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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
番外編 君が奏でる音
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 * * *



 月曜日、私はいつもの時間よりも早く店に入った。

 バイトをやめることを、マスターに話すつもりだった。


「あれ、今日は早いね」


 厨房の裏の休憩室にいる私を見て、マスターが言った。「あの」と私が切り出すのと同時に、マスターが「長谷川くんにチケットもらった?」と聞いてきた。


「あ……はい」

「そう。それはよかった。彼、ずっと渡そうとしてて、渡せなかったんだよね。住友さんに」


 私は黙りこんでしまう。マスターまで、どうしてそんなにうれしそうに言うんだろう。そんな話、私は聞きたくない。


「住友さん、本当は嫌いなんじゃない? クラシック」


 私は思わず顔を上げた。マスターは人のよさそうな笑みを浮かべて、「やっぱりねえ」と言った。


「今時の若い子だもんなあ。しょうがないよ」

「じゃあ、どうして採用したんですか?」


 つい言い返すような強い口調になってしまった。マスターはのんびりと顎を撫でながら、「そうだなあ」と天井を仰ぐ。


「お母さんのことを、ちゃんと『母』って言うところ、とか」

「……はい?」

「今時の若い子なのに、しっかりしてるなあと思って。うちの常連さん、知ってのとおり年齢層高いし、クラシックマニアの人が多いからさ。たぶん、礼儀正しい子は好きだと思うんだよね」


 そんなの。

 そんなことくらい、あたりまえじゃないですか。

 そう言おうとしたら、マスターが先に言った。


「あたりまえかもしれないけど、そういう小さなことのひとつひとつが、重なったり繋がったりして人を作ってるんだと思うんだよね。音楽と同じ。ひとつひとつの音は他愛ないけれど、たくさん集まれば音楽になる。聞こえないほど小さな音も、ど派手に目立つ音も。嫌いな音も、好きな音も」


 マスターは照れくさそうに笑って、自分の頭を撫でた。


「まあ、バラバラの音をきれいな調和のとれた音楽にするってのが、これまた大変なんだけど……だから面白いんだよね。音楽も、人間も」


 そして、さっさと厨房にもどろうとして、ふと思い出したようにふり返る。


「コンサート、行ってみたら。意外と、気に入るかもしれないよ」




 あまり気乗りがしなかったけれど、お母さんがどうしても行きたいというので、長谷川くんのオケのコンサートに行くことにした。


 会場は、長谷川くんが通う音大のキャンパスの中にある音楽ホールだった。予想していたより立派なホールで、開演直前には席もほぼ埋まっていた。長谷川くんにもらったチケットは、ちょうど会場の真ん中あたりの席だった。


 長谷川くんとは、あれからも普通に接している。長谷川くんは、初めのうちは私を避けているようだったけれど、そのうちだんだんと話しかけてくれるようになった。すごくぎこちなかったけれど。


 今でも、まったく意識しないというのは無理だけれど、それでも以前のように、ただのバイト仲間として話せている、と思う。おかげで、バイトを辞めずにすんだ。やっぱり二つ年上なだけあって、長谷川くんは大人だ。感謝している。


 開演を知らせるブザーが鳴って、会場が暗くなった。

 楽器を手にした演奏者が、舞台の上手と下手から入ってくる。


 長谷川くんの姿も見えた。

 トランペットやトロンボーンなどの金管楽器が並ぶ列の前、クラリネット奏者の隣の席に腰かける。座ると顔は見えなくなってしまったけれど、彼の深紅色の楽器はどこにいても見える。


 プログラムは二曲編成だった。一曲目は、同じチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番。冒頭は聞き覚えのある、壮大なピアノのメロディーで始まる。

 休憩を挟んでの二曲目が、マスターと長谷川くんが話していた交響曲第六番、『悲愴』だった。


 指揮者が指揮台の上に立つと、ホールの中の音が一点に吸いこまれるように、静まりかえった。

 静寂の彼方からかすかに聞こえてくる、地を這うような響き。

 ファゴットの音だ。


 その暗く幽深な音は、ふいに、私を不安な場所へ連れていこうとした。

 行きたくないと思うのに、抗えない。私は私の心の奥のいちばん深いところに、落ちていく。音とともに沈んでいく。静かに、ゆっくりと。どこまでも。


 重なりあう音の波に包まれる。胸が締めつけられた。苦しい。とても苦しくて、逃げ出したくなる。

 どこで間違えたんだろう。

 気づいたときには、市之瀬くんはもう手の届かないところにいた。


 美術室で彼女の絵を見たとき、初めから私の居場所はなかったんだと知った。彼女は見た目とは違う。私とは違う。本当は強い人だった。

 私は、彼女と並んで立つことはできない。そう思った。


 遠ざかる光にめまいを覚える。

 好きな人のそばにいたかった。

 ただそれだけだったのに。

 どうして間違えたんだろう。


 私は、市之瀬くんを繋ぎ止めるために、大嫌いな自分の体を利用しようとした。

 いちばん大切な人の心から、目をそらした。

 心を無視されることが、どんなにつらくて悲しいことか、わかっていたはずなのに。あんなに、わかってほしいって、何度も何度も、思ったのに。


 自分のことさえ、見えなくなっていた。

 私は、市之瀬くんのことも、自分自身のことも、何も、見ようとしなかった。

 私が本当に後悔しなくちゃいけないのは、市之瀬くんに関係を迫ったことでも、「二度と会わない」と言ったことでもない。

 市之瀬くんの気持ちを、裏切ってしまったことだ。


 喉の奥が震える。

 嗚咽がこみあげてきそうになって、歯を食いしばった。

 二度と会わないなんて、私に、そんなことを言う権利はなかった。会ってはいけないんだ。私はもう二度と市之瀬くんに会ってはいけない。


 遠ざかっていた音の波が、ふたたび私をとらえた。波はゆるやかにすべてを包みこみ、清寂に沈むように、ひとつずつ途切れて、小さくなっていく。

 このまま、音とともに消えてしまえたらいいのに、と思った。




 ホールを出ると、穏やかな夕暮れの空が広がっていた。


「素人だけど、気持ちの入った演奏だったわね」


 お母さんが満足げに言うのを上の空で聞きながら、私は「うん」とだけ答えた。すると、彼女が私の顔をのぞきこみ、「あらら? クラシックのことはよくわからないんじゃなかった?」とからかい気味に言った。


「わかったなんて言ってないでしょ」


 私が反論すると、お母さんはますます意地悪そうな顔になり、「ごまかしてもダメよ。泣いてたでしょう」なんて言う。

 私は悔しさのあまり押し黙る。そのとき、誰かが後ろからぽんぽん、と私の肩を叩いた。

 ふり向くと、『ラルゴ』の常連の今泉さんだった。隣には奥さんらしい人がいて、杖をついた今泉さんの腕をささえるようによりそっている。


「こんにちは。住友さんも来てたんだね」


 私は「はい」と答えて、今泉さんと奥さんにお辞儀をした。内心、驚いていた。


「マスターも来てたんだけどね。店を閉めてきたからって、大急ぎで帰っていったよ」

「今ごろ大忙しなんじゃないかしら」


 今泉さんと奥さんが顔を見合わせて笑った。確かに、コンサート帰りの客が押しかけているかもしれない。

 お母さんが肘で私の脇腹を突いてきたので、慌てて「バイト先の常連さん」と小声でささやく。


「娘がいつもお世話になっております。世間知らずな子ですから、何か失礼なことをしたら遠慮なく叱ってやってください」

「いえいえ、まったく」

「こちらこそ、主人がお世話になって」


 お母さんと今泉さん夫婦は大人の挨拶をかわして、すぐにうちとけてしまった。


「いい演奏でしたわねえ」

「本当に。『悲愴』には、感動してしまいました」


 私は所在なく、今泉さんの奥さんと話しているお母さんの隣に立っていた。

 すると、会話を聞いていた今泉さんが「うーん」とうなった。


「弦はまあまあなんだけど。管楽器がどうも、下手クソなんだよなあ」

「でも、ファゴットはいい音を出していましたよ」


 ちょっと、お母さん!!

 私は叫びそうになった。バイト先の人にチケットをもらったと話しただけで、お母さんには長谷川くんのことは何も話していない。

 これ以上よけいなことを言いませんようにと、私はハラハラしながら祈る。

 だけど、今泉さんは顔をほころばせて、「そうですね」とうれしそうに笑った。


「彼は、一年前より格段にうまくなったと思います。いったい、いつ練習しているんだか」


 隣で奥さんがにこやかにうなずいている。


「久しぶりに聞けて、本当によかった」


 今泉さんのひとり言のような台詞を、お母さんが首を傾げて不思議そうに聞いている。


「住友さん」


 急に名前を呼ばれて、私ははっとする。今泉さんとは、まだ二回しか『ラルゴ』で会っていない。それなのに、名前を覚えていてくれた。


「長谷川くんに、お礼を言っておいてよ。このまえ薦めてもらったCD、すごくよかったって」

「あ……はい」


 私とお母さんに丁寧にお辞儀をして、今泉さんはゆっくりと足の向きを変えた。隣で今泉さんの歩行を助けている奥さんが、最後にもう一度ふり返って、やわらかいほほえみを浮かべて頭を下げる。


 少し丸まったふたりの背中が、楽しそうに揺れながら遠ざかっていった。ふたりはゆるやかなペースで歩きながら、時おり笑顔を交わして、何か話している。

 もしかしたら、退院してから初めてのコンサートだったのかもしれない。




 コンサートに行った次の週、学校の帰りにCDショップに寄った。

 長谷川くんが今泉さんに薦めていた『TWO HANDS』というタイトルのCDを買うためだ。家に帰って、すぐにプレイヤーにセットする。


 ジャケット写真には、皺だらけの老いた両手が写っている。骨張った指をきちんとそろえて、大切そうに重ねて置かれた両手。右手はピアノに添えられていた。


 演奏しているピアニストは、レオン・フライシャーという。

 私は知らなかったけれど、一九五〇年代から六〇年代に活躍していた人らしい。コンサートから帰った夜、ネットで調べた。


 彼は絶頂期だった三十代後半のとき、難病を患って右手の自由を失い、第一線から退いていた。その後は指揮者や左手だけの演奏で音楽活動を行いながら、右手のリハビリを続けた。

 このアルバムは、彼の右手が回復し、四十年ぶりに両手による演奏を録音したものだ。


 彼が辿った四十年という月日は、新しい未来につながっていたとしか思えない。

 こんな音を、人の手が生み出すのなら。

 大切に祈るように奏でられる音に、長谷川くんの思いが重なって聞こえた。




 土曜日の朝、『ラルゴ』に行くと長谷川くんがいた。


「おはようございます」


 私が声をかけると、長谷川くんはふり向いて「おはようございます」と、いつもの涼しい声で挨拶をする。

 その日も『ラルゴ』はいつも通りだった。ぽつりぽつりと常連さんがやってきて、音楽を聴いたり、長谷川くんと語り合ったりして、満足そうな顔をして帰っていく。


 今までの私は、市之瀬くんさえいれば、ほかの人なんてどうでもいいと思っていた。この世界に存在しているのが、どうして私と市之瀬くんのふたりだけじゃないんだろうって、本気で思ったこともある。

 恥ずかしい。


「コンサート、どうだった?」


 ひととき、お客さんが誰もいなくなったとき、見計らったように長谷川くんが聞いた。

 私は、先週コンサートに行ったことを、彼に話していなかった。いくらなんでも、あのステージの上から客席にいた私のことが見えていたはずはない。

 私が問い詰めるように見ると、長谷川くんは落ち着かない様子になった。


「その、今泉さんから聞いて。住友さんに会ったって……」


 今泉さん、いつのまに。

 私はしかたなく、「よかったって言ってましたよ、母が」と答えた。長谷川くんは不服そうな顔をして、「住友さんは?」と聞く。


「泣きました」


 長谷川くんは一瞬目を丸くして、すぐに冗談だと思ったらしく、笑おうとした。


「本当です」


 私は目をそらさずに、長谷川くんの表情が変わるのを見た。

 最初は半信半疑。でも私が本気だとわかると、複雑に揺れた。困っているような、恥ずかしそうな、でもうれしそうな、そんな顔だった。

 マスターは買い物に行くと言って出ていったまま、なかなか帰ってこない。また、お隣さんにつかまって、引き留められているのだろうか。


 店内には、シューマンの「トロイメライ」が流れている。

 優しく穏やかなメロディのピアノ曲。“トロイメライ”は、ドイツ語で“夢”という意味だ。まだ無名の作曲家だったシューマンが、ただひとりの理解者だった婚約者のクララに贈った曲。


「でも、好きかどうかはわからないです」


 私は正直に言った。


「だってあんな暗い曲、毎日聞いてたら落ちこみそう。演奏してる人は、そんなこと思わないんですか?」


 長谷川くんはぽかんとして、次の瞬間吹き出した。


「住友さんのそういうとこ、好きだなあ」


 一瞬どきっとして、私はどういう顔をしていいかわからなくなった。私の反応がないことに気づいた長谷川くんが、急に蒼白になってうろたえる。


「あ、いや、変な意味じゃなくて。その、なんて言うか」


 必死に言い訳を考えているのがちょっとおかしくて、私は笑ってしまった。同時に、心の中で謝った。

 長谷川くんが大人でよかったなんて、自分の都合のいいように決めつけてしまっていた。平気なはずがないのに。


 きっと、たくさん気を遣わせてしまっている。

 だから、できるだけ笑おう。

 そしてなぜか、彼に笑顔を見せることは、そんなに嫌じゃない。


 笑っている私を見て、長谷川くんがほっとしたように、表情をゆるませる。

 聴いてみたい。

 私はもう恋をすることはできないかもしれないけれど、長谷川くんが奏でる音を、もっと聴いてみたい。


「コンサート、また行きたいです」


 そう言うと、長谷川くんの眼鏡の奥の目が細くなった。とてもうれしそうに。


「ごめんごめん」


 カランカランとドアベルが鳴って、マスターが謝りながら店にもどってきた。


最後まで読んでいただいてありがとうございました。

次回の主役は富坂くんの予定です。なので、たぶん暗くはならないです(笑)。

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