8 待ってて
時計を見て、西森さんが慌ただしく席を立った。
「ごめんね、一緒にランチに行く約束してたのに」
テーブルの上に広げた資料を乱暴にかき集める。
今日になって、急に企画部との打ち合わせが決まったらしい。私は笑顔で「気にしないでください」と言った。
「スケジュールについては市之瀬くんから説明してあげて。じゃあ加島さん、よろしくね。何かあったらまたメールします」
早口で言い、資料を抱えて会議室を出ていこうとする西森さんを、市之瀬くんはいつものように冷めた表情で見送る。
「そうだ、一応確認なんだけど」
会議室のドアを開けようとして、西森さんが思い出したように私たちをふり返った。
「ふたりは付き合ってるんだよね?」
あまりにも自然に聞かれたので、うっかり頷きそうになった。焦った私はとっさに市之瀬くんを見てしまい、言葉よりも明らかな態度をとってしまった。
西森さんが子供のような笑顔を見せた。
「じゃ、加島さんとランチに行く権利は市之瀬くんに譲るわ」
「あー……どうしよう」
焼きさば定食のさばの身を箸の先でほぐしながら、私は何度目かの溜息をつく。
安くておいしいという西森さんおすすめの和食のお店は、ランチタイムに押しかけたサラリーマンとOLでいっぱいだった。
「どうしてわかっちゃったのかなあ」
悩んでいる私の前で、市之瀬くんは平然とアジフライ定食を食べている。
「心配しなくても、西森さんは誰にも言わないよ」
やけに自信満々だ。
「どうして?」と聞くと、市之瀬くんは私と目を合わせた直後、ごまかすように箸を握る手もとに視線を移した。
「あの人もいろいろあるから」
「いろいろって?」
「それは、まあ、そのうち」
それきり、頑なに口を閉ざしてしまった。私もあきらめて食事に専念する。さばがおいしい。
市之瀬くんからいろいろなことを聞き出すのは、やっぱり簡単じゃなくて、彼の心を覆い隠す頑丈な鎧の前に私はいともあっさり沈んでしまう。
悪気がないことはわかっているし、話せない理由があるのかもしれないけど、もう少し私のことを信用してくれてもいいんじゃないかな……と思ってしまうのは、身勝手かな。
聞き出すコツがあるのかも。今度こっそり、富坂くんにでも聞いてみよう。
「そういえば」
市之瀬くんが急に口を開いた。
「この前、富坂からメールが来たんだけど。加島にデートプランの礼を言っといてくれって。なんのこと?」
「あ、前に会ったとき、連休に彼女さんが遊びに来るって言ってて。どこかおすすめないかって聞かれたから、美術館情報とか教えてあげたの。デート、うまくいったのかな」
「彼女が喜んでたって」
「そうなんだ。よかった」
「で、それいつの話? 富坂と会ったの?」
いつもと同じ、抑揚のない冷めた声。
でも、これは……。
「あ、言わなかったっけ。連休の少し前、土曜出勤のとき、偶然。困ってるみたいだったから、その……ちょっとだけ、お茶した」
「ふたりで?」
市之瀬くんの表情はまったく動かない。無表情のまま、見つめられる。
「……もしかして、妬いてますか」
「妬いてません」
声は冷静だけど、不自然に目をそらした。そして何もなかったように黙々と箸を進める。
このままふたりで仕事をさぼって、どこかへ行きたいなあと思った。
もちろん、そんなことはできないし、しないけど。
市之瀬くんの心が動くと、私の心も動く。
以前はそのたびに不安になっていたけれど、今は、動かされることが嫌じゃない。
「今日、仕事終わるの遅くなりそう?」
店を出て、途中まで一緒に歩く。市之瀬くんは会社にもどり、私は駅へ向かう。
「そんなに遅くはならないと思うけど」
市之瀬くんは少し考えてから言った。
明るく晴れ渡った五月の空が気持ちいい。もうすぐ夏だ。
「じゃあ……部屋で待っててもいい?」
市之瀬くんは不意を突かれたような顔をして、「……どうぞ」と言った。そしてすばやく私の手をとって強く握り、すぐに離した。
「なるべく早く帰るから、待ってて」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この続きは、またいずれ。




