第十五話 異変
状況が変わったのは夏休みに入ってすぐだった。
バイト先が突然閉店となり、俺は逃げ場所を失った。
「急に潰れるとかありえないよな。これから夏休みだっていうのにさ」
軽い調子で『店が潰れた』と電話をかけてきたのは、バイト先の同僚。消えたオーナーの代わりに、一人一人に電話をかけて回っているらしい。
「早く次のとこ探さなきゃな。奏多はどうする? 今ちょっと遠くに住んでるんだろ?」
「ああ……父さんのマンションに住んでる」
「こっちまで1時間ちょっとかかるって言ってたもんなぁ。高校は仕方ないにしても、バイト先は家から近い方がいいよな」
そう言われて、胸が軋んだ。
家から近い方と言われて、咄嗟にこのマンションが浮かんでしまったから。
すぐ元の生活に戻れると思っていたのに、母さんは入退院を繰り返していて仕事も退職したらしい。
まともな生活をさせてあげられないから、と母さんが父に居候の延長を頼んだそうだ。
俺に何の相談もなく。
前のアパートの鍵はまだ持ってる。
でも、母親から帰ってくるな言われているようで、アパートに帰ることも少なくなった。
高校の奴らと遊びに行こうにも金がいる。
ただでさえ、この家で食事をとる機会を減らすために外出や外食が多かったんだ。手元に残るお金はそれほどない。
父親と話す回数をなるべく減らしたくて、通学のための定期代も自分で払っていたから仕方ないのは分かってる。
でも、せめて定期代くらい貰えば良かった。
唯一の逃げ場が、家から持ってきた古い型のゲーム機と、昔誕生日プレゼントとして母さんが買ってくれたヘッドホンだけなんて。
こうも上手くいかないことばかりが増えると叫び出したくなる。
今も壁の向こう側で声を上げ続けている、お隣みたいに――
♦︎ ♦︎ ♦︎
水曜日。
今日は千春さんの仕事が休みの日だ。
「奏多君、お昼ご飯できたわ」
扉の向こう側から躊躇うように声をかけられて、渋々外に出た。
朝陽君も水曜日は学童を休ませているようで、日中はこの家に3人で過ごすことになる。
4人がけのダイニングテーブルの上には、冷ややかなガラスの容器の上に素麺があった。
「お兄ちゃんもお昼一緒に食べるの? やったー!」
リビングに入ってきた俺を見て、無邪気に喜び弾むような声をあげる朝陽君。
どう反応していいのか分からないまま隣に座った。
お箸を手に取ろうとした所で、ふと気が付いた。
席に置かれていたのは、いつもの来客用の箸じゃない。
真新しい青色の箸。きっと俺の反応を向かいの席でじっと伺っている千春さんが買ってきたのだ。
「いただきます!」
パチンと音を鳴らして手を合わせる朝陽君に倣って、そっと掌を合わせた。
冷やし中華のように卵やきゅうりやハムの細切りで彩られた素麺。
一口啜ると、冷たい麺が強張った身体の熱を奪っていく気がした。
早く食べて部屋に戻ろう。
恐る恐る差し出される気遣いが、かえって痛々しくて居心地が悪い。俺は視線を皿に落としたまま、黙々と素麺を啜った。
その時――ふとリビングに音が響いた。
はしゃぐような甲高い声と、足音。
目は自然と音のする方角へと向かう。
間仕切りの扉で仕切られた、隣の朝陽くんの部屋だ。
「お隣の愛菜ちゃんと蒼真君よ。ほら……今、夏休みだから」
目線の意味を察して、千春さんが口を開いた。
朝陽くんの部屋と隣接する隣の家から漏れる声だったらしい。
「子供もいるんですね」
「そうなの。朝陽はお隣の愛菜ちゃんと仲良くて」
千春さんの声に被さるように「今日、一緒に遊ぶんだ!」と朝陽くんが声を上げた。
食べ終わった皿をキッチンに持って行ったタイミングで、今度は部屋にチャイムの音が響いた。
「あ、愛菜ちゃんだ!」
席を立ち、駆け足で玄関に向かう朝陽くん。
慌てて千春さんも立ち上がる。
「朝陽! お素麺まだ残ってるよ?!」
「もういらなーい!!」
「もう! 水筒にお茶入れるから待ちなさい!」
千春さんが不満を漏らすのを横目に「ご馳走様でした」とだけ伝えて俺もリビングを出た。
廊下先の玄関では、朝陽くんが女の子と話していた。
長い髪にパステルカラーのワンピース。この子が噂の「お隣の愛菜ちゃん」だろう。
「こんにちは!」
「……こんにちは」
挨拶を返すと、愛菜ちゃんはすぐに「お兄さん?」と小さな声で朝陽くんに尋ねた。朝陽君は俺の顔を見て、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「そうだよ! 僕のお兄ちゃん!」
全く躊躇うことなく返された返事。
俺は……弟なんて思ってないなんて言えなかった。
愛菜ちゃんは良い事を思いついたとばかりに手を叩き、「ねえねえ」と朝陽君に顔を近づけ耳打ちする。
「朝陽君のお兄ちゃんに“鬼役”やってもらおうよ」
内緒話をしているつもりなのかもしれないが、落としきれていない声はこちらの耳まで届いていた。
朝陽君はパァっと顔を輝かせ、期待を滲ませて俺を見る。
「わあ! いいね! ねえ、お兄ちゃんも一緒に遊ぼう? 僕達ね、これから愛菜ちゃんが教えてくれた鬼ごっこするの」
「捕まった人は死んじゃうんだよ! ねーっ?」
「うん! 殺されるんだって!」
死んじゃう? 殺される?
小学生の2人から出てきた不穏な言葉。
こいつら、自分達の使ってる言葉の重さを理解してない。
「朝陽君のお兄ちゃんは殺す人をやってよ!」
「お兄ちゃん足早そう! みんなすぐ死んじゃうね!」
死ぬとか殺されるとかそういう言葉を無駄に使いたくなる年頃なんだろうけど、鬼ごっこにまで死を絡めるような幼稚さが不快だった。
「やらないよ」
2人は「えーっ」と声を漏らし不満げな顔を俺に向ける。
そんな2人に捕まっている間に、水筒を持った千春さんが玄関へとやってきた。水分をちゃんと摂ること、遠くにいかないこと、を約束させて二人を見送る。
「行ってきまーす」
「朝陽君のお兄ちゃん。また今度遊んでね!」
閉じたドアの外側で、足音が遠のいていく。
その足音が消える前に俺は自室の扉を閉めた。
千春さんが何か言いたげな視線を向けていたが、わざとそれを無視して。
大きなため息が口から漏れる。
夏休み中、この家族ごっこに度々付き合わなきゃいけない。
そしてこの部屋とも――
部屋にはやはり声が響いていた。
助けを求める、縋るような声。
声の低さ的に、年配の女性だろうか。
愛菜ちゃんの年齢的に、おばあちゃんだとしても年齢が合わない気もするけど……。
それよりも、家族は何をしているんだろう。
夏休み――愛菜ちゃんが家にいるということは、家族だっているはず。それなのに、部屋で助けを求める祖母を放置しておくなんてことあるか?
ああ、でも介護施設に勤めていた母が言っていたっけ。
認知症が進んで、部屋でずっと叫び声をあげるような人もいるって。その類だろうか。
考えても仕方がなかった。
居候の俺は、この声も、現状も、どうすることもできないのだから。




