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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
番外編 sweet, or not sweet
78/88

 新幹線は、午後六時に東京に到着する予定だった。

 俺の隣の窓際の席で、スーツを着た中年の男が、鼻息をたてて眠りこんでいた。

 通路を挟んだ席では、小学校低学年くらいの男の子が、『あなたの知らない深海の生物』というカラー図鑑を熱心に見ている。

 俺はタブレット端末をいじりながら、うとうとしていた。

 うとうとしながら、昔のことを思い出していた。



 * * *



 それは真夏のような陽射しの照りつける、五月の暑い日で。


「なあ。なんで俺がピッチャーなんだ?」


 最初のきっかけがなんだったのかは、もう覚えていない。


「見てろよ、おまえら全員三振食らわせてやる!」

「ほざけ。なあにが三振だ。こっちは四人も野球部員が揃ってるんだぞ」

「全員補欠じゃねえか。偉そうに言うな」

「そっちだって補欠だろうが!」


 気がついたら喧嘩腰で、互いに譲らない言い争いになっていた。


「だから、なんで俺がピッチャーなんだよ?」


 ただし、ひとりを除いて。


「ようし、そんなら賭けるか?」

「何を賭ける?」

「もし俺たちがおまえら全員から三振奪ったら、焼きそばパン十個」

「ははっ。無理に決まってんだろ、そんなの」

「賭けるのか賭けねえのか、どっちなんだよ」

「なあ、おい。なんで俺がピッチャーやることになってんだよ」


 俺たちのクラスのメンバーと張り合っていた健吾が、ぐるりと首を回して怒鳴った。


「うるせえ、おまえは黙ってろ!」


 健吾の後ろには、その場にいた誰よりも背の低い、市之瀬郁が立っていた。市之瀬は冷めた顔つきのまま、「あ、そ。じゃあ、俺出ないから」と素っ気なく言った。

 そのまま、俺たちに背を向けてベンチに下がろうとする。


「ちょっと待て……待ってください! 郁クン! 郁サマ!」


 健吾が慌てて追いかけていき、必死に説得している。

 その様子を、俺たちは呆れ顔で眺めていた。

 有村健吾と市之瀬郁。

 校内で彼らのことを知らない生徒は、たぶんいない。

 ちょうど一年前の球技大会。

 バスケットボールの試合で見せた彼らふたりの抜群のコンビネーションは、身長差三十センチのちぐはぐな見た目とともに、全校生徒の記憶に鮮やかに刻まれることになった。

 以来、水泳大会、体育祭、マラソン大会と、この一年間、彼らは期待に違わず怒濤の活躍を見せ、顔は知らなくとも名前だけは知っている、名前は知らなくとも“凸凹コンビ”というコンビ名だけは知っているという、校内一の有名コンビになった。


 そして、めぐりめぐって季節はふたたび五月。

 快晴の空のもと、雛条第一中学のグラウンドでは、球技大会が行われている。

 俺たちに与えられた競技種目は、野球。

 これから、一回戦が始まろうとしている。

 俺のクラスには、野球部員が俺のほかに三人いる。レギュラーではないが、全員レギュラー候補だ。対して、健吾のクラスにいる野球部員は、健吾だけ。


「市之瀬って、野球できんの?」


 誰かがぼそぼそと言った。

 たしかに、市之瀬が野球をしているところを見たことがなかった。

 俺と健吾は同じ野球部で、市之瀬のことも、健吾から何かにつけ聞かされている。並外れた運動神経を持つ男。

 だが、野球については聞いたことがない。

 どうやら説得が成功したらしく、健吾が市之瀬を連れてもどってきた。


「さっきの続き。どうする? 賭けるか?」


 健吾のふてぶてしい態度が気になったが、俺は頷いた。


「じゃあ、俺たちが全員ヒットを打ったら、メロンパン十個な」


 勢いよく頷きかけた首を、健吾が一瞬止めて横に傾げる。


「いいけど……なんでメロンパンなんだ?」

「俺はメロンパンが好きなんだよ」

「女子か」

「ほっとけ」


 結局、俺以外のメンバーは全員焼きそばパンということで話がついた。

 試合は白熱した。

 一対一のまま、最終回に突入した。

 市之瀬の投げる球は思ったよりも速かった。コントロールも悪くない。そして常に無表情。完璧なほど、顔色を変えない。

 欠点といえば、試合慣れしていないことくらいで、その唯一の弱点も、健吾の存在が帳消しにしていた。いつになく冴えたリードで、健吾は巧みに打者の予想の裏をかいた。

 初回からひとり、またひとりと三振に倒れ、最終回を迎えた時には、俺以外の打者は全員市之瀬と健吾のバッテリーに三振を奪われていた。


「マジかよ」


 素人に三振なんか取れるはずがないと、高をくくっていた俺たち野球部メンバーは、青くなった。

 だが同時に、俺以外の打者は、全員ヒットを打ってもいる。

 賭けは、現時点において五分五分だ。

 最終回。

 さすがに疲れたのか、それまでほぼ完璧だった市之瀬のコントロールが急に乱れた。

 三者連続フォアボール。三番打者が外野フライに打ち取られ、一死満塁。四番の俺に回った。

 試合の勝敗はもとより、賭けの行方も、俺のバットにかかっている。


 俺はバッターボックスに入り、注意深くピッチャーを観察した。

 呼吸を合わせる。

 相手が肩で息をしているのがわかる。

 明らかにスタミナ切れだ。

 市之瀬は、試合開始からほとんど表情が変わらない。

 何を考えているのか、まったく読めない。

 やつは深海魚みたいだと思う。

 常に深い海の底にいて、俺たちが住む場所には上がってこようとしない。閉ざされた闇で来る者を阻み、心を隠して誰にも見せようとしない。

 だったら、こっちの心も読ませないまでだ。


 バッターボックスに入る前に、味方にはスクイズのサインを送っていた。

 一か八かの勝負。

 セットポジションから、市之瀬が第一球を投げた。

 直後、俺は体を屈めてバットを寝かせる。

 だが、ボールはストライクコースを大きく外れ、一塁側にそれていく。俺は懸命に腕を伸ばし、全身でボールを追った。

 追いつかない。

 バットが空を切る。

 背後で屈んでいたはずの健吾が、いつのまにか立ち上がって、そのボールを捕球していた。

 市之瀬がマウンド上でしゃがみこむ。健吾がセカンドに向かって投げる。


「アウト!」


 健吾からの送球を受け取った二塁手は、さらに動きを止めず、そのままホームに返してきた。三塁ランナーが突っ込んでくる。

 二塁手の投げたボールはまっすぐに飛んできた。健吾が腰を引いてその球を受け取ると、すばやくランナーにタッチする。

 球審を仰いだ。


「アウト!」


 よっしゃ、と健吾がマスクの中から叫んだ。

 空振りしたバットを手にしたまま、俺は茫然とその場に立ちつくす。

 結局、試合はその裏の攻撃で健吾が豪快なホームランを放ち、俺たちのクラスはサヨナラ負けを喫した。


「焼きそばパン十個。約束だからな」


 グラウンドを離れる間際、健吾が満面の笑顔で念を押した。


「スクイズだって、なんでわかったんだ?」


 俺は健吾と、健吾の隣にいた市之瀬に聞いた。


「どうやって伝えた? サインを送ったようにも見えなかったけど」


 完全に、見破られていた。

 この急ごしらえのバッテリーは、あの最終回の満塁のピンチで、俺たちの作戦をまんまと見破り、バントを外したのだ。


「さあ……なんとなく」


 市之瀬がたいして考えもせず、いつもの無表情で答える。


「俺も、なんとなく」


 健吾もまた、なんの違和感もなさそうな、とぼけた顔で言う。

 なんなんだ。

 なんなんだ、こいつら。

 変な電波でも出し合ってんのか!?


「俺も聞きたいんだけど」


 健吾が思い出したように首をひねった。


「なんでみんなコイツのまっすぐが打てねえわけ? たいしたことねえのに」


 脳天気な健吾の顔を見て、俺は呆れた。溜息をつく。


「気づいてないのか。伸びるんだよ、手もとで」

「へえ」

「だから、バッターには実際の球速以上に早く見えるんだ。こういう球って、捕るのけっこうしんどいはずなんだけどな。おまえ、なんとも思わなかったのか?」

「全然」


 気の抜けた返事を残して、健吾は先に歩いていってしまった市之瀬を後を追った。

 負けたことが当然のように思え、悔しさがどこかへ飛んでいってしまった。

 あのふたりには適わない。

 敵に回したら勝てる気がしない。

 だが、味方になったら──。

 最強、かもしれない。


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