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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
続編
86/88

6 違う場所

 金曜日の昼休み、開発部のフロアを出てエレベーターを待っていると、西森さんに声をかけられた。


「市之瀬くん、外食?」

「いえ、コンビニです」

「私も」


 西森さんはそう言って俺の隣に並んだ。昼休みに入って混雑しているのか、エレベーターがなかなかやってこない。


「今夜、加島さんと飲みに行くんだけど」

「え?」


 加島の名前に思わず反応してしまった。隣で俺を見上げる西森さんと目が合う。

 先週の金曜、何も言えずに黙って加島を見送ってから一週間が経つ。富坂は全部話せと言ったが、何をどう話せばいいのかわからず、住友との関係を打ち明ける勇気も出なくて、電話もメールもしていない。加島からも連絡はなかった。


「あの」


 金曜の夜は無事に帰れたのだろうか。あのようすじゃ、翌日は相当辛かったはずだ。


「気をつけてください。あんまり飲みすぎないように。西森さん、そんなに強くないんでしょ?」


 西森さんは怪訝な顔をしていたが、ふと目を細めた。


「本当は誰の心配をしているのかな?」


 エレベーターが到着したが、満員だった。乗らずに見送って、次を待つ。


「明日からの連休、市之瀬くんはどうするの?」


 話題が変わったのでほっとする。だが俺が答える前に、西森さんは前を見たまま言った。


「加島さんは、どこかへ行くみたいだけど」

「どこかって……?」


 また目が合ってしまった。反応しすぎだろ。


「そこまでは聞いてないけど」


 西森さんは、俺の表情を観察するようにじっと見る。


「明日の朝、新幹線に乗るって言ってたから、東京を離れることは確かだと思うよ。そのためにがんばって、今週中に急ぎの仕事を片付けたって言ってた」


 旅行に行くというような話は聞いていない。

 もしかしたら、雛条に帰ろうとしているのだろうか。

 きっとそうだ。例の親子写生会に参加するつもりなのだ。加島が自分で断ると言うので、俺から汐崎には連絡を入れていない。結局、加島は断らなかったのに違いない。


「加島さんのこと、昔から知ってるって言ってたよね。どういうつながり?」

「別に。単なる知り合いです」


 西森さんは不満げな表情を見せたが、すぐに気を取り直して言った。


「市之瀬くんと加島さんて、ちょっと似てるよね」

「どこがですか。似てませんよ、全然」


 つい口調が強くなった。西森さんはまったく気にしていないようすで「そうかなあ」と暢気に言った。

 何を誤解しているのか知らないが、俺と加島は似ても似つかない。

 加島は俺と違って自分の気持ちに正直で、ひたむきで、純粋で。昔から自分の進む道を迷うことがなかった。絵を描くことと正面から向き合って、常に前を見て歩き続けている。

 同窓会で七年ぶりに再会したとき、やっと追いつけたと思ったのに、加島はまたひとりで先に走っていってしまった。今は彼女の背中すら見えない。

 もしかしたら、俺は永遠に、加島には追いつけないのかもしれない、と最近思う。


「似てるっていうか、なんていうか」


 西森さんは言葉を探すように、顎に手を当てて考えこむ。


「違う場所なのに、地下水脈でつながってる……みたいな感じ?」


 エレベーターが到着し、扉が開いた。今度は空いていた。

 俺と西森さんが乗りこむと扉が閉まり、押し黙る小さな四角い空間は下降した。地上に到着し、また扉が開く。


「なら当たり前かもしれないですね」


 エレベーターを降りてから俺は言ったが、西森さんは話の続きだと気づかなかったようで、「何が?」と聞く。俺は笑ってごまかした。

 違う場所なら、加島の背中が見えなくても──追いつけなくても当然だ。

 ときどき、幽かな流水の音を感じることがある。

 加島と再会したとき、そして修学旅行で一緒にクスノキの大樹を見たとき、体の奥深くから聞こえてきた音。

 オケのコンサートのとき、音楽の向こうの静寂の彼方から聞こえてきたのも、同じ音だった。


「西森さんって、変な人ですね」

「え、何よ、急に」


 案外、西森さんと加島は気が合うかもしれない。

 ビルを出ると、晴れた空から明るい光が射していた。コンビニへ向かう通りは、仕事から解放された人々で溢れている。

 同じような服を着て、同じような髪をして、同じような表情を浮かべて、歩いている。

 毎日、代わり映えのしない光景。

 だが、どこから来て、どこへ行くのかは、ひとりひとり違う。

 本当は何ひとつ同じものを持っていないことを知っているから、同じものを求めてしまうのかもしれない。


 その日は、夜遅くなってから帰宅した。

 郵便受けに、差出人の記名がない白い封筒が届いていた。



 * * *



 中学最後の冬休みが近づいている。

 クリスマスも正月も、世間が浮かれ騒ぐイベントはもとから好きではないのだが、今年は特に気に入らない。

 受験生にとってはそれどころではないのだ。

 その日は、朝からクラスの女子たちが集まって何やらコソコソ話していて、なんとなく気になってはいたのだが、どうせまたくだらないアイドルの噂話か何かだろうと思っていた。

 真相を知ったのは、昼休みが終わる直前だった。


「おい、かおる


 教室で寝ていると、聞きたくない乱暴な男の声が眠りを妨げた。無視しようとすると「起きろ」とさらに声をでかくする。


「なんだよ」


 机に突っ伏していた顔を上げると、健吾の顔がめずらしく真剣だった。


「ちょっと来い」

「どこへ」

「いいから来い」

「寒いから動きたくない」


 健吾は冷たい視線で俺を睨みつけ、無言で教室を出ていく。いつものように冗談でかわしたり、無視したりできそうな雰囲気ではなかったので、しかたなく俺は席を立って健吾の後についていった。

 教室にいた数人の女子が、ちらりと俺たちのほうを見てすぐに目をそらしたことに気づいた。

 嫌な予感がする。

 健吾はそのまま校舎を出て、裏庭へ向かう。建物の間を通り抜ける風が冷たくて、凍えそうだ。

 こんな寒い日に裏庭で昼休みを過ごす生徒などいるはずもないが、健吾はまわりに誰もいないことを念入りに確かめて、俺と向き合った。怖い顔をしている。


「住友がずっと学校を休んでること、知ってるか?」


 住友の名前を聞いたとたん、体の末端が痺れたような感覚に陥った。

 胸の奥が軋む。

 この数か月、意識して思い出さないようにしていたのに、この無神経な男のせいで台無しだ。


「知ってるよ」


 知らないふりをしていただけだ。


「休んでる理由は?」


 俺を見る目が、問い詰めるような色を増す。


「それは知らない」

「本当か?」

「なんなんだよ」

「おまえのせいじゃないんだよな?」


 即答できない。


「どうなんだよ?」


 健吾が詰め寄ってくる。


「知らないって、言ってんだろ」


 俺が言い返すと、健吾は負けずに睨み返してきた。これまでずっと上から見下ろされてきたが、今では六センチしか身長差がない。ほぼ水平の目線がぶつかり合う。

 しばらく黙って睨み合った後で、健吾は脱力したように「なら、いい」とつぶやいた。そして急に落ち着かないようすを見せ、遠慮がちな口調になった。


「おまえら、別れたんだよな?」


 俺は黙って頷いた。健吾はほっとしたように「だよな」と言った。裏庭のさびれた花壇の縁に腰を下ろして、恨めしげな顔で下から俺を見上げる。


「俺の知らないうちにいつの間にか付き合い初めてさ、俺の知らないうちに別れてるからさ……」


 小声でぶつぶつ言う。


「なんでいちいちおまえに報告しなきゃなんねーんだよ」

「そーだよな。おまえってそーゆーやつだよな」

「だから、なんの話だよ。はっきり言え」


 健吾は目をそらして言い渋った。普段はぬりかべみたいに大柄な体が、萎縮して小さく見える。


「……噂になってる」


 ようやく、健吾がぼそりと言った。


「噂? なんの?」

「住友が男に遊ばれて捨てられたショックで休んでるって」


 それに、と健吾はますます言いにくそうに声をくぐもらせた。


「妊娠して堕ろしたとかって……女子が騒いでた」


 ふいに怒りがこみ上げた。


「誰が、そんな噂」

「出所は知らないけど、住友が高校生と付き合っていたのは本当らしい」


 健吾は俺の顔色をうかがうように視線を上げた。


「おまえと付き合ってたのは夏の間だけだし、知ってるやつもほとんどいないけど、ゼロってわけじゃないから……おまえのせいで住友がおかしくなったって言ってるやつもいて」


 胸の奥が軋む音がどんどん大きくなって、全身に響き渡る。耳を塞ぎたくなるほどに。

 俺のせい?

 だけど、別れ話を切り出したとき、住友は笑っていた。

──私も、そんなに楽しくなかったし。全然、大丈夫。

 そう言って、もう俺のことなんかなんとも思っていないみたいに、明るく笑っていたのに。


「わかった。電話してみる」

「やめとけよ」


 健吾が強い口調で遮った。


「今さらおまえが絡んでどうするんだよ。よけいにこじらせるだけだって」

「電話するだけだ」

「それがよけいなことなんだよ。おまえが振ったんだろ?」


 事実なのに、他人に言われると否定したくなった。


「振ったっていうか……」

「違うのか?」

「俺は別に、住友のことが嫌いになったとか、そういうわけじゃなくて」


 健吾が苛ついたように顔をしかめる。


「じゃあ、ほかに誰かできたのか?」


 思わず健吾の顔を見返していた。無意識に攻撃的な目つきになっていたかもしれない。健吾がたじろいだのがわかった。

 だったらよかったのに。

 そのほうが、まだましだ。


「とにかく電話する」

「やめろって」

「おまえには関係ないだろ」


 振り払うような言い方になった。健吾がむっとして口をつぐむ。おもむろに立ち上がると、「あーそうかよ」とやけ気味に言った。


「勝手にしろ。どうなっても俺は知らねーからな」


 不機嫌な声で言い放ち、健吾はそのまま俺を見ようともせずに立ち去った。




 本当にいいの、と住友は何度も聞いた。

 まだ付き合ってることにしようと提案したのは俺だった。バカみたい、と言った住友の声が電話の向こうで震えていた。


「そんなことして、なんの意味があるの。市之瀬くんが損するだけじゃない。私のことなんか、ほっとけばいいのに」


 必死に強がる言葉が、泣き声の向こうに途切れた。

 そのとき、俺は初めて住友の気持ちを知った。

 いつから、住友は泣いていたのだろう。

 付き合い始めたときも、別れるときも、別れた後も、俺は自分のことで頭がいっぱいだった。住友がどんな顔をしていたのかすら、はっきりとは思い出せない。


 住友と一緒にいると、俺の中であの音が大きくなる。

 最初は、そのうち消えるだろうと高を括っていた。

 だが、音は小さくなるどころか、一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど大きくなっていった。その音の向こうに、忘れなくてはいけない人の面影があることも、知っていた。


 その面影から逃れたくて、どうすれば音を聞かずにすむのかとそればかり考えていた。結局、俺が耳を塞いでしまったばかりに、一緒にいるはずの住友の声を聞くことができなくなっていた。

 だからもう、耳を塞いではいけない。

 全身が軋む音に支配されても、聞かなくてはいけない。


「私は、後悔しないよ」


 あの冬の日、住友は淋しそうな笑顔を向けて言った。


「だから、お願い」


 笑っていたが、瞳には涙が浮かんでいた。まばたきを堪えて、かすかに睫毛が震えているのを見たとき、俺は彼女を抱きしめた。冷たい体だった。

 服を脱がせて体を重ね、互いの肌から体温を感じた。

 彼女を抱くことに抵抗を感じなかったわけではない。俺の胸の中で生じる音は彼女を抱いている間もずっと消えなかった。それでも俺は止めなかった。

 彼女の冷えきった体に温もりがもどるまで。




 遠くで鳥が鳴いていた。

 クラス割が貼り出されている掲示の前には、新入生たちが大勢集まっている。俺は少し離れたところに立って、その混雑ぶりを眺めている。


 雛条高校は、標高三百メートル、澪入山を越えた山地の中腹に位置する学校だ。まわりはすべて山。どこもかしこも樹木に覆われている。

 澄み渡る空を鳥の声が飛び交い、風が吹くたびに木々が鳴る。だが、そんなことに気をとられている生徒は誰もいない。みんなクラス発表を見るのに夢中だ。

 頭ひとつ分突き出た大男が、生徒たちの塊の中から出てきた。


「残念なお知らせだ、郁クン」


 大男はわざとらしくうなだれて言った。


「何組だった?」

「とても残念だ」

「だから、何組?」

「俺は二組で、おまえは四組。住友も四組だった」

「ふーん」

「富坂は三組だし。俺のクラス、知ってるやつが誰もいねー」


 健吾はつまらなそうにぼやく。

 こいつの場合、初対面でも旧知の仲でも遠慮なくずかずか踏みこんでくる態度は同じなのだから、知ってるやつがいようがいまいが関係ないと思うのだが……。

 そして、そのパーソナルスペースゼロの心安い男に第一印象で嫌われた俺は、よっぽど人受けが悪いらしい。


「あーあ。郁とは同じクラスだと思ったんだけどな。予想が外れた。そういうわけだから、おまえ俺と一緒に野球部に入れ」

「……どういう脈絡だ」


 俺が教室に向かおうと校舎のほうへ歩きかけると、健吾が「自分で見ねーの?」と聞いた。


「俺は四組なんだろ」

「そうだけど……同じクラスに誰がいるか、気にならねーのかよ?」

「別に」


 そんなこと、どうでもいい。

 そう言いかけた瞬間、俺の足が止まった。

 掲示の前の人混みをふり返る。


「どうしたんだ?」


 前を歩いていた健吾がふり向く。


「先に行っててくれ」

「なんで?」

「あー、その……、やっぱり自分で見てくる」


 クラス発表の掲示板を指さすと、健吾は納得したように頷いて先に校舎へ向かった。

 俺は再び人混みの中に視線をもどした。

 いない。どこだ? 確かに今……。

 鼓動が速くなり、全身の血が激しく脈を打っている。

 見間違い? そんなはずない。

 見間違うはずがない。


 ずっと忘れることができなかった面影。

 違う気持ちを被せてごまかしても、認めたくなくて目をそらしても、心に刻まれた面影は消えなかった。時間なんてなんの役にも立たなかった。

 会いたくて。

 会いたくて、会いたくて。

 俺は生徒たちの中に分け入って、クラス割の掲示を一組から順に確認していった。

 その名前は、二組にあった。


“加島紗月”


 時間が止まったように感じた。まわりの喧騒が消えて、景色が消えて、世界が真っ白になった。

 吸いこまれるような静けさの中、時間の彼方を流れる透明な水の音が、幽かに聞こえる。

 俺は人混みの中から出た。そのあたりにいる女子生徒の顔を確認しながら。

 鳥が鳴いた。

 頭上の空を、一羽の鳶が渡っていく。


 彼女は、俺と同じように空を見ていた。

 羽根を広げ、山の彼方へ飛んでいく鳥の姿を目で追って、彼女はかすかにほほえんだ。

 右の頬に、小さなくぼみが見える。艶のあるまっすぐな黒髪が、真新しい制服の肩の上で風に流れて揺れている。

 俺の視線に気づきもしないで、彼女は静かな足取りで校舎へ向かって歩いていった。


 何度も夢に見た。

 また夢を見ているのではないかと思う。

 だが──彼女だった。


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