2 わかるよな?
「市之瀬くん、こういうの興味ない?」
加島との打ち合わせを終えてデスクに戻ると、斜め前の席から西森さんが声をかけてきた。
積み上げられた資料の隙間から、にゅっと白い腕が伸びてくる。
俺は彼女の手から、チケットを受け取った。二枚ある。
「クラシックのコンサートなんだけど。代理店の担当者からもらったんだ」
「西森さん、行かないんですか」
「行くつもりだったんだけどね。その、一緒に行く相手が、都合悪くなっちゃって」
資料の山の向こう側で、西森さんは深々と溜息をつく。
「今度の日曜なの。捨てるのももったいないし、よかったらもらって」
「……」
「彼女いるって言ってたよね。あんまり興味ない?」
「いえ、たぶん好きだと思います」
俺は全然興味ないけど、加島は好きそうだな。休日出勤するのはたしか土曜だと言っていたから、日曜ならなんとかなるかもしれない。
「じゃあ、遠慮なくいただきます。ありがとうございます」
さっきの会議室でのやりとりでなんとなく気まずくなって、こちらから連絡するきっかけを探していたところだったから、渡りに舟だった。
加島に言われた台詞を思い出して、ひそかに溜息をつく。
正直なところ、加島がどう思っているのか、俺には全然わからない。だから鈍感だと言われたら、返す言葉がなかった。
加島は、ふたりきりで会えないことをどう思っているのだろう。
電話で話したり、メールを送ったり、今日みたいに仕事の打ち合わせで顔を合わせたりするだけで、彼女は満足なのだろうか。今日の感じだと、そんな気がする。今は仕事がうまくいっていることがうれしくてしかたがない、みたいな。
加島の仕事が──特にうちの会社との仕事が──増えるのは、彼女の努力が実を結んだ結果なのだから、俺としてもうれしいのだが、なんとなく、それだけじゃない気もする。
仕事が忙しいことにかこつけて、と言うか。
微妙に、ものすごく微妙に、避けられているような気がする。
いや、避けているというより──ためらっている、といった感じ。
何か、加島をためらわせるようなことをしたんだろうか、俺。
「ねえ、市之瀬くん」
頭上から声がして、はっと我に返る。顔を上げると、西森さんが山積みの資料の上からのぞきこむように俺を見ていた。
「『RED』の次のキャンペーンのノベルティなんだけどね、加島さんにデザインを頼もうと思ってるんだけど、どう思う?」
西森さんは資料の山の上に両手を乗せて、そろえた細い指の上に顎を置く。
「『RED』って、働く女性を対象にしてて、今まで都会的なイメージを前面に出してきたでしょ。ちょっと加島さんの作るものとイメージが違う気がして」
「大丈夫なんじゃないですか」
大丈夫じゃない、ほかに回せ、ほかにっ。と本音は訴えていたが、口から出たのは真逆の言葉だった。
「プロのデザイナーなんだし。そんなに不器用じゃないと思いますよ」
「そうか。じゃあ頼もうかな」
「すっかり西森さんのお気に入りになってもうたなあ、加島さん」
いつからいたのか、本間課長が俺の背後から会話に入ってきた。
「そやけど、あんまり無茶ぶりせんように気いつけや」
「あ……はい」
西森さんが神妙な顔つきになる。
ずっと前に、加島が勤めているデザイン事務所“アトリエ颯”に大量の仕事を丸投げして、そのあと一方的に関係を切ったことがあるという話を、誰からか聞いたことがある。そのことが原因で、一時アトリエ颯とは絶縁状態になっていたらしい。
西森さんは少し前まで企画部にいたので、矢神課長からそのあたりの詳しい事情を聞かされているのかもしれない。
「ところで市之瀬、おまえ今夜ヒマか?」
「ヒマって……まあ、はい」
「じゃあ付き合え」
それだけ言うと返事も聞かずに部屋を出ていく。これから会議だと言っていた。この時間から始まるとしたら、終わりは遅くなりそうだ。それまで待っていろということか。
なんの話だろうと気になったが、心当たりがないので単純に飲みに付き合えということなのかもしれない。
帰りが遅くなりそうだったので、先に加島に電話を入れておくことにした。日曜日のコンサートのチケットのことを話すと、思いのほかうれしそうな声が返ってきてほっとした。やはり俺の考えすぎだったのかもしれない。
本間課長はなかなかもどってこなかった。八時を過ぎるとフロアには誰もいなくなった。いつも遅くまで残っている西森さんも、ついさっき帰宅した。
仕事はいくらでもあるので時間を潰すのに苦労はしない。エレベーターホールに設置されている自販機で飲み物を買って、デスクにもどろうとしたとき、部屋の中から話し声が聞こえてくるのに気づいた。
知っている男女の声だったので、思わず部屋の前で足を止めてしまう。
「あった。やっぱりここだったんだ、携帯」
俺の斜め前の席を探っていたらしい女性が、ほっとした声を出した。
「おまえなあ、もうちょっと机の上なんとかしろよ。携帯が資料の中に紛れこんでも気づかねえって、どんだけだよ。片付け魔はどうした、片付け魔は」
聞き覚えのある男性の低い声が、耳を疑うほど乱暴な口調でぼやく。
「そんな時間ないんだから、しょうがないでしょー。年中机の上で山崩れ起こしてる課長に言われたくないです」
「どうする? この時間だと、開いてる店限られてるけど」
「え、『あすなろ』でいいよ」
「おまえほんっと居酒屋好きだな。下戸のくせに」
「『あすなろ』は特別。マスターの料理絶品だし、高校時代の庸介クンの武勇伝も聞けるし」
「……喧嘩売ってんのか」
「まさか。隣の県まで悪名が響き渡っていたような人に、そんな怖いことしませーん」
ふたりが部屋を出ようとこちらへ歩いてきたので、俺は慌ててトイレの中に逃げこんだ。いや、隠れる必要はなかったかもしれないが、反射的に。
「コンサートの件、悪かったな」
「もういいですよ」
ふたりの足音がエレベーターホールに向かい、しばらくしてポンという到着を報せる音が聞こえてきた。エレベーターホールが静かになったのを充分待ってから、トイレを出る。
「こんなとこで何してんねん」
背後からの声にぎょっとしてふり向くと、本間課長が不思議そうな顔をして立っていた。
「西森さんと矢神課長って、付き合ってるんですね」
居酒屋のカウンター席に着いて一杯目を空けている途中で、本間課長に聞いてみた。
「おま……なんでそれを……」
本間課長の顔は、予想以上にこわばった。
「あ、内緒にしてました?」
「う……いや……その」
「さっき、ふたりでいるところを偶然見たんです。前からちょっと怪しいなとは思ってましたけど。でも、隠す必要ないんじゃないですか? お似合いだし、誰も文句なんて言いませんよ」
「まあ……なんちゅうか、いろいろ、複雑な事情があるんや」
そう言うと、グラスに残っていたビールを一息に飲み干した。
「でもま、もう時間の問題やねん。あのふたり、結婚するから」
「そうなんですか」
「そやから、それまではそっとしといたって」
「あのー。俺、別に言いふらすつもりないですよ?」
「うん。そうやな。おまえ口堅そうやもんな。でも、ちょっと気をつけたほうがええかもしれんな」
「何をですか」
「そやから……必要以上に、西森さんに近づかんように……とか」
「は? 何言ってるんですか?」
俺は思わず大きな声を出してしまう。
「相手は矢神課長ですよ? あんな完璧な人に、俺なんかが太刀打ちできるわけないでしょ。年も違うし、比べる対象にもなりませんよ。矢神課長に失礼です」
「アホかッ。あいつの完璧は見かけ倒しなんやッ!!」
ドン、と音をたててテーブルを叩くと、本間課長はギロッと俺を睨んだ。
「あいつの本性はなあ、横暴で身勝手で度量の狭い、どーっしょーもなくひねくれた二重人格男なんや! ええのは見てくれだけや! 会議中になんべん、あのクソ忌々しい紳士面を引っ剥がしてやろうと思ったことか! 優等生ぶりやがって、ほんまに腹立つわっ!!」
本題から若干ズレている気がするが……もう酔ったのだろうか。
「西森さんみたいな子が、なんであんなしょーもない男に引っかかったんかわからんけど、とにかくめんどくさい男なんや! あと、おまえもな!」
嫌な予感。
「おまえは自覚がなさすぎるんや! 女性社員のポイントがどんだけ高いと思てんねん! おまえみたいなモテ男が西森さんと仲よくしてるっちゅーだけで、あのアホがいらん嫉妬心燃やすんや!」
「いや……あの……仲よくって、仕事してるだけですけど。それに俺、彼女いますし」
「それでもや!!」
ヤケクソ気味につぎつぎとグラスを空ける本間課長の隣で、俺は「わかりました。気をつけます」と素直に受諾した。最初に西森さんの仕事を手伝えと言ったのは、どこの誰だよ。
完全に酔ってしまった本間課長から、俺はその後も延々と矢神課長の悪口を聞かされるはめになった。
だが最後には、「俺はなあ、あのふたりには、ほんまに幸せになってもらいたいんや」と小声でつぶやいていたから、表では罵っていても、本心は、口で言うほど嫌ってはいないのかもしれない。
結局、その夜は、酔っ払った課長に閉店まで付き合わされて、家に帰ったら午前一時を過ぎていた。
* * *
朝食の後、まだ支度をしている同室のやつらの目を盗んで、ホテルの部屋を出た。
修学旅行二日目。
十月だというのに、鹿児島の空はびっくりするほど青い。
「どこ行くんだよ」
ホテルのロビーで、聞き慣れた声に呼び止められる。顔だけふり向くと、健吾が腕を組んで仁王立ちしている。
面倒なやつに見つかった。
「今日は自由行動だろ」
「おーまーえー。ひとりだけ別行動とるつもりかっ!」
班別だということは承知の上だ。しかもルートは事前に提出させられている。しかし。
「行きたいところがあるんだよ」
「行きたいところって、どこだよ」
「どこでもいいだろ」
「迷子になったらどうすんだ」
「交番に行けばいいんじゃねえの」
健吾を適当にあしらって歩き出そうとすると、「住友はどうすんだよ」と怒ったような声で言われた。
二年になって俺と健吾と住友は同じクラスになり、今日の自由行動の班も一緒だ。住友が自由行動を楽しみにしていたことも知っている。
「途中で合流するから」
ホテルの玄関に向かおうとしたとき、バタバタと大きな足音が近づいてきて、「有村!」という甲高い声がロビーに響いた。
「ねえ、紗月見なかった?」
三組の、たしか松川とかいう女子だった。一年のとき、加島や有村と一緒にいるところを何度か見かけたことがある。そうそう、野球部のマネージャーだ。
「加島さん?」
俺は足を止めた。健吾がちらりと俺を見る。
「見てねえけど。加島さんがどうかしたのか?」
「いないんだよ。もうホテル出ちゃったのかな」
「ひとりで? それはねえだろ。おまえと同じ班なんだよな?」
健吾にしてはめずらしく、女子相手にぞんざいな口のきき方だ。
「そうなんだけど、昨日、別行動とりたいって相談されて」
「なんで?」
「わかんないよ。行きたいところがあるって、それしか教えてくれなかったんだもん。あとで合流するからって言われたんだけど、よく考えたらあの子、携帯持ってないんだよね」
「……ふーん……」
不自然な間を置いて、健吾がまたちらりと俺を見た。
「わかった。午後になっても加島さんが合流しなかったら、連絡しろよ。俺も一緒に探してやるから」
「ほんと? ありがとう有村!」
不安そうだった松川の表情が、たちどころにぱあっと明るくなる。一年のときは野球少年みたいな印象だったのに、最近ずいぶん変わった。
松川が立ち去るのを見送りながら、健吾が静かに口を開いた。
「どっかで聞いたことのある台詞だったよな」
意味ありげな視線を送ってよこす。
「……加島さんと待ち合わせしてんの?」
「そんなわけねえだろ」
「違うの? マジで? ふたりで一緒に行動する約束してんじゃねえの?」
「だから違うって。なんで俺が加島と」
健吾は五秒近く俺の顔をじっと見つめて、ようやく納得したらしく、「なあんだ」と露骨に落胆した顔をする。
「じゃあどこに行ったんだよ、加島さんは」
「俺が知るわけねえだろ」
「見かけによらず大胆だな、加島さん」
意外とな。
「ひとりで大丈夫かなあ。心配だなあ」
「平気だろ。小学生じゃねえんだから」
「でも、いかにも迷子になりそうなタイプだしさ」
「大丈夫だって。あいつ普段はどんくさいけど、切羽詰まったら行動的になるから」
「でもさ、加島さんて見た目かわいくておとなしそうだから、変なやつらにからまれたりしそうじゃねえ?」
「いざとなったら走って逃げるだろ。加島の足に追いつけるやつなんて、男でもそうそういねえよ」
ふいに会話が途切れて、見ると健吾がにやにやしながら俺を見ている。
「へーえ。よく知ってんじゃん、加島さんのこと」
「言っただろ、幼なじみだって」
健吾は俺が加島の話をするとうれしそうな顔をする、ということに最近気づいた。俺は墓穴を掘ったことに気づいたが、もう遅い。
「じゃあ、加島さんが行きそうなところ、わかるよな?」
「は?」
健吾がニッコリ笑って、俺の肩に両手を置く。
「彼女のことは、おまえに任せていいよな?」
「いや、ちょっと」
「任せた。見つけたら連絡しろよ」
ちょっと待て!
慌てて言い返す前に、ドンと背中を押された。
「頼んだよ、郁クン。その代わりに君の単独行動は見逃してあげよう!」
笑いながら調子のいいことを言って、健吾は上機嫌で離れていった。俺は唖然としたままその後ろ姿を見送って、ホテルを出た。
加島が行きそうなところ。
快晴の空の下、異国のような強い陽射しにさらされる。
確信はない。でも、もしかしたらあいつも──。
バスを降りて住宅街に入り、人気のない路地を歩く。目的地までの方角は合っているはずなのだが、ここまでの道のりで加島の姿を見かけることはなかった。
やはり見当違いだったのだろうか。
考えてみたら、加島がそこへ向かう根拠は何もない。
自分が途方もなくバカなことをしているように思えて、一瞬足を止めたが、とにかく行ってみようと考え直した。加島がいてもいなくても、あの場所へは最初から行くつもりだったのだ。
角を曲がって広い通りに出たとき、前方に見覚えのある制服の女の子が立っていた。
彼女は立ち止まってガイドブックを見るのに一生懸命で、俺が近づく気配にまったく気づかなかった。俺が前に立っても、深刻な顔で地図のページをのぞきこんでいる。
「加島」
「ひゃあっ」
声をかけると同時に、加島が素っ頓狂な声を上げた。
ガイドブックが音をたてて足もとに落ち、すぐそばを通り過ぎようとしたサラリーマンがぎょっとしたように俺たちを見る。
「え、えっ!? 市之瀬くん? な、なんで?」
俺はガイドブックを拾って、パニックに陥っているらしい加島に手渡した。
「松川と有村に探してくれって頼まれた。おまえ携帯持ってないんだろ」
「え? あ、そっか」
「どうするつもりだったんだよ」
「あ、えーと、ルートはわかってるし、なんとなく会えるんじゃないかなーって……」
「はあ? 適当すぎるだろ」
俺はポケットから携帯を取り出し、有村に連絡した。
「あー、俺。加島と会ったから。後でまた連絡する。じゃ」
有村がよけいな口を挟む前に、一方的に切った。ポケットに携帯を突っこんで、歩き出す。気配がないのでふり返ると、加島がガイドブックを胸に抱えたまま同じ場所に立っていた。
「原田神社に行くんだろ。何してんだよ」
加島は驚いた顔をして、小走りにかけよってくる。
「なんでわかったの?」
俺も行こうとしていたから。
「あの……市之瀬くんはいいの? みんなと一緒じゃなくて」
返事をせずに歩いていると、加島は何も言わなくなった。俺の後ろを黙ってついてくる。
しばらく歩くと、通りにまたがって立つ大きな鳥居が見えてきた。鳥居をくぐり、両側に杉の大木が並ぶ長い石段を登る。背後から足音が消えたと思ったら、加島がずいぶん下のほうで立ち止まっていた。
「遅い」
ふたたび降りていって、加島の上から見下ろした。加島は赤い顔をして息を切らし、「だって」と言いながら膝に手を置く。
「しんどー」
時間が過ぎるにつれ、真夏のような暑さになっている。
「クラス一の俊足はどうしたんだよ」
「そんなの、もう大昔の話だし。それに足が速いことは関係ないと思う」
加島のペースに合わせながら、長い石段をのぼりきる。境内は濃い緑に囲まれていた。時間が早いせいか、俺たちのほかに参拝客は見当たらない。
本殿の横に、ひときわ目立つ大きな木があった。太い幹には注連縄が巻かれ、そばに天然記念物だということを記した石柱が立っている。
本殿に参拝した後、俺たちはその木の下に立って、長い間何もいわずに立派な枝を眺めていた。
樹齢五百八十年のクスノキだ。
鹿児島のクスノキといえば日本最大の蒲生のクスが有名で、そちらは樹齢千五百年、国の特別天然記念物に指定されている。九州は、クスノキの巨木が多い土地だ。
青い空からの陽射しを受けて、葉が揺れるたびにキラキラ光る。
話したいことはたくさんあった。
澪入山のクスノキのこと。加島がいなくなったあの夏、はじめて伝説のクスノキを見たこと。学校の裏庭の金網をくぐって、その場所へ行けること。今の俺にとって、そこがどこよりも大切な場所になっていること。
だが何も言えなかった。
言えば、すべて壊れてしまいそうだった。
「絵が描きたいな」
ぽつりと加島がつぶやいた。
「写真、撮る?」
「ううん、目に焼きつける」
そう言っておきながら、加島は目を閉じている。大きく息を吸いこんで、吐く。加島のやわらかな息づかいが聞こえる。
足もとに目を落とすと、蟻の行列が地面に黒い線を作っていた。
大きな河のようにゆっくりと流れる時間とは対照的な、手のひらに乗るわずかないのちの時間。
光が降ってくる。
闇がささやく。
肌を撫でる懐かしい風。
暗がりで蠢く生き物たち。
どこかで水の流れる音がする。
鼓動を感じる。
誰かがそばにいる──。
はっとして、加島から離れた。加島は首を傾げて俺を見た後、やわらかく笑った。
「そろそろ行かなきゃ。亜衣が心配してるだろうし」
歩き出した加島の手をとって、もう少しだけここにいようと言いたかった。加島を引き留めたかった。
日が暮れるまでここにいてもいい。
知らない街を歩いてもいい。
俺たちのことを知っている人間が誰もいない場所でなら、加島を俺のものにできる。一日だけでも。
そんな卑怯な考えが頭を支配した。
──まだ、そばにいてくれるよね?
住友の声が聞こえた。胸の奥に軋むような音が走る。
彼女を見捨てることはできなかった。彼女が「もういい」と言うまで、そばにいるつもりだった。だが、もうこのままではいられないことも、本心ではわかっていた。
「市之瀬くん?」
歩き出そうとしない俺を、加島がふり返って怪訝そうに見る。俺は無言で加島を追い越し、石段を降りた。ふたりで何も言わずに来た道をもどる。
バス停が見えてきたとき、その向こうからバスがやってくるのが視界に入った。
「走れ、加島」
「えっ」
走り出したものの、間に合いそうにない。途中で速度を落とし、後ろをふり返った。
俺のすぐ後ろに加島がいた。必死な顔をして、だが離れることなくついてくる。俺はとっさに加島の手をとって、ふたたび走る速度を上げた。
「急げ」
バス停に停まったバスは、すぐには発車しなかった。運転手が待ってくれたのか、俺と加島を乗せると扉が閉まり、ゆっくりと発車した。
「こんなに走ったの久しぶり」
息切れして苦しそうに顔を歪めながら、加島は笑っている。
「でも楽しかった。付き合ってくれてありがとう」
握っていた手は、いつのまにか離れてしまった。加島は何もなかったように、窓の外を見ている。
開け放った窓から緑の匂いを含んだ風が入ってきて、加島の髪をすくった。吊革を持つ加島の瞳に、どこまでも続く青い空が映りこんでいた。
バスは揺れながら走り続ける。そしていつかバスは止まり、俺たちの時間は終わる。
加島が好きだ。
どんなに否定しても、心が──全身が叫ぶ。
ほかの人間のことなんて、どうでもいい。
俺は加島と一緒にいたいんだ、ずっと。
走って乱れた呼吸はもとにもどったはずなのに、いつまでたっても胸の鼓動が静まらなかった。
* * *
コンサートは午後七時開演だった。
プログラムはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』とムソルグスキーの『組曲<展覧会の絵>』だったが、作曲家や曲の内容について詳しいことはよくわからない。ただ、どこかで聞いたことがある曲、というだけ。
「あー、無性に絵が描きたいっ」
一曲目が終わって指揮者が退場し、場内が明るくなったとたん、隣の席で加島が小声で言った。
「え、なんで?」
「だって」
加島が上気した顔を俺に向けて、興奮したようすで目を見開いた。
「あんなに豊かな色が音で表現できるなんて! すごかった! 氾濫してた!」
俺は気圧されつつ、「へえー」と言った。
「加島には、色に感じるのか」
「え? 市之瀬くんは違うの?」
俺は、と言いかけて口を閉ざした。加島がしつこく聞きたがるのをなんとか躱して、ごまかした。
加島が化粧室に行くといって席を立ちかけたとき、ふと、客席の前方に視線をもどした。
「何?」
「ううん、なんでもない」
一瞬、妙な表情をしてから、加島は席を離れた。
加島がもどってきたのは、二曲目の曲が始まる直前だった。
既に客席の照明は落ち、暗くなった通路を静かに歩いてきた加島は、どこか放心したような顔をして、無言で席についた。曲が終わってもなんの感想も口にせず、虚ろな表情で押し黙ったまま、ホールを出た。
「今日はありがとう。楽しかった」
途中から明らかにようすが変だったのに、俺はたしかめることもしないで、去っていく加島の背中を見送った。
このとき加島に声をかけなかったことを、後悔することになるとも知らずに。
原田神社はフィクションです。鹿児島にそんな神社はありません(^^;
西森さんと矢神課長の恋愛模様は、スターツ出版から出ている『上司のヒミツと私のウソ』で詳しく書いています。もし興味が湧いたらこちらも読んでいただけるとうれしいです(宣伝してしまった…)。




