに……?
千春さんはそこで言葉を切った。
その横顔は、少し張り詰めているように見えた。
「なんだか変な物音もするの。誰もいない期間もずっとしてたのよ……だから少し、気味が悪くて」
声を詰まらせた千春さんは「ごめんなさい。変なことを言ったわね」とこちらに向き直った。
「それって……事故物件ってやつじゃ」
「どうかしら……」
ようやく絞り出した言葉に、千春さんは言葉を濁した。
その時――
リビングに子供の声と足音が響いた。
これも先週と全く同じ。
時間も同じ頃だったと思う。
「この音……聞こえますか?」
「ええ……」
千春さんは小さく頷いて、すぐ首を振った。
「いや、ごめんなさい。気のせいよ。きっと朝陽がお隣にお邪魔してるんだわ。あ……水筒持たせるの忘れちゃった」
千春さんも――『隣の異変』に気づいていた。
それに気づかないふりをしてるんだ。
戸惑うように言葉を漏らした千春さんは、慌ててキッチンへと駆けていく。
「俺……届けてきましょうか」
「え……? いいの?」
水筒を手に持ったまま、千春さんは驚きつつ俺を見た。
俺は小さく頷いて、通らない喉に無理やりスパゲッティを押し込む。
「じゃあ……お願いしてもいいかしら」
水筒を受け取った俺は、靴を履いて外に出た。
一瞬で汗をかきそうなほどの熱気が身体を包みこむ。
歩いて数歩の距離。
扉も全て同じ物なのに、何故かこの部屋の前だけ空気がじっとりと重く感じた。
頭に響く幾多の声を散らすように首を少し振って、思い切ってチャイムを押す。
ピンポンという機械音。
しばらく待つと「はい」と女性の声が聞こえた。
「あ……すいません。611号室の北山ですが、朝陽……お邪魔していませんか?」
「……いません」
「ありがとう……ございます」
お礼を言い切る前に、プツリと通話が途切れる。
これのどこが「感じのいい家族」なんだ?
そう思う事で、必死に自分の感じた気味の悪さを振り解いた。
「どこ……行ってんだよ」
エレベーターで一階へと降りる。一階はマンションの住民が使えるらしいコミュニティルームやキッズルーム、ゴミ置き場、自転車置き場なんかが入っていて少し薄暗い。
その設備を横目に見ながら、一度エントランスから外に出る。マンションの横は広々とした公園だ。
周囲のマンションに取り囲まれるようにして作られた、まだ新しい空間。
公園とは言っても、遊具は滑り台があるだけの簡素な場所。公園のほとんどは遊歩道と芝生で、景観を重視しているのか植物が沢山植っている。
「嘘だろ」
数人の子供達がこの日差しの中走り回っているが、二人の姿がない。
朝陽君と同じ年頃の子に「ちょっと」と声をかけた。
顔を真っ赤にしたその子は、立ち止まり膝に手をついて俺を見上げる。
「北山朝陽、見てないかな?」
「朝陽君? えーっと」
彼の視線は、遊具のそばの一角に向かった。
そこには三角座りした数人の子供達が手を前に組み、囚人のように身じろぎせずただこちらを見つめている。
「朝陽君はまだ死んでないよ」
『死』という単語に一瞬、悪寒が走った。
でも違う。確か鬼ごっこか何かだっけ。
目の前の男の子は、きょろきょろと周囲を見回して「あれぇ?」と首を傾げる。
「また愛菜ちゃんと朝陽君いない。最近、2人で勝手にいなくなっちゃうんだよ」
「どこにいったか分かる?」
「知らなーい。また明日来るんじゃない? 今日は僕が殺す側だから楽でいいや」
そう言うと、彼はまた駆けていった。
子供達は「死んだ」「殺した」とはしゃぎながら公園内を楽しげに走り回る。
気持ち悪い。
ただただ、このマンション全てが気持ち悪かった。
【六階平面図 ※駐輪場、ゴミ置き場、駐車場は一階です】




