第十二話 事故物件
「はい、今出ますね」
健人はそう答えると、通話ボタンから手を離し玄関に向かおうとした。
「ダメッ!!」
声を張り上げ、健人の腕を捕まえる。
振り返った彼は嫌そうに顔を顰めた。
「恵理、いい加減にしろよ?!」
「いいから! お願い!」
健人の手を引いたまま、恐る恐る玄関の扉へと近づいた。
ちゃんと鍵がかかっていて、思わずホッと息を吐く。
無機質な扉の向こう側からは、何の気配も感じない。
「あの、どうされました?」
投げかけた私の質問に沈黙が落ちた。
耳に全ての神経が集中し、手に汗が滲む。
「すいません。紗奈と結愛はどこですか」
抑揚のない平坦な声は、まるで別の生き物が人の声を借りて話しているように聞こえた。
そう感じる私がおかしいの?
それともドアの向こう側にいるアレ?
付き合ってられない、とばかりにドアノブに手を伸ばす健人。その腕を引っ張って、健人を見上げながら思いっきり首を振る。
「紗奈ちゃんから、連絡が入っていませんか? 結愛ちゃんが病院に運ばれたって」
「すいません。紗奈と結愛はどこですか」
返ってきたのは同じ言葉。
声の調子も、抑揚も、全く同じ。
それにぴくりと反応したのは、掴んでいる健人の腕だった。
「紗奈ちゃんに連絡してみてください」
「すいません。紗奈と結愛はどこですか?」
繰り返される同じ言葉に、私の目は扉に釘付けになった。
足は凍りついたように動かない。
「沖田さん、奥さんに連絡してください!」
一瞬の静寂――
ドン、という音と共に扉が震えた。
「どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?どこですか?」
乱暴に叩かれる扉。
その音は一定でなく、全て違う場所から聞こえる。
何人もが一斉に叩いてるような――
「嫌ぁぁぁ!!」
その場にしゃがみ込んで、耳を塞いだ。
それでも幾つもの声と音が滝のように降ってくる。
「いい加減にしてください! 沖田さん! 警察を呼びますよ?!?!」
扉に近づいた健人は、拳を振り上げ思いっきり叩き返した。
大きな音が響いた途端、リビングで寝ていた悠人が大声を上げて泣き始める。
その声と入れ替わるように『声』と『音』が鳴り止んだ。
「赦してください」
泣き声に混じって、ドアから『声』が届く。
全身の血が、一瞬で嫌な冷たい何かに変わった。
「――悠人っ!!」
すぐに立ち上がって、ベビーベッドに向かった。
悠人は両手でベット柵を掴み、助けを求めるように立ち上がって泣き叫んでいる。
抱き上げた私は、強く彼を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だからね」
抱っこされた悠人は、すぐに機嫌を取り戻し「あー」と声を漏らした。
悠人の手が彷徨うによう宙を掻き、私の頬や胸に触れる。
健人も玄関から戻ってきて、安堵の息を吐く音が聞こえた。
「勘弁してくれよ……」
そうぼやく声。
返事はできなかった。
身体を離すと、悠人の顔が横を向いていた。
その視線の先にあるのは、610号室に面する壁。
私の『気のせい』なのだろうか。
それとも『本物』なのだろうか。
その壁からは、子供のはしゃぐ声と、足音が響いていた。
幾重にも重なり合う、さっきのドアと同じ『音』の洪水。
ドン――
鈍い音が今度は窓の外から聞こえた。
健人が慌ててベランダを開け、音の出所を探すように手すり壁に身を乗りだす。
「誰か下で倒れてる! 救急車!!」
誰か――?
言わなくても私には分かってしまった。
亡くなったのは、大輝さんだ。
嗚呼、これで610号室は、このマンションは『事故物件』になってしまった。
マンションの価値が下がる。
もう、逃げられない――




