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その店に入るのは、三か月ぶりだった。
祥子と待ち合わせをするときに、いつも使っている駅ナカのカフェだ。
ガラス張りになっていて、外からも店内の様子が見通せるようになっている。昼食の時間にはまだ早く、客はまばらだった。
いつもと同じ店の奥の席に、祥子は紺色のセーターを着て座り、文庫本を読んでいた。
待ち合わせの時間よりも早く来るのは、几帳面な祥子にとっては当たり前のことで、いつも俺のほうが遅れた。今日もまた。
「久しぶり」
文庫本から顔を上げ、いつもと変わらない口調で祥子は言った。表情が少しぎこちなかった。
こちらも、どんな顔をすればいいかわからない。ごまかすように、コートを脱いでイスの背に掛けた。
店員が、メニューを持ってきた。
祥子は俺が来るまで注文を待っていたらしく、メニューを見ながら「この伊予柑のタルト、おいしそうじゃない? 期間限定だって」と言った。
伊予柑のタルトをふたつ、それに祥子はストレートティーを、俺はコーヒーを頼んだ。
待っている時間がもどかしかった。
何を話せばいいのかわからず、お互いに話題を探っている。そういう状態が、妙に気まずかった。祥子はガラスの向こうの通りを行き交う人々に目を向けている。
もう何も話すことはないのだ、と俺は開き直った。
「俺、春から東京の本社に転勤になった」
思い切って打ち明けると、祥子は一瞬だけ視線を俺の顔に移し、それからまたガラスの向こうの通りに目を向けた。
「そうなんだ」
「うん」
店員が、飲み物とタルトを運んできた。
祥子は砂糖を入れた紅茶をスプーンでかき混ぜながら、「そうなんだ」ともう一度繰り返した。
俺は、目を合わせようとしない祥子の顔を見ていた。
特別に美人、というわけではない。
目も鼻も口も小ぶりで全体的にこれといった特徴がなく、良く言えばすっきりとした、悪く言えば個性のない顔立ちだった。
顎の上あたりで切り揃えられた短い髪や、飾り気のない地味なセーターも、個性のなさを目立たせている気がする。
性格も穏やかだった。陰気というわけではない。ただ、声を強くして他人に反発したり、自己主張したりする場面を、ほとんど見たことがなかった。
そういうところを、好きになった。
たぶん、お互いに。
ふたりの付き合いも、ずっと穏やかだった。
これまでに一度も喧嘩をしたことがないというわけではないが、祥子と一緒にいて、この女の考えていることがわからないとか、この女には自分を理解してもらえないとか、そういう苛立ちを感じることはあまりなかったと思う。
男と女のことだから、多少のすれ違いはあったけれど、少なくともそれが理由で「別れたい」と思ったことはなかった。
不満と言えるものは、ひとつも思い浮かばない。
なんとなく気が合って、なんとなく付き合っているうちに、五年が経っていた。メラメラと恋の炎が燃え上がることも、別れの危機が訪れることもないまま、なんとなく時間が過ぎた。
平凡だった。
あまりにも普通で、何もない。
別に、ドラマのような恋愛を望んでいるわけではない。
そうではないが、不安になった。
本当に、俺は祥子のことが好きなのか。
祥子は、本当に俺のことが好きなのか。
人を好きになるということは、もっと、ひりひりした感覚を伴うものなんじゃないか。嫉妬したり、傷ついたり、激しく求め合ったりするものなんじゃないか。
そういう気持ちが、ここ数か月、胸にわだかまっている。
このまま付き合い続けていても、ずっとこのままなんじゃないか、という気がする。
「今日、これから出張なんだ」
俺がコーヒーを飲み干し、タルトを食べ終えても、祥子の皿のタルトは半分も減っておらず、紅茶もなみなみと残っていた。
「いつ、帰ってくるの?」
うつむいたまま、祥子が聞いた。
「月曜の夜」
そう答えた俺を、祥子がじっと見る。それから弱々しい笑顔を浮かべて、言った。
「私は、もう少しゆっくりしていくから。先に出ていいよ」
「ごめん。また連絡するよ」
席を立つ。
祥子の細い指がフォークを握り、タルトを分ける。
ふたりとも、もう会うことはないと、わかっている。
これが最後になると、わかっている。
それなのに、言葉にできないまま、互いの目を合わせることもできないまま、俺はコートを手に取り、その場から離れた。
店を出て、しばらく歩いた後でふり返ると、祥子がぼんやりと頬杖をついて、ガラス越しにどこか遠いところを見つめている様子が見えた。




