1 付き合ってますよね
続編です。本編の続きではありますが、番外編とも微妙にリンクしているので、できれば本編→番外編→続編の順番で読んでいただけるとうれしいです。
打ち合わせの途中で西森さんが席を外すことは、よくあることだ。だけど、今日だけは、この会議室から一歩も出てほしくなかった。
なぜなら、市之瀬くんとふたりきりになってしまうから。
「加島さん」
西森さんが急用で呼ばれて会議室を出ていった数秒後、テーブルを挟んで真向かいに座っている市之瀬くんが、私の名前を呼んだ。
「ずいぶん、お忙しそうですね。今週もまた休日出勤ですか」
口調は丁寧だけど、声には抑揚がなく、私を見つめる目は冷たくて、表情はいつもどおり感情のかけらも見えない。
でもわかる。わかりすぎるほど、よくわかる。めちゃくちゃ不機嫌だってことは。
「そ、そうなんです。なんか、いろいろ溜めこんじゃって、その……」
私は急いでテーブルの上のスケジュール帳を確認するふりをした。でも、忙しいのは本当だ。嘘じゃない。
私の提案したレッツウォーターのラベルデザインが採用されてから、西森さんは、大手の代理店に依頼していた細々とした仕事を私に回してくれるようになった。
今までは、声をかけてもらえること自体なかったから、とてもうれしい。どんな小さな仕事でも、チャンスをもらえることが何より励みになり、自信につながる。
最近は営業担当者を挟まず、直接私に連絡が来るようになった。人手不足の事務所としても、デザイナーが営業を兼任できればそれに越したことはないという考えなので、このところほとんど私がひとりで打ち合わせに参加している。
市之瀬くんのいるスカイ飲料の仕事に関わりたいと、ずっと思ってきた。大きな仕事を任されることが入社以来の目標だった。
だけど今は、もっと先を目指している。言われるままではなく、期待に応えるだけではなく、それ以上の、もっといい仕事がしたい。誰が、どんな立場の人たちが、何を望んでいるのか、ちゃんと理解して共感できるようになりたい。そうしたら、今よりもっと──。
「それは大変ですね」
予定が書きこまれたスケジュール帳を眺めてうっとり未来の妄想に浸っていると、皮肉めいた冷ややかな声がバラ色の未来をかき消した。
「で、この一か月の間、職場以外で会っていないという事実をどう考えてます?」
市之瀬くんは表情を変えずに私を見つめる。絵画のようにきれいに整った顔で、そんなにじっと見ないでほしい。
「で、でも、ほらっ、先週会ったよね」
「富坂と三人で飲みに行ったこと? ふーん。あれ、デートのうちに入るんだ?」
棒読みの台詞のように感情のない声で言われて、私は落ち着かなくなってしまう。
「えっと……それは……あの」
「付き合ってますよね、俺たち。それとも、そう思ってんの俺だけ?」
「はいっ、いいえっ」
「どっち?」
「あの、それは、だから、その……、つ、付き合って、ます」
しどろもどろになりながら、早くもどってきて西森さん! と心の中で必死に祈る。
私がうつむいて黙りこむと、正面から投げやりな感じの溜息が聞こえてきた。市之瀬くんは頬杖をついて窓の外を見ている。呆れられてしまったようだ。
「あのっ、五月の連休はとれるから。後半なら、空いてるし」
市之瀬くんの冷たい目が私を射抜く。
「後半て、何。前半は予定あんの?」
「前半は、実家に帰るつもりで」
「また? 一か月前のCM撮影の時に帰ったのに?」
「えっと、汐崎くんが企画したイベント手伝うって約束してて。ゴールデンウイーク中に、親子写生会をやるんだって。同窓会のとき、声かけられたの」
「は? おまえそれ引き受けたの?」
「うん。だって楽しそうだし」
「俺、聞いてないんだけど」
「あ、ごめん。でも、あの時は、その、こういうことになるとは想像もしてなかったっていうか……。それに、市之瀬くんは絶対断ると思ったし……あれ。えっと、もしかして市之瀬くんも参加したかった? でも親子写生会だよ? 写生って絵を描くんだよ?」
市之瀬くんはなぜか頭を抱えこむような仕草で、また溜息をついた。
「断れ」
「え?」
なぜだろう。ますます声の不機嫌度が増した気がする。
「どうして?」
「いいから断れ」
「でも、約束……」
「じゃあ俺から汐崎に伝えとく」
有無を言わさぬ口調で、市之瀬くんは言い切った。そして低い声で「加島は鈍感すぎんだよ」と言った。
はい?
なんですか、それ。
「私のこと鈍感って言うなら、市之瀬くんだって同じだと思う。十六年も私の気持ちに気づかなかったんだから」
つい、心の中の言葉が声になってしまった。それもすごく厭味な言い方で。なんでも溜めすぎるとよくない。
市之瀬くんは無表情のままそっぽを向いた。気まずい沈黙が支配して十分後、ようやく救い主が会議室にもどってきた。
「ごめんなさい、中座しちゃって。えっと……あれ? どうかしました?」
会議室を埋める微妙な空気に戸惑って、西森さんが苦笑いを浮かべた。
打ち合わせの時間が予定より長引いて、ビルの外に出たときには午後六時を回っていた。
このあたりはオフィス街なので、仕事帰りの人たちで駅に向かう道は混んでいた。
ビルの谷間から頭上を仰ぐと、予想外に空が明るい。
なんてきれいな色だろう。上を向いたまま見とれてしまう。紫陽花の花のような青紫色。どんなにコンピュータが進化しても、世界が作りだす自然の色にはとてもかなわない。
夕暮れどきでも風は優しく穏やかで、かすかに花の香りを含んでいる。桜が咲いて、散って、目に映る景色は日ごとに色が増えていく。風も、匂いも、カラフルに染まる。
もうすぐ四月が終わろうとしている。
人々の流れに沿って、私はぼんやりと駅に向かう道を歩いた。
付き合うようになってから、市之瀬くんは、なんとなく変わったように思う。
今までより、わかりやすくなったというか。
今日みたいに、不機嫌を隠そうとしないこともそうだし、メールや電話でも「会いたい」ってことをはっきり言う。相変わらず無表情だし、声は冷静なんだけど、それでも言葉の端々からもろに感情が伝わってくる。
それがとても新鮮で……要するに、すごくうれしい。
ただ、そのたびに私はうろたえてしまう。
市之瀬くんは、前からそういう人だった? 私が知らなかっただけ?
本当は優しい人だということは、十六年前から知っている。だけど、普段の市之瀬くんは淡々としていて、めんどくさがりで、いつも他人に対して距離を置くところがあった。
言いよってくる女の子にも冷たかったし、仲のいい有村くんや富坂くんに対しても、必要以上に近づかないドライな付き合い方をしているように見えた。
市之瀬くんは、そういう人だと思っていた。
だから、不安になる。
「不安……?」
つい声に出してしまい、慌てて周囲を窺った。歩道を歩く人たちが、急ぎ足で私を追い抜いていく。よかった、誰も聞いていないみたいだ。
不安って何? どうしてうれしいのに不安になるの?
ひょっとして──私、冷たくされるのに慣れすぎた?
市之瀬くんの積極的な態度に不安を感じるなんて、どう考えてもおかしい。以前みたいな冷たい態度をとってくれたほうが、安心するってこと?
それって……なんか、変態っぽくない?
市之瀬くんは、どう思っているんだろう。
私が困ると思って、わざとわかりやすい態度をとっているのかな。気を遣ってくれているのかな。もしかして、無理をしてるんじゃないのかな。
足を止めて、また空を見上げる。
桔梗色に変わった空の真ん中に、舟の形をした真珠色の三日月が浮いている。
* * *
その日は、朝から強い雨が降っていた。放課後になっても降り止む気配はなくて、誰もいなくなった教室で、私と亜衣は雨の音を聞いていた。
亜衣はずっと黙ったままだ。
昼休みに、有村くんが六組の男子と喧嘩をした。と言っても、有村くんが一方的に殴って、相手は何もしなかったらしいから、喧嘩というのとは違うかもしれない。
有村くんはそのまま職員室に連れていかれて、五時間目の途中で一旦教室にもどってきたけれど、放課後になって担任の宇藤先生に呼ばれて出ていったきり、まだもどってこない。
亜衣は、そのとき有村くんと一緒にいて、一部始終を見ていたらしい。
「なんでいきなり怒ったのか、よくわからない」
と、亜衣は虚ろな調子で言った。
「友達のこと、話してたみたいだったけど」
亜衣は少なからずショックを受けているみたいで、めずらしく落ちこんでいたけれど、暗い雰囲気を払うように勢いよく立ち上がると「私、練習あるからそろそろ行くわ」と言った。
雨が降っても野球部の練習は休みにはならない。補強と言って、校舎の階段や廊下を利用したトレーニングをする。
「紗月ももう帰っていいよ。どうせあいつ、宇藤に長々とお説教食らってるんだよ」
亜衣はわざと軽い口調で、呆れたように笑い飛ばした。
そのとき、教室の戸口に市之瀬くんが立っているのに気づいた。私はうろたえるあまり「あ」と声を出してしまった。亜衣が私の視線の先を追って、ふりむく。
「健吾……有村は?」
市之瀬くんは遠慮する様子もなく教室内に入ってきて、私たちから離れて窓際の席にどかりと腰を下ろした。亜衣が目配せで“誰?”と聞いているのはわかったけれど、私は口を開いたまま声を出すことができない。
「担任に呼び出されて、まだもどってこない」
心臓ごと固まってしまったかのように硬直する私をよそに、亜衣は平然と答える。
「じゃあ私、部活行くね」
後ろ髪を引かれるようにそう言い残して、亜衣は教室を出ていった。
教室には、私と市之瀬くんだけが取り残されている。
何か話すべき?
それとも何も言わずに帰るべき?
市之瀬くんとは、保健室で膝の傷を手当してもらった日から、喋っていない。あの日のことは思い出したくないし、市之瀬くんも触れられたくないだろうと思ったから、校内で会っても私から声をかけたりはしなかった。
市之瀬くんは、たぶん住友さんと付き合っている。
私の気持ちは、ふたりにとって迷惑でしかない。
「あいつ、なんで喧嘩したか知ってる?」
唐突に、静かな教室に低い声が響いた。
市之瀬くんは私には目もくれずに、机に頬杖をついて窓の外を見ていたから、一瞬、自分に向けられた台詞だと気づけなかった。帰りかけていた私は、足を止めてふり返った。
市之瀬くんが、こちらを見ている。
「あ、えと、喧嘩っていうか、一方的に殴ったのは有村くんだったみたいだけど」
「なんで?」
「それは……私も、知らない」
「あ、そ」
「仲、いいの? 有村くんと」
市之瀬くんは、一瞬黙りこんだ後で、「別に」とそっけなく言う。
でも、さっき有村くんのことを“健吾”って言った。有村くんも、市之瀬くんのことを“郁”って呼ぶ。市之瀬くんのことを下の名前で呼ぶ人は、私が知っているかぎり、有村くんだけだ。
「もうひとつだけ、聞いてもいいかな」
聞かなくていい。そんなわかりきったこと聞いて、どうするつもり?
でも聞かなきゃ。ちゃんと本人に確かめなきゃ、終われない。
「あの……あのね、住友さんと……付き合ってるの?」
その言葉を聞いたとたん、市之瀬くんは反射的に私から目をそらした。雨の降る窓の外に、ふたたび視線をもどしてしまう。
「……加島には関係ない」
ものすごく面倒くさそうに、市之瀬くんは言った。窓の外を見つめる横顔が、困ったように歪むのを見た。
「……そうだよね。ごめん」
私は笑いながらそう言って、教室を出た。
否定も肯定もしないなんて、ずるいと思った。付き合っていないわけがないのに、どうしてごまかすみたいな言い方をするんだろう。
だって。
だったら──どうして、あのとき住友さんとキスしたの?
* * *
「加島さん?」
名前を呼ばれてふり向くと、富坂くんが驚いた顔で立っていた。
休日出勤した土曜日、会社の近くで軽く昼食をすませて、事務所に戻る途中に書店でデザイン関連の本を立ち読みしているときだ。
「なんか似てる人いるなあと思ったら……何、家この近くなの?」
「ううん、職場が。今日は休日出勤で」
「なるほど。大変そうだね」
そう言う富坂くんも、スーツ姿だった。私の視線を感じたらしく、「お互いさまか」と苦笑いする。
富坂くんは、先月の中頃に東京に引っ越してきた。
一月に市之瀬くんと三人で会ったとき、本社への異動が決まったという話は聞いていたから、お祝いと称してつい先日三人で飲みに行ったばかりだ。
富坂くんと一緒にいるときの市之瀬くんは、普段どおりという気がする。端から見ていても気が楽そうで、なんの遠慮もしていないのがわかる。
私はふと、富坂くんが手に持っている本に目をとめた。東京のガイドブックだった。
「あっ、やば。ダサいとこ見られた」
苦笑いが照れ笑いに変わっている。
「ゴールデンウイークに、急に彼女がこっちに来ることになって。予定立ててなかったから、ちょっと焦っててさ。どっか、おすすめある?」
「うーん。連休中はどこも混んでそう……」
「だよね」
悩んでいる富坂くんの顔を見ながら、私は尋ねた。
「彼女さん、どういう雰囲気の人?」
「ええっと……どっちかというと地味めで、本とか好きなタイプ。あとスイーツも好きかな」
照れた表情を隠すように横を向いて言う。
「静かな場所のほうが好きな感じ?」
「そうそう」
「プラネタリウムとか、どうかな」
「ああ、いいね。たぶん好きだと思う」
富坂くんの表情がほわっと温かくなった。彼女が喜ぶ顔を想像したのかもしれない。
「あと、都内の美術館なら連休中でも空いてるかも。えっと、私的におすすめは……」
私は店内の時計を確認した。まだ少し時間がある。
「もしよかったら、お茶でも飲みませんか?」
富坂くんは、さっきよりもいっそう驚いた顔になった。
驚いているのは私のほうだ。男の人をお茶に誘ったのなんて、初めてだ。しかもカビが生えたような常套句。
ほかに気の利いた台詞を思いつかなかったのか、私。
「俺はいいけど……いいの?」
「大丈夫。時間、まだあるから」
書店を出て、同じ通りにある小さなコーヒーショップに入った。
誘ったのはいいけど、緊張する。市之瀬くんとふたりきりでいるときも緊張するけれど、それとはまた違う緊張だった。胸の奥がごろごろするような。
ケーキが並ぶショーケースをじっと見ていると、富坂くんが「おいしそうだね」と興味を示したので、飲み物と一緒にケーキも頼むことにした。私以上に真剣な顔でケーキを選んでいる富坂くんは、ちょっとかわいかった。
甘いケーキのおかげで、少し緊張が解けた。美術館や博物館などのミュージアムを検索できるサイトと、おすすめの美術館をいくつか伝える。
「加島さんは、市之瀬と出かける予定あるの?」
あっという間にケーキを食べ終えて、富坂くんは私に聞いた。
「ううん。最近忙しくて、あんまり会ってなくて」
どうしてか嘘をついてしまった。二日前に会ったばかりなのに。
「あ、でもね、明日は会うことになってるんだ」
つい早口になる。なんだか言い訳みたいに聞こえたかな。でも、会う約束をしていることは本当だ。
会議室で気まずいやりとりをしてしまった日の夜、市之瀬くんから電話があった。会社の人にコンサートのチケットをもらったんだけど、一緒に行かないかって。
聞けば、海外のオーケストラの来日コンサートで、公演は日曜だった。海外オケのコンサートなんて、そうそう行けるものじゃない。日曜は家でデザインの案を考えるつもりだったから、予定は入っていなかった。私は「行く」と即答した。
電話を切った後、浮かれた頭が冷静をとりもどすと、またもや不安が胸を覆った。
オケのコンサートなんて、市之瀬くんは興味ないんじゃないだろうか。
なんだか、いつも私ばかり喜んでいる気がする。
だけど、市之瀬くんが喜ぶことって……なんだろう。
全然、思い浮かばない。
「市之瀬くんは……住友さんと付き合ってるとき、どうだったのかなあ」
自分の口から出た言葉を聞いて、私は耳を疑った。
「住友さんって……どうして?」
富坂くんは意味がわからないという顔をしている。そりゃそうだ。突然前触れもなくそんな昔のことを持ち出されたら、戸惑うに決まっている。私だってびっくりしている。
「何かあったの? 市之瀬と」
私はとっさに顔を上げて、首を横に振る。
「ごめん、今の忘れて。ただなんとなく気になっただけだから」
気まずくて目を合わせられない。本当に、どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。信じられない。住友さんのことは、ここしばらく思い出していないのに。
「俺、クラス違ったし、よくは知らないんだけど」
うつむいて沈黙する私を気遣うように、富坂くんは穏やかな声で告げた。
「付き合ってたって言ってもたった三か月だし、ふたりとも中二だったからなあ。遊びの延長みたいな感じだったんじゃないの。市之瀬はあんなやつだから、付き合ってるときも顔には出なかったし、住友と一緒にいてもいつもどおりというか、特に変わった感じはしなかったよ」
視線をもどすと、富坂くんは困ったような顔をしていた。
「……そっか」
私はなんとか笑みを作った。ぎこちない笑顔になってしまったけれど。
富坂くんは、すぐにやわらかい笑顔を返してきた。思い出し笑いのような。
「でもさ、加島さんだけなんだよ」
「え?」
「海の底に手が届いた人」
なんのことだかさっぱりわからず、私はぽかんとしてしまう。手が長いっていう意味? 違うよね。
「だから期待してるし、喜んでるんだ。俺も、健吾も」
「え? あの……意味が」
「市之瀬のことよろしく」
私はわけがわからないまま、頼りない声で「はい」と答えた。




