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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
続編
84/88

4 同じものがほしい

 連休を一週間後に控えた金曜の夜、俺は仕事を早めに切り上げてフロアを出た。


「あれ。もう帰るの?」


 廊下で、企画部との打ち合わせからもどってきた西森さんと鉢合わせた。


「すみません。今日はお先に失礼します」

「もしかしてデート?」


 いきなりか。

 答えに窮していると、西森さんは小さく笑って「ところでさ」と話題を変えた。


「加島さん、最近忙しいかなあ」

「そりゃあ忙しいですよ」


 あなたが次から次へと仕事を依頼するから。

 西森さんは「そうだよねえ」と悪びれるようすもなく、上の空で答えた。


「近いうちに、彼女を飲みに誘おうかなあと思ってたんだけど。迷惑かな」

「誘うのはいいんじゃないですか」

「そう? じゃあ市之瀬くんも一緒に行く?」

「僕はいいです。遠慮しときます」


 これ以上、加島と仕事で一緒になる時間を作りたくない。それに矢神課長を敵に回したくもない。


「なら、加島さんとふたりきりでとことん飲むか」


 冗談交じりに笑いながら言う。

 だけど、この前矢神課長は、西森さんのことを下戸だと言ってなかったっけ……?


「西森さん、お酒飲めるんですか」

「え、どうして?」

「あー、その、飲み会で、あんまり飲んでるイメージなかったから。それに、あいつもそんなに強いほうじゃないし」

「あいつ……」


 失言に気づいたときには、西森さんが何かを問うような目つきで俺を見上げていた。何か言いたそうだったが、西森さんは何も言わず、それ以上探ってはこなかった。


「ごめん、足止めしちゃったね。彼女さんによろしく」


 ひらひらと手を振って、西森さんは軽やかな足取りで開発部のフロアにもどっていく。

 それにしても西森さんは、仕事を離れた場所で加島とどんな話をするつもりなんだろう。想像がつかない。あのふたりに共通点なんてあるのだろうか。

 

 八時に、加島と待ち合わせをしている。

 行ってみたいお店があるからと、珍しく加島のほうから誘ってきた。この前のコンサートの後、連絡がなくて少し気がかりでもあったので、メールが届いたときは正直ほっとした。

 待ち合わせ場所に加島の姿はまだなく、週末の夜を楽しもうとする輩で駅の改札口は混雑していた。新入社員と思しき黒いスーツを来た若い男女の一団が、すぐそばで大声を出して騒いでいる。騒ぎ方がいかにも新人らしく、遠慮がない。


 少し離れようとしたとき、その団体の向こうを横切るショートカットの女性の横顔が目に映った。

 一瞬目を疑い、雑踏に紛れそうになる彼女の姿を追うように、移動する。

 彼女の顔に、目が釘付けになったまま、離れない。

 視線に気づいたかのように、彼女がこちらを向いた。

 目が合った瞬間、誰なのか確信した。

 ふいに、彼女の顔が歪んだ。

 瞳の色が恐れに翳り、怯えた表情で俺を見る。苦痛を耐えるように唇を噛みしめて。


「──住友」


 俺が名前を呼ぶのと、彼女が顔を背けて走り去るのが同時だった。


「住友!」


 雑踏の隙間を縫って、彼女の後ろ姿を追いかけた。住友は足を止めることもふり返ることもせず、逃げるように俺から離れようとする。混み合う駅の構内で思うように動けない。

 すぐに見失ってしまい、人混みの中で立ちつくす。

 住友の怯えた顔が焼きついて離れない。

 見間違いじゃなかったと思う。以前とは少し印象が変わってはいたが、間違いなく住友だった。向こうも俺だと気づいたはずだ。気づいたから──。

 あんな顔、今まで一度も、俺に向けたことなどなかったのに。

 納得がいかないまま待ち合わせ場所の改札口にもどると、加島が待っていた。


「ごめん」

「ううん。今来たから」


 加島のやわらかな笑顔を見ると、心が解けた。




「西森さんて、本当にきれいだよね」


 今までにないペースで四杯目のカクテルを飲み干した後、加島はぼんやりとした目つきでつぶやいた。


「全然三十代に見えないし。でも大人で優しくて、仕事もできて。憧れるなあ」


 通りすがりの店員を呼び止めて、五杯目を頼む。大丈夫か。


「あの人は純粋に仕事が好きなだけだと思うけど。加島が思ってるほど完璧じゃないし」

「そうかなあ。私には何もかも完璧に見える」

「俺も最初はそう思ったけど、違った。意外と普通の人だよ」


 西森さんが社内で見せる女神のような笑顔は、たしかに目を奪われるほどきれいだが、彼女が時たま見せる顔──矢神課長や、本間課長、関西支社の安田さんといったごく一部の人間にしか見せない屈託のない表情は、どちらかというときれいというより幼くてかわいい。

 たぶん、あっちが素顔なんだろうと最近思い始めている。


「完璧な人間なんていないって」


 雲の上の存在のようなあの矢神課長でさえ“見かけ倒し”だと言うくらいなのだ。多少、本間課長の個人的感情が混じっているとしても。

 加島は遠くを見るような焦点の合わない目で、「そうかなあ」と繰り返す。店員が運んできた五杯目のカクテルをすぐさま手に取り、勢いよく飲む。

 何か、おかしい。

 やたらしゃべるし、やたら食うし、やたら飲む。

 そして俺の顔を見ない。


「加島」


 どうかしたのか、と聞こうとした俺の台詞に被せるように、加島が強い口調で「市之瀬くんも」と言った。


「私にとっては、ずっと完璧だった。でも」

「普通だった?」

「うん」


 ぎこちなく笑ったかと思うと、そのまま顔を伏せてつぶやく。


「昔から知ってるつもりだったけど、本当は、何も知らなかったのかも」


 店を出る頃には、加島はすっかり無口になっていた。駅に向かって歩いている途中で足を止め、少しだけ休みたいと言うので、近くにあった公園のベンチにふたりで腰を下ろした。


「飲み過ぎだろ。どうしたんだよ」

「ごめん。少し休んだらましになった。もう平気だから」


 加島はうつむき加減に視線をそらして、やはり俺を見ない。

 会話が途切れる。

 春の夜風が通り過ぎるたびに、公園の木々がかすかにざわめく。

 時計を見ると、終電の時間が迫っていた。


「あの」


 俺が立ち上がりかけたとき、加島がうつむいたまま言った。


「……部屋に、行ってもいいですか」


 思わず加島の顔を見たが、頬にかかる髪のせいで確かめることができない。

 今日の加島の言動は彼女らしくないことばかりで、違和感だけが残っていた。だから“いつもと違う”彼女の言葉をどう受け止めればいいのかわからず、判断に迷った。


「酔ってる?」


 加島がゆっくりと顔を上げ、俺を見た。

 確かめたかったのは俺のほうなのに、加島の目が、俺の心の奥を確かめようとしてもがいているみたいに見えた。なぜか焦って、戸惑うあまり目をそらした。


「家まで送る」


 ベンチから立ち上がり、歩き出したとき、背後から加島の小さな声が聞こえた。


「住友さんに会いたかった……?」


 加島はベンチに座ったまま、静かな表情で俺を見ていた。


「駅で、住友さんのこと追いかけていったよね。彼女を探して、会いたかった?」


 外灯のざらついた明かりが、俺と加島の間の距離を空虚に浮かび上がらせる。加島はベンチから立ち上がって、俺と向き合った。


「住友さんのこと、私、ずっと忘れようとしてた。昔のことだから、もう関係ないと思ってた。だけど本当はずっと消えなくて、いつも心のどこかで気にしてたんだと思う。それ、私だけだと思ってたんだけど……市之瀬くんもだったんだね」


 かすかに笑う。


「この前ね、コンサートの会場で、住友さんに会ったの。市之瀬くんのことは、嫌いでも好きでもなかったって言ってたけど、本当にそうなの?」


 続きを言いかけて、一瞬ためらった後、加島は堪えるような表情でまっすぐ俺を見た。


「彼女とは、体だけの関係だったの……?」


 加島の瞳が夜の闇を映して揺れながら、俺の答えを待っている。

 思い出したくない苦い記憶が、闇の中から浮かび上がってくる。俺の腕の中で泣いている住友の顔が、ふいに、さっき見た住友の怯えた表情にすり替わる。

 記憶は再び深い闇の底に沈んでいったが、胸を裂くような痛みと、耳を覆いたくなる心の軋みは、いつまでも消えない。

 加島はずいぶん長い時間、何も言わずに待ってくれていたが、大きく揺れる瞳を隠すように顔を伏せた。


「も、いい。ごめん。今の、聞かなかったことにして。なんで聞いちゃったんだろ。市之瀬くんが、住友さんとのことは話したくないって思ってること、前から知ってたのに。ほんとにごめん」


 加島の声は大きく震えて波打ち、途切れた。顔を伏せたまま、俺から離れようとする。


「加島」

「大丈夫。タクシーで帰るから。心配しないで」

「そうじゃなくて。俺は……」

「もういいから!」


 大きな声で叫んだ。加島は自分の声に驚いたように、全身を硬直させた。


「わかってるから。七年も前のことだし、私には関係ないことだって、ちゃんとわかってる。でも……市之瀬くんが住友さんにあげたものが、ほしくてたまらなかったの。がまんできないくらい、同じものがほしかったの」


 聞き取れないほどかすれた声でそう告げて、加島は俺の視線から逃れるように背を向けて走り去った。



 * * *



 修学旅行から帰ってくると、あれほど青かった空は透き通るような秋の色に変わっていた。風は枯れ葉の匂いを含み、どこにも夏の気配は見当たらない。

 学校では代わり映えのしない日常が待っていた。

 退屈な授業と、面倒な行事と、嫌気の差すテスト。

 健吾と富坂は、相変わらず毎日熱心に野球の練習を続けている。

 俺もまた、今までと同じ。


 廊下の窓から中庭を見下ろすと、加島が中庭を通って昇降口へ向かうのが見えた。彼女は頻繁に中庭を通る。たぶん、緑の多いこの場所を通るのが好きなのだ。

 もどってきたのは、こんなふうに、遠くから加島を見ているだけの日々。

 修学旅行で、加島とふたりだけで過ごした数時間が、もう現実の色を失い始めていた。

 あのときは、あの時間を一緒に過ごせるだけで充分だった。しばらく加島の顔を見なくても平気だとさえ思った。なのに、今はそれ以上を求める気持ちが強くなっていて、むしろ前よりもいっそう苦しくなった。

 こんなことなら、あの時間を作らないほうがよかったのかもしれない。

 何も変わらないまま、苦しさが増しただけだ。


「何を見てるの?」


 はっとしてふり返ると、すぐそばに住友が立っていた。

 住友が窓の下を見下ろしたとき、加島が昇降口に入っていくのが見えた。住友は何も言わずに窓のそばから離れ、「帰ろ」と言って先に歩き出した。

 住友の後ろ姿を眺めながら、彼女がもう気づいていることを確信した。

 住友は、俺の気持ちに気づいている。

 あるいは最初から、彼女は気づいていたのかもしれない。

 胸の奥が軋んで、耳を塞ぎたくなるような嫌な音を響かせる。


 隠し通せるはずがない。

 加島と再会してからもうすぐ二年が経とうとしているのに、忘れるどころか日を追うごとに重なって、深くなっていく。

 彼女には、本当のことを話さなければいけない。

 加島のことが好きだと、告げなくてはいけない。

 そう思うのに、そのたびに、あの音が邪魔をする──。



 * * *



「何かあったのか?」


 土曜の夜、富坂と会った。

 客は男ばかりという狭くて汚い居酒屋で、近況を報告したり、仕事の話をしたり、いつものように酒を飲みながら他愛ない会話を続けていたのだが、ふと会話が途切れたはずみに、富坂が聞いてきた。

 何故と問う代わりに視線を送る。


「いや、なんとなく。いつになくピッチが速いし」


 俺の手もとのグラスに目をやってから、富坂は言った。

 俺も富坂も酒に強いほうで、飲んでも見た目や態度は変わらない。俺は富坂が酔っ払ったところを見たことがないし、俺も富坂に酔ったところを見せたことがない。そこまで飲むこともなかったし。

 だが、今日は酔いたい気分だった。


「自分が最低すぎて、死にたくなった」


 唐揚げをつまんだ手を一瞬止めて、富坂はまじまじと俺を見た。


「……え?」

「昨日、住友に会った」


 富坂の太い眉の間に、ぎゅっと皺が寄る。


「住友って……住友窓花すみともまどか? おまえが昔付き合ってた?」


 俺は頷く。


「会ったっていうか、駅で見かけただけだけど」


 富坂は信じられないという顔をする。


「それで?」

「呼び止めたら、向こうも気づいて。なのに無視されて、追いかけたけど、見失って」

「うん」

「その一部始終を加島に見られた」


 口を開けたまま、富坂はしばらく何も言わなかったが、溜息とともに同情めいた視線をよこした。


「どうやったら、そんな最悪な状況を引き起こせるのか不思議だ」


 隣の席のサラリーマンが、真っ赤な顔をして会社の愚痴をがなりたてている。店内が狭いのでテーブル間の距離がなく、互いの話し声もまる聞こえだった。

 富坂が心なし声を低くした。


「なんで追いかけたりしたんだよ。向こうは無視したんだろ」

「俺の顔を見るなり逃げ出したんだよ。追いかけたくなるだろ、つい」

「それで? 加島さんはなんて?」

「いろいろ聞かれた。昔のこと」

「あー……」


 公園の暗がりに立ちつくす加島の姿を思い出して、俺は記憶を振り払うようにグラスに手を伸ばした。


「何も答えられなかった」


 酔っ払ったサラリーマンは、今度は家族の愚痴をこぼし始めた。興奮して声が大きくなるのを、同席の男がなだめている。


「事情があるのはわかるけど……加島さんは、おまえに話してほしかったんじゃないのか?」

「でも、言えない」


 最初は、住友を守るためだった。

 本当は付き合ってなどいないことを知られたら、そのことが校内に広まったら、また住友が傷つく。だから誰にも本当のことは打ち明けなかった。俺が隠し通せば、住友を守れると思った。

 でも、今は違う。

 そんなかっこいい理由なんかじゃない。


「加島にだけは、嫌われたくない」


 急に店内が静かになり、それからまたざわめきがもどってきた。そのざわめきと同時に、富坂が身を乗り出して上ずった声を出した。


「おまえ、今の本気で言った!?」

「……悪いか」


 富坂は驚いたようすで、「さすがだな、加島さん。恐れ入った」と放心した声でつぶやいた。


「なんの話だよ」

「深海魚の話に決まってんだろ。あー、録音しとくんだった」

「は?」

「あのな、住友と昔何があったのか知らねえけど、もういいだろ。加島さんに話せ、全部。そのほうがスッキリする」

「俺はそれでよくても、あいつが……きっと、悩む」

「おまえは彼女のこと見くびりすぎだ。あの子はたぶん、見た目ほど弱くない」


 言葉に詰まる俺を見て、富坂はふいに表情をやわらげた。


「ま、そんなの、おまえがいちばんよくわかってるだろうけど」


 勘定を済ませて店を出ると、富坂は軽い足取りで先に歩き出した。酔っているようにはまったく見えないが、なぜか上機嫌だ。


「なあ。おまえも健吾も、なんでそんなに加島に肩入れするんだ?」

「おまえはわかってない」


 振り向きざま、ぴしゃりと一刀両断される。


「何を」

「おまえ、変わったよ」


 突然、富坂は真剣な口調で言った。


「昔はこんなこと話さなかった。住友のことなんて特に。聞くな! って冷たいオーラが全身から出てて、すげー怖かった」


 たしかに、あの頃はそうだったかもしれない。

 他人に理解してもらう言葉が見つからず、探すことに疲れて諦めていた。

 今思えば、住友とは、そういう点で同じだったのかもしれない。

 自分から閉ざした狭い世界に留まって、そこにいるだけで、何もしようとしなかった。


「俺も健吾も、おまえが変わったのは加島さんのおかげだと思ってるから。だから、彼女を手放すな。別れるなんて論外だ。いいなっ」


 言われなくても。


「別れるつもりはない」


 その言葉を聞いて安心したように、駅に向かって再び歩き出した富坂を、俺は慌てて呼び止める。


「今日の話、健吾に言うなよ」

「あー、はいはい。でもあいつ、今それどころじゃないだろ」

「結婚式の準備か」

「もうすぐだもんな」


 富坂は歩きながら夜空を仰いで、結婚かあ、とつぶやいた。


「考えなくもないけど、まだ、もうちょい先かなあ」


 地元に残してきた彼女のことを思い出しているらしい。ふとこっちを見て「市之瀬は?」と聞くので、俺も今はまだ考えられない、と答えた。

 考えられないが、それでも。


「ほかの誰かとっていうのも、想像できないけど」


 俺の隣で富坂が静かに笑って、「俺も」と言った。


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