1
一月の終わりの土曜の夜、俺は有村健吾の家で鍋をごちそうになっていた。
「雪は降ってないみたいだよ、富坂」
カーテンの隙間から窓の外を覗いた松川亜衣が、寒そうな顔をしてテーブルにもどってきた。
天気予報を伝えるテレビのニュース番組で、今夜から明日にかけての天気が雪マークになっていたのだ。
「もし降り出したら泊まってけよ」
健吾は湯気の立つ鍋の中から、肉を選び取って自分の皿に移した。
健吾とは中学からの付き合いで、高校時代を含む六年間、同じ野球部のチームメイトだった。松川は高校時代の野球部のマネージャーだ。
だから、ふたりとはそれなりに気心が知れている。
結婚が決まって、ふたりは既に同居している。つまりこのアパートは、新居というわけだ。
彼らは同窓会の少し前、十二月の初めにこの新築アパートに移ったのだが、その際、俺は少しばかり引っ越しを手伝った。そのお礼もかねて、夕食に招待されたのだ。
「そうなったらタクシーで帰るよ。明日から出張なんだ」
俺がそう言うと、松川が「日曜なのに?」と聞く。
「月曜の朝の会議に出席することになってるから。明日の午後、こっちを出ようと思ってる」
「出張って、東京か?」
俺の正面に座る健吾が、箸を止めて顔を上げた。
「本社が東京だからな。あ、そうだ。ついでに市之瀬に会ってくるよ。同窓会で会ったばかりだけど」
健吾が皿を置いて、何事かと思うような目の輝きを見せて身を乗り出した。
「おう、会え会え! 今すぐ会ってこい! そしてあの鉄仮面の超浮かれまくった顔を拝んでこい!」
意味がわからず、俺は健吾の隣に座っている松川に顔を向けた。松川はもくもくと鍋の具を口に運びながら、「相手にしなくていいから」と冷めた口調で言う。
なんのことかさっぱりわからず、ふたたび健吾に顔をもどすと、悪戯を思いついた小学生みたいにうずうずした顔をして俺を見ている。
「市之瀬に、なんかあったのか?」
俺が聞くと、健吾はヒヒヒヒと奇妙な笑い声をたてた。楽しくてたまらない、といった感じだ。
市之瀬郁は、健吾と同じく中学高校時代の同級生だ。ちょっと変わったやつなのだが、健吾とはどういうわけか仲がいい。本人たちは否定するが。
健吾はもったいぶった挙げ句、にやにやしながら「あいつ、彼女ができたんだよ」と言った。
「へえ」
それがそんなに面白いことだろうか。
市之瀬は昔からモテるやつだったし、付き合っている女性がいるということも何度か聞いたことがある。学生時代を含め、遊んでいる噂は耳にしたことがないが、彼女ができなくて困っているという話も、聞いたことがない。
「それがさあ」と、健吾はますます面白そうに笑いをこらえる。
「その彼女っていうのがさ、あいつが十六年間も片想いしてた子なんだよ。それが、十六年目にして、やーっと成就したんだとよ」
食べるのもそっちのけで笑っている健吾を見て、俺は言葉を失くした。
松川が隣で溜息をつき、「もう。面白がるのやめなよ」と言う。
「だって面白いじゃん。これ以上面白いことがあるかよ。当分このネタであいつを苛められるかと思うと、笑いが止まんない」
「市之瀬はどうでもいいけど、紗月がかわいそうでしょ」
「もちろん、加島さんのことは苛めない」
「同じことでしょ。そっとしときなよ、あのふたりのことは。やっと想いが通じ合ったのに、あんたが余計なことして、またこじれたらどうすんのよ」
「何を言うかね。あのふたりをくっつけたのは、この俺様なのだよ?」
「あんたが何をしたって言うのよ? いいからもう余計なことしないで」
ふたりのコントじみた会話がしばらく続きそうだったので、俺は言葉を挟んだ。
「それ、本当なのか?」
何かの間違いじゃないのかと思う。
あのクールで無気力で何を考えているのかいっこうにわからない男が、片想いだと? それも十六年も?
ありえないだろ。
市之瀬は他人に対してどこか一歩引いているというか、冷めているところがあって、必要以上に親しくなろうとしない。健吾だけが例外と言ってもいい。
だから、女性にも執着しないタイプだと思っていた。
中学のとき、住友窓花に言いよられて付き合い始めたときも、市之瀬には最初からその気がなかったというか、俺の目には、住友が一方的に熱くなっているだけのように見えた。
その後、ふたりの関係はひどくこじれてしまったのだが、その間も、市之瀬の住友に向けられる感情は、恋愛というよりも友達としての配慮だったように思う。
冷めているくせに、突き放すことまではできないらしい。ある意味、女泣かせだ。
「笑えるだろ? あの鉄仮面が浮かれてるんだぞ。信じられないよな。でもホントなんだな、これが」
健吾はニコニコしながらふたたび箸を取り、鼻歌交じりに鍋の中身をつついた。市之瀬の弱点をつかんで面白がっている部分もあるのだろうが、結局のところ、嬉しいのだ。
「ほんっと、イチコンだよねー、健吾って」
松川が流し目で健吾を見て言った。健吾がぽかんとする。
「なんだよ、イチコンって」
「イチノセ・コンプレックス」
「はあ?」
「健吾って、昔から市之瀬のこと大好きじゃん」
「はあああ!? 何、気色悪いこと言ってんだよ! 俺がいつ郁を好きだと言った!?」
「見てればわかるよ、そんなの。何年付き合ってると思ってんの。紗月に肩入れしてたのだって、市之瀬のためだったんでしょ」
「違う!」
「違わないよ。あーあ、なんかちょっと妬けるな」
「おまえ、バカじゃねえの! 誤解されたらどうすんだ!」
「だってホントのことだもん。ね?」
松川の最後の「ね?」は、俺に向けられた台詞だった。突然振られて、俺はまごつく。怪しげな三角関係にも夫婦ゲンカにも巻きこまれたくはない。
「おまえたち、相変わらずだな」
そう言うと、ふたりは恥ずかしそうに黙りこんだ。
高校時代から、ずっとこの調子だ。
よく飽きないなと思う。
高校生だった頃とちっとも変わっていないふたりだが、松川のほうは、見た目がすっかり変わってしまった。
びっくりするほど美人になった。
正月に開かれた同窓会のときも、ドレスアップした松川はひときわ目立っていて、会場の男どもの視線を集めていた。
俺たちが初めて会ったときには、健吾が彼女のことを小学生の男子と間違えてしまったくらい、色気のかけらもなかったのに、高校の三年間で見事な大変身を遂げたのだった。
彼女が変身する原因を作ったのは、間違いなく目の前にいるこの男なのだが、たぶん当時も今も、この超鈍感男はそのことに気づいていない。
うらやましいやら、腹立たしいやら。
「俺さ。本社に転勤することになったんだ。春から」
いつ切り出そうかと迷っていた台詞を、俺はどさくさに紛れて口にした。えっ、とうつむいていたふたりが同時に顔を上げる。
「たぶん、しばらくこっちにはもどれないと思う」
「しばらくって?」
松川が聞いた。
「三年か……それ以上」
すると、健吾が俺の表情をうかがいながら、言いにくそうにそれを口にした。
「……彼女には、もう話したのか?」
俺は視線を落としたまま「いや、まだ」と答える。
健吾の言う彼女とは、つまり、俺が大学時代から付き合っている同じ年の彼女、本条祥子のことだ。
大学二年のとき数合わせで参加させられた合コンで知り合って、なんとなく気が合い、なんとなく付き合い始めて、現在に至っている。
けれど、最近はなんとなく疎遠になり、もうかれこれ三か月近く会っていない。最後にメールを送ったのも、二か月も前だ。
何がどうという理由はなかった。たぶん、お互いに、相手に連絡する理由を思いつかないだけだ。だがそれこそが、きっと男女が別れる理由なんだろう。
「連絡したほうがいいんじゃないのか?」
健吾が心配顔で促す。
正直、俺はもう連絡しなくてもいいのではないか、と思っていた。だけど健吾に言われて、急に気が咎めた。
「そうだな。近いうちに連絡してみるよ」
ふたりに見送られてアパートを出たのは、九時過ぎだった。外は身を切るような寒さだったが、雪は降り出していなかった。コートの襟を立て、駅に向かって歩く。
歩きながら、携帯電話で祥子にメールを送った。
メールには、話があるから近いうちに会いたい、と単刀直入に書いた。
返信が、すぐにあった。
明日なら空いている、という。
別の日にしてもらえないかと返信しようとして、思い直した。東京へ行く前に話してしまったほうが、すっきりするかもしれない。明日の午前中に会う約束をして、家に帰った。




