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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
続編
87/88

7 同じじゃないから

 連休二日目。

 昨日の夜から、加島の携帯がずっと留守電だ。

 今日も、朝から何度もかけているが出ない。メールを送っても、音沙汰なし。

 どうなってる?

 終わりにしたいっていう意思表示か?

 自分で推量して落ちこむ。


 携帯の連絡先を眺めてさんざん迷った挙げ句、俺は汐崎哲大しおざきてつひろに電話をすることにした。

 ネットで雛条市のサイトを見て、親子写生会が明日であることは調べ済みである。

 CMの件以来、仕事で何度か連絡しているから、いきなり休日の朝に電話してもさほど違和感はないはずだ。と、思いたい。


『今度は何? 新しいCMの話?』


 汐崎はうきうきした口調で電話に出た。

 期待に添えず申しわけない。


「あー、その……明日だろ。例のイベント」

『親子写生会? そうだけど。あ、もしかして、気にして電話かけてきたとか?』

「え?」

『加島さんのことだよ。人手は足りてるから、気にするな』


 人手は足りてる?


「……ああ、そうか。えーと、あいつ、おまえに直接連絡した? いつ?」


 少し間があった。


『二週間くらい前だけど。なんだよ、なんかこじれてる?』

「こじれてない。悪かった。じゃあな」

『は? おい、ちょっと──』


 電話を切って考えこむ。

 親子写生会への参加を断ってるって、どういうことだ?

 雛条に帰ってイベントに参加するんじゃないのか?

 もう一度、携帯の連絡先を眺める。

 加島の居場所を知っていそうな人物は少ない。富坂は知らないだろうし、健吾は……知っているかもしれないが、あいつにだけは何があっても絶対に連絡したくない。

 しょうがない。こうなったら。


「悪い。今大丈夫か? ちょっと聞きたいことがあって」


 電話をかけた相手は、しばらく無言だった。


「松川?」

『何ごとっ!?』


 大声で叫んだかと思うと、電話の向こうでドタバタと騒々しい物音がした。


『びっくりさせないでよ』


 急にひそひそ声になる。


『とりあえずベランダに移動した。健吾に知られたくないんでしょ?』


 完全に見透かされていた。

 なぜこんなに察しのいい女が、日本一鈍感な男と結婚しようとしているのか謎だ。


『それで? なんなの、どうしたのよ?』

「加島がどこにいるか、知らないかと思って」


 また無言。それからフッ、と鼻息のようなものが聞こえた。


『なんだ、そのことか』

「知ってるのか?」

『知らない』


 松川の冷たい返答に瞬殺されて、俺は電話を切ろうとした。


『紗月と連絡つかないの?』


 松川が聞いてきたので、昨夜からずっと留守電だと告げた。


「俺はてっきり、そっちにいるもんだと思ってたんだけど」

『私もそのつもりだったんだけどね。金曜の夜に、やっぱり気が変わったからやめるって紗月から突然メールが来て』

「やめる? じゃあ東京にいるのか?」

『行きたいところがあるってメールには書いてあった。どうしても実物を見て描きたいとかなんとか……よくわかんないけど』

「行きたいところってどこだよ?」

『知らないよ』


 松川は怒ったように言う。さっきから、どうも声に棘があるような気がする。


「……加島から、何か聞いてる?」

『何かって?』


 わざとだな、これは。


『紗月と何を話したかなんて、教えないよ、そんなの。紗月に直接聞けば?』


 もっともなので言い返せない。

 黙っていると、電話の向こうでかすかに笑うような気配がした。


『市之瀬が私に電話してくるなんて、よっぽど困ってるみたいだね。大丈夫?』


 楽しそうに言われて腹が立った。なんだか健吾に似てきたな。


『市之瀬』


 急にしんみりした声になって、松川が言った。


「なんだよ」

『ごめん、バレたみたい』


 直後、通話の相手はもっとも聞きたくない声の主に変わった。


『人の婚約者にコソコソ電話してくるとは、いい度胸だな』


 どすの利いた声で言い放った後、健吾はこれみよがしに大きな溜息をついた。がらりと口調が変わる。


『言っとくけどなあ、俺たちは加島さんの居場所なんか知らないからな』

「それはたった今、松川から聞いた」

『だいたい、俺たちよりおまえのほうが見当がつくだろ、加島さんの行きそうなところなんて』


 その言葉に、修学旅行のときのことを思い出す。

 あのときと同じ場所に、加島はもういない。

 加島がどこにいるのか、今の俺にはわからない。

──違う場所なのに、地下水脈でつながってる。


『おまえさあ、本当にいいかげんにしろよ。いつまで引きずってんだ。……おい。聞いてんのか、郁』

「地下水脈を辿ればいいってことか」

『は? 何言ってんだ?』

「急ぐから切るぞ」


 健吾の返事を待たずに電話を切ろうとして、ふと思いとどまる。


「……悪かった」

『なんのことだ?』

「あのとき……やっぱり、おまえの忠告を聞いとくんだった」


 返事がない。

 長い沈黙の後で、すうーっと息を吸う音が聞こえた。

 あ、やばい。


『てめー、今さら何言ってんだっ!! ふざけんなっ!!』


 凄まじい怒鳴り声が耳を直撃するより一瞬速く、俺は電話を持つ手を遠ざけた。


『今すぐここへ来い! 一発ぶん殴ってやる!』

「謝ったのに、なんで殴るんだよ」

『だからだろうが!! おまえが今謝ったら、あの頃の住友や加島さんがかわいそうじゃねえか! ついでにあの頃の俺も、ものすっごくかわいそうだっ!』

「……」

『なかったことにしようとしてんじゃねえっ!! 本気で怒るぞ!!』


 いや、もう充分怒ってるし。

 怒鳴り散らしたら気がすんだのか、健吾はそれきり押し黙る。沈黙の向こうで『もー、うるっさいなー』と、松川の間延びした声が聞こえた。


『……で? 心当たりはあるのか?』

「まあ。確信は持てないけど」

『なら、行けば?』

「そうする」


 電話を切った。大急ぎで支度をして、部屋を出る。

 空港へ向かう途中でもう一度加島の携帯に連絡を入れてみたが、やはり留守電だった。



 * * *



 加島紗月は、廊下で俺とすれ違っても、まったく気づかなかった。

 入学式から二週間。

 忘れられているのかと思ったが、そうではなく、見た目が変わったせいでわからなかったらしい。加島と同じクラスになった健吾から、後で聞いて知った。


「うわー、混んでるね」


 住友が学食の前の人だかりを見て言った。

 昼休みのチャイムが鳴ってすぐに教室を出てきたのに、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下は既に学食に向かう生徒たちであふれていた。

 住友とは同じクラスになった。高校に入ってからも、彼女は俺から離れようとしない。

 このままではいけないことはわかっていた。

 だが俺が話をしかけると、住友は気配を察して巧みに話題をそらしてしまう。


「どうしたの?」


 住友が不思議そうな顔をする。学食の入り口を素通りして体育館裏へ向かい、まわりに人がいないことを確認して足を止めた。

 住友を見ると、顔がこわばっていた。


「待って、言わないで」


 俺の言葉を押しとどめて、住友は俺の手を取った。体育館の一階にある用具室の扉が開いている。住友は俺の手を引いて用具室の中に入った。


「もう少しだけ。お願いだからひとりにしないで」

「だけど、このままじゃダメだろ」

「わかってる、でも」


 住友は焦っていた。言葉を見つけられずに唇を噛む。


「悪いけど、俺はふりをすることしかできない。一緒にいても、何も変わらない。住友だって、離れればきっと──」

「だったらどうしてあんなことしたのよ」


 鋭い声で、遮られた。


「私のことなんか好きでもないくせに、どうしてあのとき優しくなんかしたのよ。どうなろうとほっとけばよかったじゃない。市之瀬くんが悪いんだよ。私は何もしてない。私のせいじゃない。こうなったのは、市之瀬くんのせいだ」


 唇を強く噛んで、住友は俺から顔をそらした。

 俺は彼女の言葉と、胸の中で大きくなる音を聞いていた。刺すような痛みを全身に感じる。


「もう少しだけ……私のそばにいて」


 ささやくような小さな声で言うと、住友は両手を伸ばして俺の首に回した。彼女の手に引きよせられるままに唇を重ねる。

 唇が離れた直後、入り口のほうで物音がした。

 視線を移すと、そこにいた加島と目が合った。加島は即座に用具室を飛び出していった。俺は住友の体を押しやって、追いかけようとした。が、足が止まる。

 追いかけてどうするつもりなんだ。

 言いわけなんか、何ひとつできないのに。


「市之瀬くん」


 住友が不安に囚われた顔をして、俺の腕をつかむ。俺はその手をほどいて、「ごめん」と言った。

 用具室を出ると、加島が足をひきずりながら一号館の校舎の中へ入っていく後ろ姿が見えた。頭ではそうするべきではないとわかっているのに、足が校舎へ向かう。


 重く暗い後悔が、胸を占めた。

 後悔しても、事実は消えない。

 加島が本当のことを知ったら、軽蔑するかもしれない。

 保健室の扉を開けると、加島が非難するような目で俺を見た。泣きながら、血の出ている膝に消毒薬を塗っている。


「転んでケガしたくらいで泣くなよ。小学生か」


 俺は加島の手から消毒薬を奪い、かわりに手当をしてやった。

 今の俺にできることは、それだけだった。


「……ありがとう」


 加島は小さな声でつぶやき、懐かしむように俺を見た。

 記憶が脈動する。

 しまいこんでいた感情が、遠くから波打つようにやってきて感覚を支配する。

 加島の前では時間が飛ぶ。あの頃の自分とつながって、何もなかったような気になってしまう。だがそれは幻でしかない。

 保健室を出ると、住友が廊下で待っていた。

 俺の手を握る彼女の指は、とても冷たい。あの冬の日のように。


「まだ、そばにいてくれるよね?」


 強く手を握り、目を伏せて、住友は小さな声でささやいた。



 * * *



 加島のことでは、迷ってばかりいる。

 怖いからだ。

 軽蔑されるのも、嫌われるのも、背を向けられるのも。

 離したくないのに、触れることも、怖くてできなかった。


 クスノキのそばに、加島はいた。

 大きく広げた太い枝に抱かれるように、光る緑の葉の下に加島は立っていた。スケッチブックを手にして。

 瞳に強い光が宿っている。

 ああそうだったんだ、と初めて気づいた。

 俺は、絵を描いているときの加島を見るのが好きなんだ。


「加島」


 スケッチブックから顔を上げ、加島は驚いた目で俺を見た。


「どうして……」


 西の空に傾いた太陽は夏の匂いのする光を投げかけ、地上に長く濃い影を作る。

 樹齢千五百年のクスノキの大木は、蒲生八幡神社の境内の一角にそびえ立っていた。


「頼みがあるんだけど」


 樹木が送り出す静謐で力強い波を感じながら、おそるおそる歩みよった。

 加島は右手に鉛筆を握ったまま、呆然としている。


「黙っていなくならないでくれる? 小六のときから、何度も同じ目にあって、俺けっこうトラウマなんだよ」

「あ……ごめん……」

「携帯は? メールしたんだけど」

「あの……充電器を忘れちゃって……」


 加島はまだ信じられないという顔で俺を見上げている。


「どうして、ここにいるってわかったの? 誰にも言わなかったのに」

「地下水脈を辿ってきた」

「え?」


 この国でいちばん大きな樹木は、加島の場所と俺の場所をつなぎとめてくれた。それくらい簡単だと言わんばかりに、頭上はるか高いところで静かに梢が揺れる。

 地上の空間が狭く見えた。

 五月の新緑があふれるように強い色と匂いを放ち、世界を充満していた。雛条の伝説のクスノキよりもはるかに大きく、視界におさまらないほどだ。

 夕暮れが近いせいか、人影はまばらだった。小さな女の子を連れた若い夫婦が、案内板を眺めていた。女の子はすぐに両親のもとを離れて、三十メートル以上もある根のまわりに設けられたデッキの上を、元気に走り回る。


 葉擦れの音がする。

 空で鳥が鳴く。

 さまざまな音が聞こえる。

 なのに、静かだ。

 地上から遠く離れた場所を流れる、水の音が聞こえるほどに。


「加島に会いたくて来た」


 泣きそうな顔をして、加島は俺を見た。

 俺たちはクスノキのそばから離れて、境内にある石造りのベンチに並んで座った。境内の中は、どこを見ても大きな樹木がそびえている。

 住友のことを話した。

 初めて言葉を交わしたときから、すべて。

 好きになったことは、一度もなかった。

 間違えたことに気づいたとき、すぐに後悔したのに、その後も俺は何度も間違いを犯して、住友を傷つけた。

 それなのに──。

 俺はカバンの中から白い封筒を取り出し、加島に差し出した。

 金曜日に届いた、差出人の名前がない手紙だ。


「……いいの?」


 俺が頷くのを見て、加島は既に開いている封筒から中身を取り出した。




 バカみたい。

 なんで追いかけるかな。

 私のことなんか、ほっとけばいいのに。

 そうやって市之瀬くんは、優しくする相手を間違えて、いつも大切なものを手放すんだよ。

 ほんとに、バカだね。

 卒業式の日に、もう二度と会わないって言ったよね。

 私はそのつもりだったよ。

 一生、あなたには会わないつもりだった。

 だから、これが最後。

 あのとき、そばにいてくれてありがとう。

 今さら遅いけど、ごめんなさい。

 ずっと、ごめんなさい。

 この手紙が届く頃には、私は日本にいないと思う。

 だから、もうウソをつかなくてもいいよ。

 そして約束して。

 今度、どこかの街で私を見かけることがあっても、絶対に追わないって約束して。

 元気でね。

 さよなら。


                     長谷川窓花




 都内のホテルの名前が入った白い便箋に、ていねいに綴られた文字を、加島は黙って目で追った。読み終わると、やはり何も言わずに封筒にしまう。

 降ってくる光がやわらかく感じられ、太陽が大きく傾いていることに気づいた。いつのまにか、境内には誰もいなくなっていた。

 この絵が完成したら、と加島はスケッチブックを見て静かに言った。


「市之瀬くん、もらってくれる?」


 いつになるかわからないけど。

 うつむいたまま、つぶやくように言う。


「私、ずっと住友さんのことが怖かった。私にとって市之瀬くんは特別な人だけど、市之瀬くんにとっての特別な人は住友さんだってことを、認めてしまうのがすごく怖かった」


 否定しようとしたら、加島は遮るように先を続けた。


「雛高祭のときに私が描いたクスノキの絵ね、あれ、市之瀬くんにあげるつもりで描いたの。あのときの私にできる、精一杯の告白だった」


 美術室に展示されていた、クスノキの絵を思い出す。

 キャンバスからあふれ出していた、たくさんの色。


「だけど、住友さんに見抜かれて怖じ気づいた。あのときも──卒業式の日も、私は住友さんから逃げたの。あれからずっと、逃げてたように思う」


 加島は顔を上げて、俺を見た。


「だから、今度こそ、あげる」


 今にも泣き出しそうなその顔が、笑っていた。


「ほんとは、完成するまで内緒にしておこうと思ってたんだけどな」




 その夜は、ふたりで同じホテルの部屋に泊まった。

 キスの合間に「同じじゃないから」と言う。加島が小さく吐息を漏らして、潤んだ瞳で問い返す。答えるかわりに、瞼にキスを落とした。


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