3 ごめんね
開演の時間が近づくと、大きなホールが徐々に人で埋まっていった。音を待ちわびて緊張を帯びた空間が、さわさわと静かなざわめきで包まれる。
不思議な心地よさを感じる。
生でクラシックを聴くのは、美大時代に友人に誘われて出かけたピアノリサイタル以来だった。こんなに立派なホールで、しかも海外のオーケストラの演奏を聴くのは、今回が初めてだ。
曲が始まると、さまざまな形と色をもった音がホールを満たした。
現れては消え、消えては現れる。高く飛んだり、大きく跳ねたり、深く潜ったり、遠くへ広がったり。たくさんの手が奏でる、ちがう音、ちがう色。
バラバラに思えてそうではなく、離れたり寄り添ったりしながら、それぞれの音が目指す果てしない高み。まるで大きな円を描くように、のぼりつめていく。
「あんなに豊かな色が音で表現できるなんて! すごかった! 氾濫してた!」
一曲目が終わって休憩に入ったとき、私はすっかり興奮してしまっていた。口走った後で、すぐにしまったと思った。
また失敗した。夢中になると、言葉が止まらなくなってしまう。今のは絶対、市之瀬くんに引かれた。
「へえー。加島には、色に感じるのか」
でも、市之瀬くんは何かを考えこむようにそう言っただけで、呆れているようすではなかったから、とりあえずほっとする。
もう、よけいなことは言わないようにしよう。
堅くそう誓って、化粧室に行くために席を立とうとした。そのとき、ふと客席の中に、誰か、私の知っている人に似た顔を見たような気がした。誰なのか思い出せない。それなのに、なぜか怖くて胸がドキドキしていた。
私は前方の客席に視線をもどして探してみたけれど、見つからない。気のせいだったのだろうか。
市之瀬くんが私の視線に気づいて、「何?」と聞いた。私は「ううん、なんでもない」と答えて席を離れた。
ロビーには人があふれていた。
どこを歩いても、音がまつわりついてくる。この空間のすべてが響き合い、共鳴しているようだった。さまざまな色をまとった音が、私のまわりを浮遊している。
絵が描きたい、と本気で思った。
創作に対する欲求をこんなにも強く感じるのは、本当に久しぶりだった。
仕事以外で絵を描くことは──キャンバスに向かって自分のためだけに絵を描くことは、もう何年もしていない。今の状態ではとてもそんな時間は作れないし、作ろうともしてこなかった。
休みの日に家にいても、絵筆をとる気になれなかった。神経が疲れ果てていた。描こうとしても、スケッチブックを開いたとたん心が支配される。
好きなものを描いてはいけない。
必要なのは、衝動を喚起するメッセージ。
わかりやすく、親しみやすく、すぐに届いて、すぐに動かせること。
早く!
もっと早く!
急がないと、先を越されてしまう!
スケッチブックはいつまでも白いままだった。
描きたいものが何も浮かばなくない。
いつのまにか、私は自分の絵が描けなくなっていた。
学生の頃は、毎日描きたくて描きたくてしかたがなかった。眠る時間さえ惜しくて、ベッドの中でもスケッチブックを広げていた。なにかに感動するたびにあふれだす色を、とまらない思いを、つなぎとめるように追いかけていた。必死だった。いつも絵を描くことばかり考えていた。
好きなことを仕事にすると決めたときに、何かを犠牲にすることにはなるだろうと、覚悟はしていた。だけど、本当の意味で私は、何もわかっていなかったのかもしれない。ただ好きだから、ずっと絵を描いていたいから、それだけの理由でこの仕事を選んだ。
また描きたい。
そう思えたことがうれしい。この気持ちを手放したくない。
浮かれた足取りで化粧室を出て、席にもどる前にいったん携帯の電源を入れた。亜衣からメールが届いている。メールの内容を読もうとした直後、誰かと肩がぶつかった。
「すみません」
肩越しに謝って、ぶつかった相手を見た。
時間が止まったと思った。
彼女はすぐに目をそらし、私に背を向けた。
黒いワンピースの後ろ姿が、離れていく。
「住友さん!」
なぜ呼び止めてしまったのか、自分でもわからない。まわりにいた人が何人かふり返って、最後に、彼女が足を止めてゆっくりとふり向いた。
呼び止めておきながら、私は歩みよることも、どうすることもできず、激しくなる自分の鼓動を聞いていた。
立ちつくしていると、住友さんのほうが、静かな足取りで私に歩みよってきた。
「……久しぶり」
穏やかな声が返ってきた。
髪を短くして、シンプルな黒のワンピースを着た彼女は、実際の年齢よりも大人びて見えた。高校時代に感じた色っぽいという意味の大人っぽさではなく、洗練された女性という意味の大人っぽさだった。
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。手が震えていることに気づいて、隠すようにぎゅっと両手を握りしめた。
「こんなところで会うなんてね。ほんと……嫌になる」
落ち着いた声でそう言って、住友さんはかすかに息を吐いた。私と目を合わせようとしない。動きのない表情からは、どういう感情も読み取れない。
「……ひとり?」
さまよっていた瞳が、私を捕らえる。
一瞬、答えに迷った。その一瞬の迷いを、住友さんは見逃さなかった。
「もしかして……市之瀬くんも、ここに来てるの?」
低い静かな声だったのに、揺れているように聞こえた。住友さんは表情を変えずに私の顔をじっと見ている。私は押し出すようなかすれた声で、「うん」と小さく答えた。
違和感を覚える。
正視すれば正体をたしかめられるけれど、見たくない。そういう違和感だった。
住友さんはわずかに目を細めて、「そう」と言った。
「やっぱり、あの後、そういうことになったんだ」
なんのことかわからず、私は返答に困った。
「卒業式の後。あのとき、市之瀬くんに告白されたんでしょ?」
当然のような顔をして、住友さんは言った。
私は頭が混乱して、返事ができなかった。卒業式の日のことは、思い出したくない。
遠くから、「ちがうの?」と住友さんが聞いている。
「市之瀬くんとは、この前の同窓会で、七年ぶりに会ったから」
誰かがそんなことを言っていて、それが自分の声だと気づくのに数秒かかった。まるで他人のような、聞き覚えのない、不自然な声だった。
住友さんの顔が私を見つめている。
彼女のまわりから、色が消えていく。
色のないモノクロームの世界に、ただ、私を見つめる住友さんの輪郭だけが、くっきりと浮かんでいる。
「そう」と、またそっけなく住友さんが言った。
「彼、あなたを追わなかったんだ」
ざわめきが遠ざかる。
あのときって、いつ?
市之瀬くんが、話したいことがあるって言ったのは、いつだった?
私は、教室で市之瀬くんを待っていて、それで。
それから──。
「確かめなかったの?」
突然、言葉が槍のように鋭く胸に突き刺さった。
止まっていた時間が動き出したように、目の前に、現実が色をもってあふれた。自分が今どこにいるのかを思い出した。
「確かめるって、何を……」
「私が言ったこと。もう忘れた?」
忘れるわけがない。
「市之瀬くんに確かめなかったの?」
「そんなこと……」
できるわけないじゃない。そう言いたかったのに、喉が詰まって声が出なかった。悔しさがこみ上げてきた。うつむいて黙っていると、笑うような声が聞こえた。
「まあ、加島さんには無理か。まだ経験なかったんでしょ。刺激的すぎてショック受けちゃったんじゃない? ウソよ、全部ウソ。私、あの頃けっこう遊んでて、そういう関係の男の子、たくさんいたのよ。彼も候補のひとりだったっていうだけの話」
急に住友さんが一方的に話し始めた。何を言っているのかわからなかった。
「嫌いじゃなかったけど、好きでもなかったな。面白そうだから、ちょっと仕掛けてみただけ。落とせなくてガッカリよ。そういうわけだから。なんかごめんね、邪魔しちゃったみたいで」
冗談みたいな言い草で一瞬笑ったかと思うと、住友さんは気が抜けたように溜息をついた。
「それから、私たち友達ってわけでもないし、できれば声かけないでほしい。自分の黒歴史知ってる人と会うのって、気持ち的に複雑なのよね」
最後に苦笑いでそう言って、住友さんは早足で立ち去った。
いつのまにか、通路には人がいなくなっていた。
開演のブザーが鳴る。
席にもどらなきゃ。そう思ってホールの扉を開きかけたとき、右手に携帯を握っていたことに気づいた。
亜衣からのメールが、目に入った。
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件名:無題
差出人:松川亜衣
言おうかどうしようか迷ったんだけど
一応伝えとくことにするね。
住友さんが帰国してるらしい。
健吾も知ってるみたいだったから、
市之瀬もたぶん知ってると思う。
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コンサートの後半は、記憶が飛んでいる。
どんな曲だったのかも思い出せず、その後ホールを出て市之瀬くんと別れた後、どうやってアパートの部屋までもどってきたのかも、覚えていない。
部屋の中で、どのくらいぼんやり座りこんでいたのか、気づいたら携帯が鳴っていた。亜衣からだったので、あわてて電話に出た。
『ごめんね、紗月。水を差すようなこと言って』
心配してかけてきてくれたらしい。
「ううん。それより、すごいタイミングだったよ。今日、住友さんに会ったの」
『えっ!? ウソでしょ!?』
「本当。ついさっき、コンサートの会場で」
私は住友さんと交わした会話の一部始終を、亜衣に話した。
全身が深く考えることを拒んでいて、こんなことを話したら亜衣によけいな心配をかけるんじゃないかとか、黙っていたほうがいいんじゃないかとか、そんなことを思う余裕がなくなっている。
『何よそれっ! なんなの、あの女!!』
話を聞いた亜衣は激怒して、住友さんのことを「あの女」呼ばわりした。
『言っていいウソと悪いウソがあんでしょーがっ!! っていうか何、卒業式の日にそんなことがあったなんて、私聞いてないんだけど!?』
「あ……そうだった。ごめん」
『七年前のこととはいえ、ほんっと、最低な女だね。結局、あの女のせいで紗月と市之瀬はうまくいかなかったってことでしょ? 許せないっ』
「うん。でも、もう終わったことだし。そのことは、もう、いいの」
『そう? 紗月がそう言うなら、いいんだけど。まあ、向こうも結婚したらしいしね』
「そうなの?」
『そうみたい。健吾に聞いた』
住友さんの落ち着いた声と身のこなしが、脳裏によみがえった。
「有村くん、ほかに何か言ってた?」
『言わない。私が聞いたときも、一瞬ごまかそうとしたし。健吾って、昔からそうだったんだよね。このことになると急に口が堅くなるっていうか』
「このことって?」
『市之瀬と住友さんのこと。ほら、一年のとき、健吾が暴れたことあったじゃん』
「あー……うん」
『あれさ、たぶん市之瀬のこと、かばったんだよ。喧嘩した相手の男子と、市之瀬とか窓花とか話してたの、聞こえた。あのときは誰のことだかさっぱりわかんなかったけど』
「……」
『でもさ、紗月の言うとおり、もう昔のことなんだから気にすることないよ。彼女、海外に住んでるんだって。旦那さんの都合みたい。今回の帰国も一時的らしいよ』
「……そっか」
『何かあったら電話してきて。私、いつでも聞くから』
「うん。ありがと」
電話を切ると、またしばらく部屋の真ん中に座りこんでじっとしていた。
部屋の中も外も静かで、なんの音もしなかった。
* * *
体育の授業が終わり、使用したバスケットボールを用具室に片付けているときだった。
「市之瀬くん、バレー部の試合に出るんだって」
同じ三組の女の子たちが、後ろで話しているのが聞こえた。
二年になってクラス替えをしたばかりで、まだ全員の名前を覚えていない。相変わらず、私はクラスメイトの名前を覚えるのが苦手だ。あとで亜衣に聞こう。
「今度はバレー部? この前はサッカー部だったよね。器用だねー」
「でもさ、三年の先輩に目をつけられてるらしいよ」
「どうして?」
「そりゃあ……。部員の先輩を差し置いて試合に出るなんて、生意気ってことでしょ。レギュラー枠、限られてるんだからさ。三年生にとっては、最後のチャンスだもん」
「言われてみればそうだね。私が先輩の立場だったら、やっぱり腹立つかも」
思わず手を止めて聞き耳を立てていると、話をしていた三人のうち、ひとりの女の子と目が合った。
「加島さん、どう思う?」
突然聞かれて、私はうろたえた。
「えっ、あの……」
私の存在に気づいた彼女たちは、嬉々とした表情で近づいてくる。
「隣のクラスの市之瀬くん。どう思う?」
「えーと……」
「かっこいいけど、ちょっと冷たいよね」
「この前、一年の女の子が告ったらしいんだけど、すっごい適当にあしらわれて、その子ショックで一週間も学校休んじゃったんだって」
「うわ、ひどい!」
「サイテー!」
「本性見たって感じ!」
「みんな騙されてるよ!」
声のボリュームがいっそう大きくなり、私は焦った。
その噂が事実なのかどうか、たしかなことがわからないのだったら、勝手に判断するのはよくないと思う。そう言いたかったけれど、彼女たちの勢いに気圧されて、私は何も言えなかった。
「ねえ、また被害者が出ないように、この噂広めちゃおうか!」
「うん! それ、いいかも!」
「え、でも……」
私が弱々しい口調で止めようとしたとき、用具室の入り口に住友さんが立っているのが目に入った。体育は隣のクラスと合同で、住友さんは市之瀬くんと同じ四組だった。
彼女は迷うことなく、こちらに近づいてきた。
「その一年の子、たまたまインフルエンザにかかって休んだだけだよ」
はっきりとした強い口調でそう言った。
「それから、市之瀬くんは公式戦には出ないよ。今度のはバレー部の練習試合。あの人、そういうとこけっこう気にするんだよ。そうは見えないかもしれないけど」
住友さんの言葉には、私たちの馴れ合いを許さないような響きがあった。
私も、ほかの三人も、彼女が市之瀬くんの彼女だということは知っていたから、いろいろな意味で気まずくて、黙るしかなかった。
住友さんが踵を返して立ち去ろうとしたとき、私は思いきって声をかけた。
「……ごめんね」
住友さんは横顔だけでふり向いて、「別にいいけど」とそっけなく言った。
「私たち、そういうこと言われるの、もう慣れてるから」
彼女が立ち去ると、一緒にいた女の子たちが小声で口々に文句を言った。
「何あれー」
「私たち、だって」
「ヤな感じぃ」
「ちょっと胸がでかいからって、ねえ」
私はしばらく、ショックから立ち直れなかった。何に対して傷ついているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、不安でたまらず、怖くてしかたなかった。
翌日の昼休み、二階の渡り廊下にいる住友さんを見かけた。
彼女は、二年の教室がある二号館の校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の奥の、体育館の入り口の前の段差に腰かけて、文庫本を読んでいたのだった。ひとりだった。
どうしてあんな場所で本を読んでいるんだろう、と思ったけれど、そのときは大して気にも留めなかった。でも、その日だけじゃなく、次の日も、その次の日も、住友さんは毎日、昼休みになるとその場所にいた。
理由がわかったのは、一週間くらい過ぎた頃だった。
その日は、住友さんの姿がなかった。
私は何気なく、渡り廊下を通って、彼女が座っていた場所に行ってみた。
バン、と大きな音がした。
背後の体育館の扉の向こうからだ。
しばらくして、バン、とまた同じ音が響く。
私は体育館の扉を少しずつ開き、中を覗いてみた。
市之瀬くんがいた。
コートの端に立っている。
ボールを上げる。右手で打つ。ボールが勢いよくネットを越えて、向こう側のコートに落ち、バン、と音をたてて跳ねる。
何度も、繰り返し、市之瀬くんはサーブの練習をしていた。
意外だった。
私の知っている市之瀬くんは、面倒くさがりで、何をやるにも適当だった。
それなのに何をやらせても完璧で、たった一度で簡単にできてしまうから、練習なんかしないのだと思っていた。そんなことしなくても、いつでも人よりうまくできる、そういう人だと思っていた。
私は扉をもとどおりに閉めて、その場を離れた。
二号館の校舎にもどる途中、向こうから渡り廊下を走ってくる住友さんとすれ違った。
額にうっすら汗を滲ませて、必死に走ってくる住友さんは、私のことなど目に入っていないようだった。
私はふり返ることができずに、廊下を歩き続ける。
今日も、彼女はあの場所で、扉の向こうの音を聞きながら、本を読むのだろう。
ひとりで。




