第十三話 私の結論
「悠人、お菓子食べる?」
お菓子という言葉に反応して、悠人は笑顔でぴょんぴょんとその場に跳ねた。
「ちょーだい」と言って、小さな手が差し出される。
キッチンの戸棚からお菓子を取り出して、悠人をリビングに導いて、その手に握らせた。
「急いでご飯作るから、ちょっと待っててね」
テレビの電源を入れて、夕方にやっている幼児向け番組にチャンネルを合わせると、悠人はその場に座り込んで画面を見ながらお菓子を食べ始めた。
よくない事は分かっているが、包丁を握っている時に、足元に纏わりつかれてはたまらない。
キッチンに戻った私は、冷蔵庫を開けて今日の献立に必要な具材と取り出していく。
『ピンポーン』
軽快な機械音が部屋に響いた。
エントランスからじゃない。玄関からだ。
通話のボタンを押して「はい」と応答した。
「すいません、隣に越してきた者です。ご挨拶に伺いました」
スピーカーから聞こえる快活な声。
小さく唾を飲み込んで「出ますね」と返事をする。
扉を開けると、優しそうな夫婦と、二人の子供が立っていた。
「隣の610号室に引っ越してきました。瀬戸です」
男性は笑顔を浮かべながら、私に紙袋を差し出す。
それを受け取り軽く頭を下げた。
「あ! 赤ちゃん!」
夫婦の後ろにいた女の子が、はしゃぐように声を上げて指をさす。
後ろを振り向くと、お菓子を持ったままの悠人が玄関先まで出てきていた。笑顔を浮かべながら、裸足のままで土間まで歩いてきた彼をそっと抱き上げる。
「あかちゃん、おなまえは? なんさい? ぼくはね、アオマ! 3さい!」
「私はね、愛菜! 6歳!」
一歩前に踏み出した男の子は、指で三の数字を作ってにっこりと笑う。それに張り合うように、女の子が声を上げた。
彼らの母親はその無邪気な様子を見て微笑んだ。
「赤ちゃん可愛いわね」と相槌を打ちながら、悠人に視線を移して目を細める。
「あかちゃんと、いっしょにあそべる?」
男の子が母親の袖を引っ張りながら尋ねると「今日はダメ」と彼女は首を振る。
「ごめんなさい。前の家では、近くに子供があまり住んでいなかったから嬉しいみたいで」
困ったように微笑む彼女。
私は一歩後ろに下がって、ドアを半分閉めた。
「すいません、仲良くする気はありませんので」
自分の口から出た言葉に、自分自身で驚いた。
驚くほど平坦で、抑揚がなく、まるで誰かの声を借りて再生しているような響き。
奥さんが、怯えたように一歩後ずさる。
その瞳に映った私の顔は、かつて脱衣所で見た、あの時の紗奈ちゃんと同じ目をしていた。
私は急いでドアを閉める。
ドアの向こう側で戸惑う夫婦の声が聞こえた。
「え……何あれ……」
「近所付き合いはしない人なんだよ。ほら、次は反対側の部屋だよ。蒼真、愛菜。挨拶ちゃんとできるか?」
「「はぁーい!」」
遠ざかる足音。
私はそっと息を吐いた。
私は知らない。
もう、関わらない。
ふと、鼻をつくものがあった。
――酸っぱい、何かが腐ったような臭い。
腕の中でテレビの前に戻ろうと暴れる悠人を、ぎゅっと抱きしめる。悠人の首筋に鼻を押し付けようとした時、首筋に刻まれた赤い筋に気づいた。
柔らかな肌に、引っ掻いたような赤い傷。
悠人の小さな爪ではつけようがない太さ。
大人の指が喉元を掴み掛かろうとしたような……
「何コレ……こんな傷、いつついたの?」
ドクンドクンと心臓が跳ねる。
私達は24時間一緒だ。
ずっと、悠人に危険がないかと私は見張り続けてた。
「私……じゃないよね? そうだよね?」
鼻を覆いたくなるほど腐敗臭が濃くなる。
それを振り払いたくて、悠人の傷だらけの首に鼻を埋め、必死にその匂いを嗅いだ。
「……大丈夫。まだ、してない。これは気のせいなの」
ただ必死に目を瞑って、柔らかな匂いに意識を集めた。
気のせいだ、と何度も自分に言い聞かせて。
「大丈夫、ママはおかしくならない。ちゃんと、守るからね」
頭に響く『声』と『音』
鼻をつく腐った『臭い』
その全てに蓋をして、私はゆっくりとリビングへと戻った。
第一章『609号室』
閉幕です。
次は611号室の住人。
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