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新幹線は、午後六時に東京に到着する予定だった。
俺の隣の窓際の席で、スーツを着た中年の男が、鼻息をたてて眠りこんでいた。
通路を挟んだ席では、小学校低学年くらいの男の子が、『あなたの知らない深海の生物』というカラー図鑑を熱心に見ている。
俺はタブレット端末をいじりながら、うとうとしていた。
うとうとしながら、昔のことを思い出していた。
* * *
それは真夏のような陽射しの照りつける、五月の暑い日で。
「なあ。なんで俺がピッチャーなんだ?」
最初のきっかけがなんだったのかは、もう覚えていない。
「見てろよ、おまえら全員三振食らわせてやる!」
「ほざけ。なあにが三振だ。こっちは四人も野球部員が揃ってるんだぞ」
「全員補欠じゃねえか。偉そうに言うな」
「そっちだって補欠だろうが!」
気がついたら喧嘩腰で、互いに譲らない言い争いになっていた。
「だから、なんで俺がピッチャーなんだよ?」
ただし、ひとりを除いて。
「ようし、そんなら賭けるか?」
「何を賭ける?」
「もし俺たちがおまえら全員から三振奪ったら、焼きそばパン十個」
「ははっ。無理に決まってんだろ、そんなの」
「賭けるのか賭けねえのか、どっちなんだよ」
「なあ、おい。なんで俺がピッチャーやることになってんだよ」
俺たちのクラスのメンバーと張り合っていた健吾が、ぐるりと首を回して怒鳴った。
「うるせえ、おまえは黙ってろ!」
健吾の後ろには、その場にいた誰よりも背の低い、市之瀬郁が立っていた。市之瀬は冷めた顔つきのまま、「あ、そ。じゃあ、俺出ないから」と素っ気なく言った。
そのまま、俺たちに背を向けてベンチに下がろうとする。
「ちょっと待て……待ってください! 郁クン! 郁サマ!」
健吾が慌てて追いかけていき、必死に説得している。
その様子を、俺たちは呆れ顔で眺めていた。
有村健吾と市之瀬郁。
校内で彼らのことを知らない生徒は、たぶんいない。
ちょうど一年前の球技大会。
バスケットボールの試合で見せた彼らふたりの抜群のコンビネーションは、身長差三十センチのちぐはぐな見た目とともに、全校生徒の記憶に鮮やかに刻まれることになった。
以来、水泳大会、体育祭、マラソン大会と、この一年間、彼らは期待に違わず怒濤の活躍を見せ、顔は知らなくとも名前だけは知っている、名前は知らなくとも“凸凹コンビ”というコンビ名だけは知っているという、校内一の有名コンビになった。
そして、めぐりめぐって季節はふたたび五月。
快晴の空のもと、雛条第一中学のグラウンドでは、球技大会が行われている。
俺たちに与えられた競技種目は、野球。
これから、一回戦が始まろうとしている。
俺のクラスには、野球部員が俺のほかに三人いる。レギュラーではないが、全員レギュラー候補だ。対して、健吾のクラスにいる野球部員は、健吾だけ。
「市之瀬って、野球できんの?」
誰かがぼそぼそと言った。
たしかに、市之瀬が野球をしているところを見たことがなかった。
俺と健吾は同じ野球部で、市之瀬のことも、健吾から何かにつけ聞かされている。並外れた運動神経を持つ男。
だが、野球については聞いたことがない。
どうやら説得が成功したらしく、健吾が市之瀬を連れてもどってきた。
「さっきの続き。どうする? 賭けるか?」
健吾のふてぶてしい態度が気になったが、俺は頷いた。
「じゃあ、俺たちが全員ヒットを打ったら、メロンパン十個な」
勢いよく頷きかけた首を、健吾が一瞬止めて横に傾げる。
「いいけど……なんでメロンパンなんだ?」
「俺はメロンパンが好きなんだよ」
「女子か」
「ほっとけ」
結局、俺以外のメンバーは全員焼きそばパンということで話がついた。
試合は白熱した。
一対一のまま、最終回に突入した。
市之瀬の投げる球は思ったよりも速かった。コントロールも悪くない。そして常に無表情。完璧なほど、顔色を変えない。
欠点といえば、試合慣れしていないことくらいで、その唯一の弱点も、健吾の存在が帳消しにしていた。いつになく冴えたリードで、健吾は巧みに打者の予想の裏をかいた。
初回からひとり、またひとりと三振に倒れ、最終回を迎えた時には、俺以外の打者は全員市之瀬と健吾のバッテリーに三振を奪われていた。
「マジかよ」
素人に三振なんか取れるはずがないと、高をくくっていた俺たち野球部メンバーは、青くなった。
だが同時に、俺以外の打者は、全員ヒットを打ってもいる。
賭けは、現時点において五分五分だ。
最終回。
さすがに疲れたのか、それまでほぼ完璧だった市之瀬のコントロールが急に乱れた。
三者連続フォアボール。三番打者が外野フライに打ち取られ、一死満塁。四番の俺に回った。
試合の勝敗はもとより、賭けの行方も、俺のバットにかかっている。
俺はバッターボックスに入り、注意深くピッチャーを観察した。
呼吸を合わせる。
相手が肩で息をしているのがわかる。
明らかにスタミナ切れだ。
市之瀬は、試合開始からほとんど表情が変わらない。
何を考えているのか、まったく読めない。
やつは深海魚みたいだと思う。
常に深い海の底にいて、俺たちが住む場所には上がってこようとしない。閉ざされた闇で来る者を阻み、心を隠して誰にも見せようとしない。
だったら、こっちの心も読ませないまでだ。
バッターボックスに入る前に、味方にはスクイズのサインを送っていた。
一か八かの勝負。
セットポジションから、市之瀬が第一球を投げた。
直後、俺は体を屈めてバットを寝かせる。
だが、ボールはストライクコースを大きく外れ、一塁側にそれていく。俺は懸命に腕を伸ばし、全身でボールを追った。
追いつかない。
バットが空を切る。
背後で屈んでいたはずの健吾が、いつのまにか立ち上がって、そのボールを捕球していた。
市之瀬がマウンド上でしゃがみこむ。健吾がセカンドに向かって投げる。
「アウト!」
健吾からの送球を受け取った二塁手は、さらに動きを止めず、そのままホームに返してきた。三塁ランナーが突っ込んでくる。
二塁手の投げたボールはまっすぐに飛んできた。健吾が腰を引いてその球を受け取ると、すばやくランナーにタッチする。
球審を仰いだ。
「アウト!」
よっしゃ、と健吾がマスクの中から叫んだ。
空振りしたバットを手にしたまま、俺は茫然とその場に立ちつくす。
結局、試合はその裏の攻撃で健吾が豪快なホームランを放ち、俺たちのクラスはサヨナラ負けを喫した。
「焼きそばパン十個。約束だからな」
グラウンドを離れる間際、健吾が満面の笑顔で念を押した。
「スクイズだって、なんでわかったんだ?」
俺は健吾と、健吾の隣にいた市之瀬に聞いた。
「どうやって伝えた? サインを送ったようにも見えなかったけど」
完全に、見破られていた。
この急ごしらえのバッテリーは、あの最終回の満塁のピンチで、俺たちの作戦をまんまと見破り、バントを外したのだ。
「さあ……なんとなく」
市之瀬がたいして考えもせず、いつもの無表情で答える。
「俺も、なんとなく」
健吾もまた、なんの違和感もなさそうな、とぼけた顔で言う。
なんなんだ。
なんなんだ、こいつら。
変な電波でも出し合ってんのか!?
「俺も聞きたいんだけど」
健吾が思い出したように首をひねった。
「なんでみんなコイツのまっすぐが打てねえわけ? たいしたことねえのに」
脳天気な健吾の顔を見て、俺は呆れた。溜息をつく。
「気づいてないのか。伸びるんだよ、手もとで」
「へえ」
「だから、バッターには実際の球速以上に早く見えるんだ。こういう球って、捕るのけっこうしんどいはずなんだけどな。おまえ、なんとも思わなかったのか?」
「全然」
気の抜けた返事を残して、健吾は先に歩いていってしまった市之瀬を後を追った。
負けたことが当然のように思え、悔しさがどこかへ飛んでいってしまった。
あのふたりには適わない。
敵に回したら勝てる気がしない。
だが、味方になったら──。
最強、かもしれない。




