表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
続編
85/88

5 何かが変わるのなら

『──それ、本当に言ったの?』


 一瞬の沈黙の後、電話の向こうの亜衣が妙に落ち着いた声で聞く。

 土曜日。もう昼過ぎだというのに私はまだベッドの中にいて、布団を被ったまま亜衣に電話をしている。起き上がるのも苦痛で、目が覚めてからずっと横になったまま。


『体だけの関係だったのかって? 市之瀬に面と向かって? 冗談じゃなくて?』


 頭が痛くて最悪の気分だった。完全なる二日酔い。


「……言った」


 電話の向こうで亜衣が呆れているのがわかる。


『よくまあ……そんなこと聞けたねえ。市之瀬じゃなくても引くよ。素面じゃなかったってことだけが唯一の救いだよね。それにしてもさ、もうちょっとこう、オブラートに包むとかできなかったの?』

「……それ以上言わないで、亜衣。ほんっとに、死ぬほど後悔してるんだから」


 思い出すと恥ずかしさでどうにかなりそうで、私はベッドの中で膝を抱えこんで頭まですっぽり布団を被った。

 しかも、言ったのはそれだけじゃないし。

 あーもう、記憶消したい。

 電話の向こうから、亜衣の押し殺したような忍び笑いが聞こえてきた。


『意外。紗月は言いたいことがあっても、とことん我慢するタイプかと思った』

「笑いごとじゃないんですけど」

『ごめん。でも、そんなに気になってたの? この前は、もう終わったことだって言ってたのに』

「本当にそう思ってたんだよ、あのときは。でも、市之瀬くんが住友さんを追いかけていくのを見たとき、すごくショックで、どうしても黙っていられなくなって」

『確かめて、どうするつもりだったの?』

「どうって……」


 ギザギザした感情が、昨日から渦を巻いて胸に留まっている。お酒のせいかと思ったけれど、どうやら違うみたいだ。泥のように重い言葉が後を絶たない。

 だって住友さんが。なのに市之瀬くんが。だから私は。

 頭の中からつぎつぎと生み出されるぬかるんだ言葉は、疲れるほどにきりがない。言い訳探しはどこまでいっても終わりがなくて、堂々巡りを繰り返す。


 だけど本当に言いたいことは、そのどれでもなくて。

 どれでもない、ということは、違うってことだ。

 言葉にするのをやめた。

 残ったのは、とてもシンプルな気持ちだった。


「ただ嫉妬しただけ……だったのかも」


 そのことに気づいたら、渦を巻いていた胸の中が晴れた。

 そうか。あれは嫉妬だったのか。


「でも、何があったのかは知りたい」


 結局、市之瀬くんは答えてくれなかった。高校時代と同じ。住友さんのことを聞くと、いつも私から目をそらす。


『健吾もそのへんの事情は知らないみたいだしなあ。なんか訳ありなのかもよ』

「有村くん、教えてくれたの?」

『ううん、ダメだった。無理やり吐かせようとしたんだけどね。歯切れ悪いし、知らない聞いていないの一点張り。たぶん本当に知らないんじゃないかな』

「……」

『紗月、それどうしても知りたいの?』


 亜衣が遠慮がちに聞く。


『市之瀬が誰にも話さなかったことだよ。そんな秘密、本当に知りたいの?』

「……知らないままのほうがいいってこと?」

『私はそう思うけど。今さら知ったって、どうしようもないじゃん。自分が望んでない答えだったら、辛くなるだけだよ』


 高校時代の三年間。

 私にとって住友さんは、市之瀬くんの隣にいる“特別な女の子”だった。

 卒業してからも、記憶の中の市之瀬くんにはいつも影のように住友さんがつきまとっていた。今まで、住友さんの影に縛られてこだわっているのは、私だけだと思っていた。

 でも、たぶんもう、私だけの問題じゃない。


 あのとき、市之瀬くんは住友さんを追いかけて、どうしたかったんだろう。

 住友さんに会って、何を言いたかったんだろう。

 私が住友さんの影を消せなかったように、市之瀬くんも、この七年間、住友さんのことを消すことができなかったのだろうか。


「話してくれたら……どうすればいいのか、わかるかもしれない」


 今まで、そんなふうに思ったことはなかったけれど。


「私にできることがあるなら、探したい」


 ただ見ているだけだった、あの頃とは違う。

 市之瀬くんが目をそらしても、私はここにいる。

 亜衣はしょうがないなあとでも言うように、電話口で軽く溜息をつく。


『紗月の気持ちはわかったけど、市之瀬は言わないかもよ? 紗月はさ、この前、住友さんに直接会って話したでしょ。いわばそれがきっかけで行動に出たわけだよね? でも市之瀬は、まだ止まったままなのかもしれないよ』


 そうかもしれないと思う。

 過去の記憶の中だけの存在だった住友さんが、現実に私の目の前に現れたから、時間がつながった。卒業式の日から止まっていた時間が。


「私、どうすればいいのかな」

『しばらくほっとけば? 話す気になったら話すんじゃない?』


 亜衣はあっさりと薄情なことを言う。


「それじゃ、今までと同じ……」

『同じじゃないよ、紗月が待ってるんだから』


 堂々と言い放った亜衣の自信に満ちた言葉が、私の心を打った。

 そうかな、と言いかけたとき、電話口でガサガサと何かが擦れるような音がした。


『あっ、ちょっと、何すんのよ!』


 亜衣の抗議の声が急に遠ざかり、別人に入れ替わる。


『加島さん?』


 有村くんの大きな声が耳もとで響き、私は思わずベッドから起き上がった。


『あのさ、いろいろ思うところはあるだろうけど』


 横から亜衣の『返してよっ』と叫ぶ声が入ってきて、有村くんは早口になった。


『あいつが好きなのは加島さんだけだから』


 電話を握りしめる手に、思わず力が入る。

 それが有村くんの思いこみだとしても、うれしかった。


「心配しなくても、大丈夫だよ」


 急に涙がこみ上げてきて困った。気づかれないように、私はできるだけ明るい声を出した。

 思えば有村くんは、最初から私を応援してくれていた。あの頃、市之瀬くんにいちばん近いところにいて、いちばん理解していたのは住友さんだったのに、どうして住友さんではなく私を応援してくれたんだろう。


 思いきって聞いてみると、有村くんはさも当然のごとく、『郁を変えられるのは加島さんだけだから』と言った。

 そんなことはないと思う。

 反論しようとしたら、電話の向こうの人はすでに入れ替わっていた。


『紗月、ゴールデンウィークどうするの?』


 気を遣ってくれたのか、亜衣がさりげなく話題を変える。


「決まってない」


 本当は、金曜の夜に市之瀬くんと会ったときに相談しようと思っていたのだけれど、それどころではなくなってしまった。

 しばらく顔を合わせるのは気まずい。昨夜あんな別れ方をして、今さら「連休の予定はありますか」なんて、そんな脳天気なことを聞く根性もない。

 それに、市之瀬くんは今、私に会いたくないと思っているかもしれない……。


「ひとりでのんびりしようかな」

『決まってないなら、帰ってくれば?』


 亜衣が弾んだ口調で言った。

 そういえば、当初は雛条に帰るつもりだったのだ。

 汐崎くんが企画した親子写生会を手伝う話、市之瀬くんに言われて断ってしまったけれど、もしまだ間に合うなら参加したい。絵を描きたい。


「帰ろうかな……」

『帰っておいで』


 亜衣がやさしい声で誘った。


「うん、そうする」




 西森さんが連れていってくれたのは、裏通りにあるかわいらしい洋風レストランだった。

 気取らない雰囲気の店内は女性客ばかりで、彩りを意識した豊富なメニューの数々も、手頃な直段だった。

 ここに来るまで少し緊張していたので、気を遣わない店だとわかり、ほっとして席に着く。


「お酒、あんまり強くないって聞いたから。それとも飲み屋のほうがよかった?」


 乾杯の後、冗談交じりに言われて私は首を振った。


「西森さんが飲めないなんて、意外です」


 彼女が手にしているグラスの中身は、ウーロン茶だ。西森さんは照れ笑いを浮かべて「それより」と言った。


「ほんとに今日でよかったの? 別の日でも構わなかったのに。明日、朝早いんでしょ?」

「そうでもないです。それに、決まった予定はないんです。ただ東京を離れたかっただけなので……」

「そう。だけど、よかったね。休みが取れて」


 明日から、四連休だった。

 この一週間、毎日遅くまで残業をして急ぎの仕事を片付けた。市之瀬くんからはあれから電話もメールもない。仕事でも会っていない。私も連絡しなかった。

 ひたすら仕事に集中したおかげで、連休中に出勤することは免れた。明日の朝、私が東京を離れることになっていることは、今夜の誘いを受けたときに西森さんに話してある。


「ごめんね、加島さんが忙しいのは私のせいだよね」

「いえ、そんな。仕事をもらえるのはありがたいです。ただ」

「ただ?」

「その……前から一度、お伺いしたかったんですけど、どうして私に声をかけてくださるんですか。私、まだ経験も浅いし、仕事も早いほうじゃないのに」

「そんなの、決まってるじゃない」


 西森さんはきょとんとした目で私を見た。


「私が加島さんと仕事がしたいからよ。それ以外にある?」


 直球すぎて、照れる。

 お酒も飲んでいないのに、こんなことを真顔で言ってのける西森さんは、やっぱり熱い人なんだなあと思う。市之瀬くんはいつも少し迷惑気味に話しているけれど、私は西森さんのこういうところは嫌いじゃない。

 できたての料理が運ばれてきた。ふたりで分けて食べる。

 お腹が空いていたから、あっという間に食べてしまう。西森さんも遠慮がない。飲めない分、食べまくる。ふたりでどんどん料理を追加注文する。


「加島さんは、昔から絵を描くのが好きだったの?」


 食べながら、西森さんが聞く。


「はい。子供の頃から絵ばっかり描いてました」

「どんな絵を描いていたの?」

「花とか、動物とか、人とか……あと想像の世界とか。いろいろです。描いているときがいちばん楽しくて、うまく描けたらうれしくて。なんでもかんでも絵に描いてました」

「今でも描いてる?」


 一瞬、言葉に詰まった。


「今は……時間がなくて」

「そうだよね。仕事で描くだけでも忙しいのに、家でもなんて」

「でも、描きたいんです」


 心の叫びが溢れるように、言葉になった。


「ずっと絵を描いていたいから、この仕事を選んだんです。そのことは後悔していません。でも、やっぱり私、甘かったのかな。好きなことを仕事にするってどういうことなのか、ちゃんとわかっていなかったのかもしれない」


 西森さんの表情が、ふっとやわらかくなった。

 一瞬、笑われたのかと思ったけれど、違った。


「私もあるよ。加島さんと同じこと、前に思ったことがある」


 そう言って、西森さんは懐かしそうな顔をする。


「私は企画がやりたくてこの会社に入ったの。だけどなんの経験もなかったから、最初は何もできなかったし、まわりの人たちともうまくいかなくてね。矢神課長とも、毎日ケンカばかりしていたな」

「ケンカ……ですか?」


 企画部の矢神課長の顔を思い浮かべて、あの優しくて穏やかな人とどうやったらケンカなんてできるんだろう、と私は思った。

 西森さんが私の疑問を見抜いたように笑い、「人にはいろんな顔があるからねえ」と意味深なことを言う。


「加島さんは、好きなことを仕事にしたから、自由に絵が描けなくなったと思ってるの?」


 私は「わかりません」と素直に答えた。


「この前、オケのコンサートに行ったんです。すごく触発されて、久しぶりに絵を描きたいって思ったんですけど、描こうとしたらやっぱり描けなくて。どうして描きたいのに描けないのか、自分でもわからないんです」

「オケのコンサート……」


 西森さんの顔から、ふと笑みが消えた。


「クラシックのコンサートです。おかしいかもしれないんですけど、演奏を聴いていたら、無性に絵が描きたくなったんです。それで、今度こそ描こうって思ったんですけど」


 西森さんは聞いているのかいないのか、どこか上の空だ。


「描こうとすると、どうしてか、だめだっていう気持ちが強くなるんです。ブレーキがかかるみたいに。そんなこと、昔はなかったのに。描いても描いても描き足らないくらい、描きたい気持ちがあふれていたのに」


 思わず独り言めいた愚痴になってしまった。

 西森さんはしばらく考えこんだ後、「昔みたいに描こうとしてない?」と言った。


「私には絵のことはよくわからないけど、もしかして、前と同じように描こうとしてるんじゃない?」


 私は意味がわからず、首を傾げた。


「えーと、つまりね。それは、もう加島さんに合ったやり方じゃないんじゃないかってこと」


 まだ理解できずにいる私を見て、西森さんは話の方向を変えた。


「子供の頃にね、去年まで着ていた服が合わなくなったことって、なかった? 私、お気に入りの服が小さくて着られなくなっていたとき、すごく悲しかった」

「あ、はい。私もあります。懐かしい」


 西森さんがほほえむ。


「あの頃は成長するのが当たり前だった。でも、大人になった今だって、止まっているわけじゃないんだよね。自分が一年前に比べてどう変わったかなんてはっきりとはわからないし、ずっと同じ悩みを抱えて変われない自分に苛立つこともあるかもしれないけど、でも、生きていて何ひとつ変わらない人なんて、いないから」

「……」

「加島さん、もしかしたら気づいてないんじゃない? 小さくなった服を、無理やり着続けようとしてるんじゃない?」


 そのとき、何か懐かしい場面を思い出しかけた。

 懐かしいけれど、悲しいような、うれしいような、よくわからない複雑な感情が無意識の底から意識の隙間に流れこんでこようとする。

 それは、ふれるかふれないかという微妙なラインまで浮上して、急に沈んだ。思い出の場面はよみがえることなく消えた。


「加島さんが変わったら、加島さんと関わってる私も、たぶん少しだけ変わると思う」


 私が思い出に気をとられていると、西森さんが話を続けた。


「私だけじゃなくて、加島さんと関わってる人みんな。それで、私が変わったら、今度は私と関わってる人たちが、少しだけ変わるの。そうやって少しずつ、少しずつ、私たちって動いているんだと思う」


 止まっているように見えても、動いている。

 みんな、少しずつ。

 何かに動かされて、自分が動くのと同時に、誰かを動かしてもいる。不思議だ。

 有村くんは、市之瀬くんを変えられるのは私だけだと言ったけれど、きっと違う。私だけじゃなくて、市之瀬くんのまわりにいる人みんなだ。

 有村くんも、富坂くんも、西森さんも、私の知らない人たちも。

 そして、住友さんも。

 それでも、やっぱり私がいちばんだったらうれしい。


「ところで、うちの市之瀬とはどういう関係?」


 いきなり聞かれ、心臓が止まりそうになった。思いもよらない質問だったので、とっさの作り笑いすらできなかった。

 西森さんは私の動揺に気づかず、平然と続ける。


「古い知り合いだっていうことくらいしか聞いてないんだけど、同郷だったよね。同級生か何か?」


 とたんにほっとする。なんだ。そういう意味か。


「そうです。小学校と、高校が一緒でした」

「へー、そうなんだ。あの人、私にはなんにも話してくれなくてさあ」


 淋しそうに言うので、私は急いで否定した。


「それは昔からで、西森さんだからっていうわけじゃないんです。私だって、知らないことばかりで……」


 ふとわれに返った。

 何を言っているんだろう、私。

 見ると、西森さんが不思議そうな顔をしている。


「その、誰にでも素っ気ないっていうか。でもやさしいんです、ほんとは。だから、わざと深く関わらないようにしているみたいなところがあって。でも、あの、最近はそうでもなくて。それで私、うろたえてしまって……」


 ますます何を言っているんだろう、私。

 幸い、西森さんは深くは追求してこなかった。子供のように無邪気に笑って、「そっか、わかった」と言っただけだった。



 * * *



 どうして素直に描かなかったの、と先生は言った。

 雛条西小学校では、高学年になると、一学期の授業で取り組んだ作品を夏休みの絵画コンクールに出品することになっていた。

 昨年、四年生だった私は初めてコンクールに出品して、銅賞をもらった。

 授業でいつものように描いた絵が、いきなりそんな大きな賞を取って、私は少し戸惑った。先生にも、両親にも、友達にも、ふだん話したことのない人からも、たくさん褒められた。

 だから今年も期待されていることは、わかっていた。でも。


「大人の真似をして描こうとしても、いいことなんてひとつもないのよ。今は、加島さんが思ったとおりに、素直に描けばいいの」


 私が描いた絵を前にして、先生はがっかりしていた。

 夏休みにコンクールに出品して、なんの賞も取らずに、秋になって私のもとにもどってきた絵だ。

 絵を描いたのは六月だった。校庭の紫陽花が色とりどりに咲き乱れていて、ほとんどのクラスメイトが紫陽花を題材に選んだ。私はみんなから離れて、裏庭で絵を描いていた。


 裏庭の隅の、日の差さない暗がりで、山梔子くちなしが白い花をつけていた。

 何日か前から、裏庭を通るとすーっといい匂いがして、なんの匂いなのか気になっていたのだけれど、それは山梔子の花の匂いだった。

 濃い緑色の葉の中に埋もれるようにして咲いている白い花は、特に形がきれいというわけでもなく、どちらかというと不格好に見えた。真っ白な花片はすぐに汚い茶色に変色してしまう。

 暗い花、という感じがした。

 だから、こんなにいい匂いがするのかな。


 私は山梔子を描いた。

 パレットに黒の絵の具と少しの青を混ぜて深い暗闇の色を作り、画用紙一面に塗った。その上から、白の絵の具で花を描いていった。全部で四つの花を描いた。

 先生がもう一度絵を見て、溜息をつく。

 私は恥ずかしくて消え入りたい気持ちだった。

 この絵がそんなに悪い絵だったなんて知らなかった。

 思ったとおり、素直に描いたつもりだった。


 最初は見たままの裏庭の山梔子を描こうとしたけれど、うまく描けなくて、何かが違う気がして、その代わりに心に浮かんだ別のイメージが、焼きついて消えなくなった。そのイメージに、どうしても逆らえなかった。

 だから、自分の心が望むままに、描きたいと思ったとおりに描いたのだ。

 この絵が悪い絵だと言うのなら、私が悪い心を持っているということかもしれない。


 コンクールからもどってきた絵は、その後、教室の後ろの壁に貼り出された。

 ほかのクラスメイトたちの絵と並んで貼られた私の山梔子の絵は、上下が逆さまだった。だけど、誰も逆さまだということに気づかなかった。

 毎日、教室の後ろにある逆さまの自分の絵が、気になってしかたなかった。

 授業中も、あの絵が後ろにあると思うと落ち着かなかった。自分の悪い心がさらされているようで、逆さまにして笑われているようで、恥ずかしくてたまらなかった。


 ある日、私はとうとう耐えきれなくなって、あの絵を剥がすことに決めた。

 私の絵は、幸運なことに下の方に貼ってあったので、教室の後ろに備え付けてあるロッカーにのぼれば私でも手が届く。あれがもし天井近くに貼ってあったら、どうやっても手が届かないところだった。


 放課後、みんなが教室からいなくなるまで待って、私はロッカーによじのぼり、絵を剥がした。

 一枚くらいなくなっても誰も気づかないかもしれないし、気づいたとしても知らん顔をしていれば、風に飛ばされてなくなったのだと思うに違いない。私はそんな暢気なことを考えていた。

 ロッカーから降りようとしたとき、廊下を走ってくる足音が聞こえた。だんだん教室に近づいてくる。先生かもしれないと思うと心臓が縮み上がった。

 私は急いでロッカーから降り、絵を近くの机の上に置いたまま教卓の中に隠れた。


 ガラッと音がして教室の後ろの扉が開き、入ってきたのは市之瀬くんだった。

 市之瀬くんは、まっすぐに自分の席に向かい、机の横にかけてある体操着袋を取ると、すぐに教室を出ていこうとした。だけど、机の上に置いてある絵に気づき、足を止めた。

 しばらく、市之瀬くんはその絵をじっと眺めていた。

 それから画用紙を手に取って、水平に両手を伸ばし、首を右に傾げたり左に傾げたりして、しげしげと絵を見つめる。


 長い間、怖い顔をして絵を見ていた市之瀬くんは、ふと何かに気づいたように目を開いて、持っていた絵を逆さまにした。絵を見ていた市之瀬くんの表情が、ゆるやかにほころぶ。

 市之瀬くんは絵を持ってロッカーの上にのぼり、もとの場所に貼り直すと、何もなかったようにすたすたと教室を出ていった。

 私は音をたてないように教卓の中から這い出して、後ろの壁を見た。さっきとは違う私の絵が、そこにあった。


 私は教室の前の扉を静かに開け、頭だけ出して廊下を見た。

 どうでもいいや、と思った。

 先生ががっかりしようと、私の悪い心がさらされようと、誰がどう思おうと、もうどうでもいい。

 茶色い髪の小さな後ろ姿が、廊下の角を曲がって見えなくなるまで見送って、私も教室を後にした。



 * * *



 空を覆うクスノキの枝を見上げているうちに、長い間記憶の底に埋もれていた思い出がよみがえった。

 そんなことがあったことさえ、忘れていた。

 今日は穏やかな天気でほとんど風も吹かないけれど、ときどき一筋の風が上空を通って、そのたびに梢がかすかな音をたててささやく。

 思えば市之瀬くんは、昔から、いつも私の絵をちゃんと見てくれていた。自分はあんなに、絵を描くのを嫌がるのに。


 どっしりと根を張った太くたくましい幹は、どんなに強い風が吹いても動きそうにないけれど、止まっているように見えるこの大きな木も、生きて動いているのだ。今も。

 私も動かされる。

 今、私が描きたいと思う絵を描きたい。

 もう一度、この木の絵を描きたい。

 そして、私の絵を見た市之瀬くんが、またあんなふうに笑ってくれたらいいなと思う。


 昨日の夜、西森さんの話を聞いていたときはなんとなく半信半疑だったけれど、今は不思議と信じる気持ちになれる。

 今日、私がこの木と出会って、私の中の何かが変わるのなら、この木もまた、変わることになるのかもしれないと。

 明日、この木と出会う誰かを、変えるのかもしれないと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ