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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
番外編 君が奏でる音
74/88

 * * *



 健康診断の日は、いつも朝から憂鬱だった。

 小学校の低学年まではなんともなかったのに、高学年になると、胸を見られるのがものすごく恥ずかしくなった。


 お母さんにしつこく言われて、ブラをつけるようになったときも。まだ、クラスの女の子たちは誰もブラなんかつけていなかった。ほかの子に知られたらどうしようって、落ち着かなかった。本当に、嫌だった。


 男の子たちにも、胸が大きいことをよくからかわれた。同じクラスのマキちゃんは背が高いことをからかわれていたし、サトミちゃんは太っていることをからかわれていた。


 けれど、彼女たちは負けていなかった。相手の欠点を言い返して、何度でも立ち向かっていった。私には、そういうことができなかった。

 ただ、黙っていた。聞こえないふりをして。そういう態度をとり続けていると、男の子たちはそのうち飽きて、何も言わなくなった。


 中学生になると、男の子よりも、女の子の視線のほうが大胆になった。

 体育の授業があるとき、着替えをしていると、女の子たちがさりげなく私の前を通っていった。ちらっと私の胸を見て、くすくす笑い合いながら、去っていく。


 女の子の視線は、身がすくむほど冷たい。

 胸を見られると、私は、自分が心を持たない人形になったような気持ちになる。


「えーっ。胸が大きいことが悩みなんて、信じられない!」


 仲良くなった女の子に勇気を出して打ち明けたら、大きな声でそう言われた。


「胸が小さくて悩んでいる子、いっぱいいるんだよ? そんな悩み、贅沢だよ!」


 電車の中で痴漢に遭ったときは、「窓花に隙があるからよ」とお母さんに一喝された。私の好きなノースリーブの服も、ミニスカートも、私が着るといやらしく見えるんだって初めて知った。


 誰にもわかってもらえないのなら、話す意味がない。

 自分のことを話さなくなると、友達が話しかけてこなくなった。


 ひとりでいることは、別に苦痛じゃない。クラスの女の子たちの会話に無理に入っていこうとも思わなかったから、休憩時間はいつも教室で本を読んでいた。

 そうしたら、「住友さんって、なんか大人っぽいよね」って言われるようになった。別に、大人ぶってるつもりはなかったけれど、いつの間にかそういうキャラになっていた。

 群れない。動じない。よけいなことを言わない。いつも余裕。そういうキャラ。


 だけど、自分の体に集まる視線には、いつもびくびくしていた。みんなの前では堂々と自信があるふりをしていても、本当は、私は臆病だった。必死に大人のふりをしているだけで、全然大人じゃなかった。


「俺、かわいらしい子が好きなんだ」


 幼なじみのかずくん──浜野数樹はまのかずきくんに告白して、そう言われたときも。私は泣きたくなるのを、必死でこらえていた。


「窓花は、俺のタイプじゃないんだよな」


 じゃあ、どうすればいいの? 私だって、好きでこんなふうに生まれてきたわけじゃない。


 本当は自信なんてない。いつも不安で、その不安を隠すことに必死なだけ。

 友達を拒んで、独りでいることを選んだのは私なのに、心のどこかで淋しいとも感じていて。どこかに私のことをわかってくれる人がいるんじゃないかって、ひそかに思っていた。あきらめたふりをして。


 そういう私のことを、市之瀬くんだけが、わかってくれた。


 市之瀬くんの前だと、なぜか、素直になれた。わがままが言えた。

 最初に、かずくんに振られてしおれているカッコ悪いところを、ばっちり見られてしまったせいもあるけれど。

 大人ぶったり、余裕のあるふりをしたり。そんなことをしなくても、市之瀬くんは私の話を聞いてくれた。


 無口で無表情で、何を考えているのかわからない男の子だったけれど、市之瀬くんは、私を外見だけで判断したりはしなかった。

 本当は幼くて、見栄っ張りで、誰よりもかわいい女の子になりたいって思っている私のことを、ちゃんとわかってくれていた。


 キスをしたのは、私のほうから。

 好きだって言ったのも、私のほうが先。

 何度もデートをして、キスをして。学校では言えない秘密をふたりで作ったけれど、市之瀬くんは、一度も私を好きだって言わなかった。


 だから、付き合い始めて三か月くらいたったときに、市之瀬くんから別れを切り出されても、そんなに驚かなかった。

 なんとなく、そうなのかなって思っていた。市之瀬くんには、ほかに好きな子がいるんじゃないのかなって。なんとなく。


 あのときは、せいいっぱい大人のふりをした。

 私も、そんなに楽しくなかったし。全然、大丈夫。

 たぶん、そんなことを言った。


 市之瀬くんは、ほんの少し、つらそうな顔をした。わかりにくかったけれど。

 全然、大丈夫じゃない──そう思い知ったのは、市之瀬くんと別れて一か月以上たった頃だった。


 日曜日に上滝の街で買い物をしていたら、高校生の男の子に声をかけられた。むこうは、私のことを自分と同じ高校生だと思ったらしい。

 いつもだったら相手にしないけれど、その時は誘いに乗った。ちょっとかっこいい子だったし、同級生の男の子よりは大人っぽく見えた。何より、早く、市之瀬くんのことを忘れたかった。


 二度目のデートで家に誘われた。もう大人なんだからとかなんとか言われて、押し倒された。わけがわからなくなって、どうでもよくなった。

 こんなの、どうってことない。終わるまで、頭の中で何度もその言葉を繰り返し唱えていた。横たわった自分の体が、触れられるたびにどんどん冷えていくのを感じた。


 デートのたびに体を求められたけれど、拒まなかった。その高校生の男の子には、ほかにも付き合っている女の子が何人かいて、私がそのことを知って拒んだら、それから連絡が来なくなった。


 市之瀬くんにすがるつもりなんて、全然なかった。そんなの、みじめだしカッコ悪すぎる。だから放っておいてほしかったのに、市之瀬くんは、そうしなかった。

 私がたびたび学校をズル休みするようになったとき、市之瀬くんから電話がかかってきた。


 その頃には、私が高校生の男の子に遊ばれて捨てられた、といううわさが校内に出回り始めていて、さらにひどいことに、私が妊娠してひそかに中絶手術を受けたという根拠のない作り話まで囁かれるようになっていた。


──まだ付き合ってることにしよう。


 市之瀬くんが電話でそう言ってくれたとき、私はうれしくてホッとして、不覚にも泣き出してしまった。

 市之瀬くんの前では、私は子供のままでいられる。

 ダメだとわかっていたのに、私は市之瀬くんに甘えた。


 私の心は、いつまでたっても子供のままだった。それなのに、私の体はもう大人になってしまっていた。今さら後悔しても、どうすることもできない。

 私の部屋で一緒に受験勉強をしているとき、市之瀬くんに一度だけ抱いてほしいと言った。


 市之瀬くんが初めてだって、思うことにするから。

 泣きながらそう言って、恥ずかしさのあまりうつむいてしまった私を、市之瀬くんはそっと抱きしめてくれた。


 あの日のことを、市之瀬くんはずっと後悔しているみたいだったけれど、私は今も後悔していない。

 あのとき、私はもう二度と、市之瀬くんと離れないって心に決めた。


 市之瀬くんに好きな子がいてもいい。

 もし、市之瀬くんがその子と付き合うことになっても、それでもいい。体だけの関係でもかまわない。

 私は、何があっても──どんなことをしても、絶対に市之瀬くんから離れない。

 そう誓ったのだ。あのとき。


 だから。

 加島紗月という女の子が、市之瀬くんの心をどんどん奪っていくのを見ていると、不安でたまらなくなった。

 彼女は、私が持っていないものを、なんでも持っていた。かわいくて、純粋で、ひたむきで──純情そうで。

 市之瀬くんの視線は、いつも彼女に向けられていた。私がどんなに近くにいても、私じゃなく、彼女を追っていた。そして二度と、私を抱こうとしなかった。


 怖かった。

 いつか市之瀬くんが、私から離れていってしまうことが。

 またひとりになるのが、たまらなく怖かった。


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