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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
番外編 sweet, or not sweet
77/88

 その店に入るのは、三か月ぶりだった。

 祥子と待ち合わせをするときに、いつも使っている駅ナカのカフェだ。

 ガラス張りになっていて、外からも店内の様子が見通せるようになっている。昼食の時間にはまだ早く、客はまばらだった。

 いつもと同じ店の奥の席に、祥子は紺色のセーターを着て座り、文庫本を読んでいた。

 待ち合わせの時間よりも早く来るのは、几帳面な祥子にとっては当たり前のことで、いつも俺のほうが遅れた。今日もまた。


「久しぶり」


 文庫本から顔を上げ、いつもと変わらない口調で祥子は言った。表情が少しぎこちなかった。

 こちらも、どんな顔をすればいいかわからない。ごまかすように、コートを脱いでイスの背に掛けた。


 店員が、メニューを持ってきた。

 祥子は俺が来るまで注文を待っていたらしく、メニューを見ながら「この伊予柑のタルト、おいしそうじゃない? 期間限定だって」と言った。

 伊予柑のタルトをふたつ、それに祥子はストレートティーを、俺はコーヒーを頼んだ。

 待っている時間がもどかしかった。

 何を話せばいいのかわからず、お互いに話題を探っている。そういう状態が、妙に気まずかった。祥子はガラスの向こうの通りを行き交う人々に目を向けている。

 もう何も話すことはないのだ、と俺は開き直った。


「俺、春から東京の本社に転勤になった」


 思い切って打ち明けると、祥子は一瞬だけ視線を俺の顔に移し、それからまたガラスの向こうの通りに目を向けた。


「そうなんだ」

「うん」


 店員が、飲み物とタルトを運んできた。

 祥子は砂糖を入れた紅茶をスプーンでかき混ぜながら、「そうなんだ」ともう一度繰り返した。

 俺は、目を合わせようとしない祥子の顔を見ていた。

 特別に美人、というわけではない。

 目も鼻も口も小ぶりで全体的にこれといった特徴がなく、良く言えばすっきりとした、悪く言えば個性のない顔立ちだった。

 顎の上あたりで切り揃えられた短い髪や、飾り気のない地味なセーターも、個性のなさを目立たせている気がする。


 性格も穏やかだった。陰気というわけではない。ただ、声を強くして他人に反発したり、自己主張したりする場面を、ほとんど見たことがなかった。

 そういうところを、好きになった。

 たぶん、お互いに。

 ふたりの付き合いも、ずっと穏やかだった。

 これまでに一度も喧嘩をしたことがないというわけではないが、祥子と一緒にいて、この女の考えていることがわからないとか、この女には自分を理解してもらえないとか、そういう苛立ちを感じることはあまりなかったと思う。

 男と女のことだから、多少のすれ違いはあったけれど、少なくともそれが理由で「別れたい」と思ったことはなかった。


 不満と言えるものは、ひとつも思い浮かばない。

 なんとなく気が合って、なんとなく付き合っているうちに、五年が経っていた。メラメラと恋の炎が燃え上がることも、別れの危機が訪れることもないまま、なんとなく時間が過ぎた。

 平凡だった。

 あまりにも普通で、何もない。

 別に、ドラマのような恋愛を望んでいるわけではない。

 そうではないが、不安になった。


 本当に、俺は祥子のことが好きなのか。

 祥子は、本当に俺のことが好きなのか。

 人を好きになるということは、もっと、ひりひりした感覚を伴うものなんじゃないか。嫉妬したり、傷ついたり、激しく求め合ったりするものなんじゃないか。

 そういう気持ちが、ここ数か月、胸にわだかまっている。

 このまま付き合い続けていても、ずっとこのままなんじゃないか、という気がする。


「今日、これから出張なんだ」


 俺がコーヒーを飲み干し、タルトを食べ終えても、祥子の皿のタルトは半分も減っておらず、紅茶もなみなみと残っていた。


「いつ、帰ってくるの?」


 うつむいたまま、祥子が聞いた。


「月曜の夜」


 そう答えた俺を、祥子がじっと見る。それから弱々しい笑顔を浮かべて、言った。


「私は、もう少しゆっくりしていくから。先に出ていいよ」

「ごめん。また連絡するよ」


 席を立つ。

 祥子の細い指がフォークを握り、タルトを分ける。

 ふたりとも、もう会うことはないと、わかっている。

 これが最後になると、わかっている。

 それなのに、言葉にできないまま、互いの目を合わせることもできないまま、俺はコートを手に取り、その場から離れた。

 店を出て、しばらく歩いた後でふり返ると、祥子がぼんやりと頬杖をついて、ガラス越しにどこか遠いところを見つめている様子が見えた。


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