第十一話 止まらない連鎖
救急車が到着し結愛ちゃんは搬送されることになった。
慌てて母子手帳を持ってきた紗奈ちゃんに、いつも彼女が使っていたバッグを手渡す。
彼女の顔にはまだ焦りが滲んでいるが、先ほどと比べてだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「何かあったら連絡してね?」
「はい。恵理さんも島田さんも、本当にありがとうございました」
一礼した紗奈ちゃんは、結愛ちゃんを抱いたまま救急隊のいる玄関へと向かう。
その後に続いた私の鼻を、妙な香りが掠めた。
何日も放置した生ごみのような、何かが腐った臭い。
香りを辿るように、自然と顔が横を向く。
そこには無惨な光景が広がっていた。
壁紙はズタズタに裂かれ、べろりと垂れ下がっている。
剥き出しになった石膏ボードには、赤黒い汚れが至る所に付着していた。
視線を落とすと、床にも傷がある。
爪で執拗に掻き毟ったような細い傷。
それが、床全体に。
ここは先日、大輝さんがいた部屋だ。
あまりに酷い腐敗臭に、思わず手で鼻を覆った。
「なんやこの部屋、ボロボロやないか」
前を歩いていた島田さんが、荒れた部屋に思わず声を漏らす。
不審な物を見るように眉を顰めているが、ただそれだけ。
こんな酷い臭いなのに……分からないの?
よぎった言葉に、私は首を振った。
違う。駄目だ。
これは。この『匂い』は気づいてはいけないやつだ。
靴を履いて急いで外に出る。
外の空気に大きく息を吸い込んだ。
それでも……まだ自分の鼻に、身体に、あの『匂い』が残っている気がした。
紗奈ちゃんと結愛ちゃんを乗せた救急車が、サイレンを鳴らしてマンションから遠のいていくのを6階の廊下から見送った私と島田さん。
「育児ノイローゼってやつかいな。そうやな、きっとそうや」
島田さんは、閉じられた610号室の扉を見ながら、なんとも言えない表情で呻いた。
まるで自分に言い聞かせるような切迫した空気。
真下の510号室は、何も起こっていませんか?
何か、知ってるんですか?
そう尋ねてしまいそうになって、言葉を飲み込む。
本当は、彼に聞きたい。
異常を感じているのは私だけじゃないと、そう確信したかった。
「あんたも大変やったな」
島田さんは、いつの間にか眠っている悠人に視線を向けて口を開いた。
丁寧にお礼を言った私は、彼と別れて部屋へと戻る。
忍び寄ってきた何かが、すでに真横にいるような気がした。
♦︎ ♦︎ ♦︎
健人が家へと帰ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
食事を作る元気なんてなく、リビングで座り込んでいた私に「大丈夫か?」と声をかける。
「大丈夫……じゃない」
「夕食、何か買ってこようか?」
着替えもせず、こちらを気遣う優しい言葉。
私は縋るように、今日あった出来事を健人に話した。
郷土資料館に行ったこと。
結愛ちゃんが危うく溺死しかけたこと。
紗奈ちゃんの豹変。
『子供を渡して』と言った時の紗奈ちゃんの平坦な声とあの目を思い出して、喉が詰まった。
呼吸が乱れ、吐き気が込み上げてくる。
手や足の熱は一気に引いて、小さく震えた。
「ここ……やっぱり何かおかしいよ」
「おかしいって……」
「郷土資料館で……お爺さんが言ってたの。ここには住まない方がいいって。土地自体に何かきっとあるんだよ」
思わず語気が強くなる。
健人は「またか」とでも言いたげにため息を吐いた。
「それで、恵理はどうしたいの?」
その声は酷く疲れているように聞こえた。
でも、もう耐えられない。
いつ私達の番が来るのか。その怯えだけが心を満たしている。
「引っ越したい」
「無理だよ」
考える余地などないというように、健人はキッパリと答えた。
彼の顔からは心配の色が消え、呆れたように私を見据えている。
「今この部屋を売ってもローンが残るだけだ。新しく部屋を借りるにしたって、初期費用は? 悠人が一歳になったら復職するって言ってたけど、子供が急に増えたせいで待機児童も増えてるんだろ。入園できるか分からないってぼやいてたのは恵理じゃんか」
「でも、大輝さんはおかしいし、紗奈ちゃんだって! 結愛ちゃんなんて死にかけたんだよ?!」
「……それはさ。ここじゃなくて、隣だよな?」
健人の声が低く沈んだ。
冷えきった瞳で、彼は一歩、私に近づく。
「そんなに隣が怖いなら、付き合うのもほどほどにした方がいいよ」
冷静な声と共に、ぽんと肩を叩かれた。
その指先は、ひどく震えている。
「健人……」
「……俺だって、見えてるんだよ」
健人は吐き捨てるように言った。彼の顔が、苦痛に歪む。
「ここに越してきた時から、お前の寝顔を覗き込んでる『何か』と、何度も目が合ってるんだ。でもな、俺はそのまま寝室を出て、水を飲んで、またお前の隣で寝る。……そうしなきゃ、明日、会社に行けないからな」
健人の顔がグシャリと歪んだ。
抑えていた全ての感情が、決壊し漏れ出したみたいに。
「もう買っちゃったんだ……」
掠れた声だった。
喉の奥にへばりついた何かを、深い絶望と共に絞り出すように健人は続けた。
「……お願いだから。そういう事に……ただの不幸な偶然って事にさせてくれよ。そうじゃないと、俺、もう……」
健人はその先の言葉を飲み込んだ。
俯いた彼から「くそっ」と悔しげな声が漏れる。
健人も……もう気づいてるんだ。
高騰するマンション価格。
彼の実家の両親が、自分たちの老後を削ってまで用意してくれた頭金。会社で上司に頭を下げ、転勤のない部署に移動させて貰った上でようやく手に入れた三十五年の城。
それを『幽霊のせい』で台無しにするなんて、できるわけがなかった。
「何か買ってくるね」という言葉を残し、健人は背中を向ける。
『ピンポーン』
健人を呼び止めたのは、玄関横にあるインターフォンの呼び出し音。
私に一度視線を向けた健人は、怪訝な顔をしながら室内器に歩みを進めた。
「はい。どちら様ですか?」
「沖田です」
低く平坦な声が室内機のスピーカーから部屋へ流れ込む。
その声と共に、あの『匂い』を思い出した。




