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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第2章 あの頃のまま
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 * * *



「あー、またはみだしたっ」


 熊井梨都子がでかい声で叫ぶ。

 模造紙に貼りついて筆を握っていた俺は、おそるおそる顔を上げる。

 熊井が目をつり上げてこちらを睨んでいる。同時に、作業をしていた同じ班の連中も、いっせいにふりむく。全員、俺に注目。


「もー、ちゃんとやってよ市之瀬っ。さっきから、はみだしてばっかりじゃん!」


 どこがだよ?

 抗議の目を向けると、熊井は俺の隣に割りこんできて、模造紙を指さした。


「ここもここもここもここもっ。市之瀬が塗ったとこ、全部はみだしてるっ」


 そうか? これくらい、目立たないと思うけど。


「それに色も変だし! クスノキの下の部分は陰になってるから深緑で、上の部分は太陽があたってるから明るい黄緑にしようって、みんなで決めたじゃん!」


 あーうるさい。めんどくさい。


「何よ?」


 熊井がじろりと俺を見る。心の声が聞こえたのかと思って、ちょっと焦る。

「別に」と俺はなんでもないように言って、また模造紙に顔をもどし、作業を再開した。


「なんかムカつくなあっ」


 熊井はぷりぷりしながら立ち上がり、濁った筆洗の水を取り替えにいく。

 熊井とは一年のときから同じクラスで、どういうわけか、やたらと俺に突っかかってくる。


 女子はめんどくさいから苦手だ。

 ひとこと何か言ったら倍になって返ってくるし、すぐ怒るし、すぐ泣くし、すぐ先生にチクるし。だから、熊井のことも相手にしないことにしている。


 熊井に聞かれないように溜息をもらした俺を、目の前で同じく模造紙にはいつくばっている学級委員長の汐崎哲大しおざきてつひろが、笑いを噛み殺したような顔でちらちら見る。

 俺も汐崎も同じ色を塗っているはずなのに、なぜ俺が塗ったところだけ変に目立つんだろう?


 正直に言おう。女子も苦手だけれど、絵を描くのはもっと苦手だ。

 写生なんて、最後までまともに描きあがったためしがない。目の前にある木や花を見てもちっともうまく描けないし、同じ色に塗ろうとしても、そんな色はどうやっても作れない。


 ちなみに俺たちが今取り組んでいるものは、写生ではなくて巨大絵画だった。

 毎年十一月三日の文化の日に、駅前の雛条商店街で“雛条アートフェスタ”と題するイベントが開かれる。

 その中の出し物のひとつに巨大絵画展というのがあって、担任の先生が「わたしたちのクラスもぜひ出品しましょう」と言いだしたのだ。出品した作品は一か月間、雛条商店街のアーケードに展示される。


 相談した結果、四枚の模造紙を使って、四班にわかれて色を塗り、最後に貼り合わせて巨大絵画を作ることになった。

 俺は委員長の汐崎と、女子の熊井と、それになぜか熊井と仲のいい加島紗月と同じ班になった。


 俺たち以外の班は、もうすでに色を塗り終えてしまっている。後は俺たちの班が完成させて、貼り合わせるだけ。

 そういうわけで、作業が遅れている俺たちは、放課後に残るはめになった。


 俺はそっと右隣に目を向けた。

 水色の半袖ブラウスから出た細い腕が、筆を握って、ていねいに色を塗っている。サラサラの黒い髪が絵の具を塗ったばかりの模造紙につきそうで、見ているこっちがハラハラする。


 加島紗月は、さっきからずっと黙って作業をしている。俺と熊井のやりとりなどおかまいなし。そういえば、今日は一度もしゃべっているところを見ていない。ずっとうつむいて、模造紙ばかり見て、ひたすら色を塗っている。


 俺たちの作品は、澪入山のクスノキ伝説をテーマにしている。

 大きなクスノキをバックに、着物姿の若い男と村の娘がよりそっている絵だ。


 俺たちの班が受け持つのは主にクスノキの葉の部分で、加島と俺は横に並んで、ふたりでクスノキの葉を塗っていた。

 加島は、いちばん細い筆を使って、ところどころ葉脈まで描きこみ、一枚一枚細かく色を塗りわけていく。太い平筆でべたべたと塗り、汚いまだら模様になっている俺とは大違い。


「おまえ、うまいな」


 俺は本気で感心して、思わず口に出して言ってしまった。

 加島がびくっとして、首をひねるようにして俺を見た。何かを問いかけるように、まん丸い目が必死に俺を見つめる。


 よけいなことを言ったのかもしれない、と思った。

 俺は顔をそらして、ふたたび模造紙に向かった。


 加島はクラスの女子の中でもおとなしいほうで、俺たち男子とはほとんど口をきかない。

 授業中も休み時間も掃除の時間も、いつでも静かで、おっとりしている。どうして彼女があの騒がしい熊井なんかと仲がいいのか、まったくわからない。


 もっと謎なのは、加島がクラスの女子の中でいちばん足が速い、ということ。

 今年の運動会では熊井や俺と一緒にリレーの選手に選ばれて、俺と同じチームになった。足は速いくせにやることはトロくて、バトンパスも最初のうちはなかなかうまくいかなかった。


 でも、練習はさぼらなかったし、最後まで投げ出さなかった。本番でのバトンパスは見事に成功して、俺たちのチームは一位になった。

 どうやら、加島は運動全般が得意なわけではないらしい。走ること以外は平均以下で、むしろどんくさい。五月のドッヂボール大会のときは、真っ先に当てられて退場していたし。


 熊井みたいなうるさい女子は無視すればすむけれど、おとなしい女子にはどうしていいかわからない。下手なことをすると、泣き出されそうで。

 リレーの練習のときも、うまく話しかけることができなかった。むこうも全然しゃべらなくて、無言で練習に没頭していた。


 やっぱり、男とはしゃべりたくないんだろうな。

 そんなことを考えながらぼんやり筆を動かしていると、またはみだしてしまった。

 あ、と思ったとたん、バシッと後頭部を叩かれた。


「またはみだしてる!」


 ふりむくと、熊井がすごい形相で背後に立っていた。背が高いから、仁王立ちすると迫力がある。右手に持った筆洗の水を、ぶちまけられるのではないかと思った。


「紗月ちゃん、そこ、塗り直してやってくれない?」


 熊井が加島のほうを向いて言った。

 俺は後頭部をさすりながら、ちらっと加島を見る。加島は、真っ赤になって小さくうなずくと、俺がはみだしたところを塗り直し始めた。


 なぜか、右側がこそばゆいような感じがした。

 加島は、やっぱり一言もしゃべらずに、俺がはみだしたところをきれいに修正してくれた。そしてその後も、もくもくと色を塗っていた。




 翌日、放課後になってみると教室に残っていたのは俺と汐崎と加島だけだった。


「ほかのやつらは?」

「塾だってさ」


 汐崎が準備をしながら、軽く言う。


「しょうがないよ。三人でやろう」


 邪魔な教室の机を隅に寄せて床にスペースを作り、模造紙を広げる。

 ふと見ると、俺と汐崎が準備をしている横で、加島は何をすればいいかわからず、きょろきょろしている。


「加島」


 声をかけると、加島はまたびくっと体を揺らして、俺を凝視する。だから、なんでそんな目で見るんだよ。

 俺はロッカーから筆洗を持ち出し、黙って加島につきつける。加島はぽかんとして、受け取ろうとしない。


「水、汲んできて」


 言われてようやくはっとしたように、加島はおずおずと手を出した。

 だけど、筆洗を受け取っても、教室を出ていこうとしない。ぼうっと立って、俺の顔と床に広がった模造紙と自分が手にした筆洗を、かわるがわる見ている。


「だから、水」


 びくりと肩を震わせて、加島は逃げるように教室を出ていく。


「かわいそうに」


 後ろから、ぼそっと言われる。ふり返ると、汐崎が細い目で俺を責めるように見ていた。


「何が」

「加島さん、おとなしいんだからさ。そんな怖い顔で睨んだら、かわいそうだろ。びびりまくってたじゃん」

「別に睨んでないけど」


 汐崎から目をそらし、窓際に行く。窓の向こうは強い陽射しがあふれている。空が広くてまぶしい。もう十月なのに、夏みたいだ。


 俺はやさしくないんだろうか。

 冷たくしているつもりはないし、怒っているわけでもないけれど、みんなからはそう見えるらしい。「うれしいときはニッコリしなさい」と親からもよく言われる。

 大人は簡単に言うけど、ニッコリするのってむずかしい。ニッコリすれば、やさしいってことになるんだろうか。なんか変だ。


「ありがとう、加島さん」


 汐崎が細い目をもっと細めてニッコリしながら言い、見ると加島が筆洗をぶらさげて教室にもどってきたところだった。俺と目が合うと、さっとそらす。

 ひょっとして俺、加島に嫌われているのかな。

 突然、がくんと心の中が重くなった。あれ? なんだ今の。


 俺たちは模造紙を囲んで床に座る。パレットを開いて、絵の具を出す。俺の担当は昨日と同じ、クスノキの葉。加島もだ。


「市之瀬、またはみだしてる」


 塗り始めて十分もたたないうちに、汐崎が俺の塗っているところを指差して冷たく言い放つ。


「そこ、もう一回塗り直してくれよ。熊井にバレる前に」

「えー。めんどくさい」


 つい、本音がもれた。

 ふっ、と横からかすかな息づかいのような声が聞こえ、筆を握ったまま顔を向けると、加島が笑っていた……ように見えた。


 筆を握る手が軽くなった。加島が笑うところを見たのは、初めてかもしれない。

 俺と目が合うと、加島はすぐにさっと顔をそむけて、またうつむいてしまう。肩までの黒い髪が、カーテンみたいに加島の表情を閉ざしてしまい、見えなくなった。


「俺、ほかの班の絵を見て思ったんだけど」


 急に汐崎が発言したので、俺は加島から目をそらした。


「あのクスノキの精、ちょっと老けてるよな」

「クスノキの精? そんなのいたっけ?」


 俺がなんということもなく聞き返すと、汐崎は呆気にとられた顔で俺を見た。


「男のほうがクスノキの精なんだよ。おまえ、ひょっとしてこの話、知らないの? 雛条市民のくせに?」


 大人みたいな言い方をする。知らねえよ。


「加島さんは、もちろん知ってるよね?」


 いきなりふられて戸惑いつつも、加島はこっくりとうなずく。

 俺はうろたえた。

 それって、知っててあたりまえの話なのか?


 汐崎は、そのあとたっぷり十五分かけて、俺に澪入山のクスノキ伝説についてくわしく語った。ひどく得意げだった。


「だから、この町の人は、今でも絶対にクスノキを伐らないんだよ」


 それで雛条の町には、あちこちに古いクスノキが残っているのか。

 汐崎から話を聞いた後で見ると、なんとなく、目の前の絵が違って見える。


「だけどさ、この絵もちょっと変なんだよな」


 汐崎はなぜか正座をして腕を組み、模造紙を見下ろした。「変」と言われたとたん、色を塗っていた加島がおろおろして筆を止める。


「幹の太さと根っこの形が、全然違うんだよ。もっとこう、どかっとしてるって言うか……」

「おまえ、本物見たことあるのか?」

「もちろん」


 汐崎は胸を反らした。


「何度もあるよ。あたりまえだろ」


 俺は一度も見たことがないけど。

 すると、俺の隣で加島がかすかに息を吐いた。


「私も見てみたいなあ……」


 小さなつぶやきだったけれど、確かに、聞こえた。

 静かな、やさしい声だった。

 なぜか、俺はどきどきして、加島の顔を見ることができなかった。


 その後、俺たちはもくもくと作業を続け、下校時刻を知らせる音楽が校内に流れる頃には、三分の二くらいまで仕上がっていた。


「間に合う……?」


 加島が隣に立ち、心細そうな声で聞いてきた。提出日は明日だった。


「ま、なんとかなるだろ」


 そう言ったものの、かなり不安だった。それは加島にも伝わったのか、加島は思いつめたような表情で未完成の模造紙を見下ろしている。

 手早く後片付けをして、見回りの教師が来る前に三人で教室を後にした。




 翌日、俺は一時間ほど早く起きて登校した。やっぱり、放課後だけでは間に合いそうにないと心配になったからだ。


 しんと静まり返った朝の校内は、不思議な感じがした。いつもは遅刻ぎりぎりの時間に登校しているので、まだ誰もいない校舎に入ると、別の場所に来たみたいだ。

 ガラッと教室の扉を開けると、机の向こうにしゃがみこんでいた誰かが、弾かれたようにふりむいて首を出した。


「加島……?」


 教室にいたのは加島だった。

 誰もいないと思っていた俺はちょっと焦った。けれどそれ以上に、目にした光景が信じられなかった。

 床に広がった模造紙に、色がついていた。もうほとんど完成に近い。


「これ、おまえが?」


 鳥が翼を広げるように大空に枝を伸ばすクスノキが、まるで生きているみたいだった。

 俺が塗った部分もきれいに修正がされていて、はみだしていたところは全部わからないように塗り直してあった。

 加島は筆を握ったまま、ほんのりと笑った。両手の肘から先が、絵の具でカラフルに染まっていた。


「後は、放課後みんなで塗れば、間に合うよね」


 満足そうにポスターを見てそう言った後、急に表情に影が落ちる。おずおずと俺の顔をうかがい、「よけいなこと、したかなあ」とぼそっとつぶやく。

 俺は言葉もなく首をふった。


「よかった。私、ほかに何もできないから」


 消え入りそうな声で、加島は言う。

 もやもやした思いが胸にこみあげてきた。


 どうしてもっと、堂々としないんだろうと思った。こんなにすごいことができるのに。どうして、いつも、そんなに自信がなさそうな顔ばかりするんだろう。


「市之瀬くんにも、苦手なもの、あったんだね」


 静かなやさしい声で、加島が言った。俺は意味がわからず、言いかけた台詞を飲みこんだ。


「市之瀬くんはなんでもできるから、苦手なものなんかないのかと思った。私と反対だね」


 何言ってんだ。

 もやもやは、限界まで達していた。こらえようにもこらえられなくなって、「あのな」と言いかけた瞬間に。


「おーっ、二人とも早いじゃんッ」


 熊井がでかい声で叫びながら、ずかずかと教室に入ってきた。続いて、汐崎も。


「うわあ、すごい! ほとんどできてる!」

「市之瀬と加島さんとで、やってくれたの?」


 俺は「違う」と言おうとした。だけどそれより先に、加島が「うん、そう。ふたりで塗ったの」と力強くうなずいていた。

 その横顔が笑っていた。見たことがない笑顔だった。俺はそれを見たとたんに、何も言えなくなっていた。



 

 俺たちが苦労して完成させた巨大絵画は、雛条アートフェスタで特別賞を受賞した。

 絵が展示されている雛条商店街のアーケードの下を通るとき、なぜか恥ずかしいようなくすぐったいような、不思議な気持ちになった。


 それから、気づいた。

 教室の中で、廊下で、授業中、あるいは休み時間。加島のことを見るたびに、心臓がとくとくと小さく音をたてていることに。

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