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黒いギャルソン風のエプロンを、ふんわりと身に付ける。
エプロンのひもは腰の前で結ぶスタイルになっているから、なるべく胸の膨らみが目立たないようにゆるく結んで、私は従業員用の扉を開けた。
喫茶店『ラルゴ』は、短大と最寄り駅とのちょうど中間地点にある。
大通りから一本入った裏通りにあるせいか、とても賑わっているとは言えない。このあたりには、私が通う短大のほかにも音大と建築系の専門学校があるのに、なぜか客の年齢層は高め。
と言うのも、『ラルゴ』の客はほとんどが常連客で、クラシックファンの溜まり場のような店なのだ。
店内に流れるBGMは、一年中クラシックばかり。それもショパンとかドビュッシーとかのおしゃれめなピアノ曲ならまだしも、曲の長さが一時間以上もある、ベートーヴェンやマーラーなんかの重厚な交響曲が、朝からがっつりかかる。私と同年代の女の子など、決して近寄らせない雰囲気だ。
まあ、店自体「喫茶店」としか呼べないような古めかしい内装だし、外から見た印象も暗いので、若い人は入りにくいというのもある。駅の近くには、明るくてセンスのいいカフェがいくつかあるし。
同じ短大の友人たちが見たら、きっと顔をしかめて「こんな店、やめたら?」と言うに違いない。彼女たちは、徹底的に“暗い”ものを避けたがる。
短大に入学したら、サークルには入らずにバイトをしようと決めていた。
学校の同じ年代の子よりも、年上の人といるほうが気が楽だった。最近は適当に話を合わせるコツを覚えたけれど、昔から、なぜか同年代の子とは話が合わない。
学校からの帰り道に、店先に出ていたバイト募集の張り紙を見て応募した。
面接で聞かれたのは、クラシックが好きかどうかだけ。私は「好きです」と答えた。嘘だった。お母さんがクラシックファンで、年中いろいろな話を聞かされているせいで知識だけはあるけれど、堅苦しくて好きじゃない。
マスターはすぐに私を採用した。店に出るのは週三日。月曜と木曜の平日は、夕方の四時半から閉店の七時まで。土曜日は朝からフルタイムで入っている。
まだ開店前だけれど、店内にはラヴェルの「ボレロ」が流れていた。同じリズムで何度も繰り返されるメロディが、徐々に勢いを増していく。
古くて、薄暗くて、全然おしゃれじゃない店だけれど、私はここが気に入っている。必要以上に笑ったりしゃべったりせずにすむから。
この店の客は無駄な笑顔やおしゃべりを望まない。彼らはただ静かに音楽を聴き音楽について語りたいのだ。駅前の明るい店では、そうはいかない。
「おはようございます」
落ち着いた、涼しげな声が聞こえた。
店にはすでに、もうひとりのバイトの男の子が来ていて、開店の準備をしていた。
「おはようございます」
私も挨拶を返して、準備を手伝う。
彼──長谷川悠介は、この近くの音大に通っていて、私より二つ年上。この店でのバイト歴も、私より二年長い。
彼は、音大生なのに週四日も店に出ている。楽器を買うためだと言う。彼の専攻する楽器は目玉が飛び出るほど高い。音大に通うような人って裕福な家の人ばかりだと思っていたけれど、長谷川くんの場合は違うようだ。
なので、店のことはマスター同様に、何から何まで知っている。マスターも、何かと言うと「長谷川くん」「長谷川くん」と言って、彼を頼りにしている。
そう言えば、マスターの姿が見当たらない。
「マスターは?」
長谷川くんに聞いてみた。テーブルの上のシュガーポットの中身をチェックしていた彼は、ふり向いて窓の外を見たまま首を傾げた。
「さっきまで表の掃除をしてたけど。ひょっとしてまたお隣さんにつかまったのかも」
ラルゴの右隣には古書店があって、そこの店主のおじいさんとマスターは仲がいい。それはいいのだけれど、話し好きのおじいさんは、ちょくちょくマスターを店の奥に引っ張りこんで、長時間話しこむ癖がある。
「まあ、そのうちもどってくるでしょ」
長谷川くんは軽い口調でそう言って、淡々と準備を進める。
彼も私と同様、愛想がいいほうじゃない。
でも、長谷川くんは常連さんたちから絶大な人気を得ている。彼と音楽について語り合うために、足繁く通ってくるおじさんおばさんも多い。そのうちファンクラブでもできるかもしれない。冗談じゃなく。
彼は、今日もカジュアルなチェックのシャツに、ジーンズとスニーカーというスタイルだった。服にはあまり興味がないのか、平日も休日もたいていこのパターンだった。
私がここのバイトを気に入っている理由のひとつは、長谷川くんだ。
もし、彼がいかにも「男」って感じのギラギラしたタイプだったら、きっとすぐにやめていたと思う。
音大生らしく、長谷川くんにはギラついたところがまったくない。体つきも華奢で、ほっそりしている。
年上で先輩だけど偉そうなところが全然なくて、私も心の中では「くん」付けで呼んでいる。もちろん、人前ではちゃんと「さん」付けで呼んでいるけれど。
見た目も地味。黒縁の眼鏡をかけていて、真面目そう。髪も真っ黒だし。顔は──まあまあ。悪くはないけど、やっぱり地味。
きっと、彼は音楽にしか感心がないんだろう。私のことにも、全然興味がなさそうだし。ホッとする。
「ごめんごめん」
カランカランとカウベルが鳴って、マスターが謝りながら店にもどってきた。
窓の外は五月の穏やかな陽射しにあふれていた。
「長谷川くん、何かおすすめのCDない?」
注文をとりにいったテーブルで、長谷川くんはさっそく常連の今泉さんに話しかけられている。
今泉さんは、勤めていた会社を定年退職した直後に病気になって、一年近く入院していた。つい最近、退院したばかりだと言っていたけれど、病気の後遺症が少し残って、あまりひんぱんに出歩けなくなったそうだ。
長谷川くんはしばらく考えて、「ピアノ、好きでしたよね」と言った。
「ああ、好きだよ」と、今泉さんがうれしそうに笑いながら答える。「よく覚えてたね」
照れたように、長谷川くんの目がぎこちなく笑う。
「じゃあ、レオン・フライシャーの『TWO HANDS』。いいですよ、すごく」
「ふーん。変わったタイトルだね。ありがとう、探してみるよ」
長谷川くんが今泉さんから注文を聞いてカウンターにもどってくると、マスターがにやにやした顔をして彼を見た。
「なんですか?」
ちょっと拗ねたように聞く長谷川くんに、マスターはにやにやしたまま、「いや何も。さすがだなあと思ってね」と答える。
春らしい水色のコートを着た女の子が、窓の外を足早に通り過ぎていく。こっちを見て、ささっと前髪を整えながら。これからデートだろうか。
店の中は暗いから、外からは中の様子はよく見えない。鏡代わりに窓を見た彼女も、私がいることに気づかなかったらしい。
「住友さん」
ぼんやりと窓の外を眺めていた私は、カウンターの中にいるマスターを見た。年齢不詳──おそらく五十歳前後──のマスターが、ちらりと目で奥のテーブルを示す。
店の奥のテーブルにいる、さっき入ってきた三十前後の男性客が、こちらを見て手を挙げている。
常連さんの顔を全員覚えているわけではないけれど、初めて見る客だった。テーブルの上には、派手な見出しが躍るスポーツ新聞が広げられている。クラシックファンではなさそうだ。
私がテーブルのそばに歩み寄ると、彼はわずかに視線をずらして私の胸のあたりを見た。それからさっと視線を上げて私の顔を見た。
「コーヒーとハムサンド」
そっけなく言って、また視線を下げようとしたので、私はすばやく背を向けた。
男の人の視線に敏感になってしまうのは、悪い癖だとわかっていた。だけど、気にするなと言われても気になるのだから、しょうがない。
私が気にしなかった男の子はただひとり──市之瀬くんだけだった。
でも、市之瀬くんはもうここにはいない。
東京にいる。
それに、私のほうから「二度と会わない」って言った。あんなこと言わなきゃよかった。会いたくてたまらない。
わかっている。
市之瀬くんが、私のことなんか好きじゃないってことくらい。
最初から、わかっていた。
友達になりたいって言ったのは私のほうからだったし、好きになったのも私のほう。市之瀬くんは、一度も私に本当の気持ちを打ち明けなかったけれど、そんなの、ちゃんとわかっていた。
それでも、一緒にいたかったのだ。今でも、そう思う気持ちは変わらない。
音楽は、同じラヴェルの「道化師の朝の歌」に変わっていた。ピアノではなく、オーケストラバージョンのほう。
「いいねえ」
カウンターの中から、マスターが小声でつぶやく。そして、ちらりと長谷川くんを見る。長谷川くんは、ちょっとうんざりしたような顔をして、マスターを睨む。
最近、ようやくわかったのだけれど。
マスターは、ときどき長谷川くんに対して、子供じみた意地悪をする。
開店前にかかっていた「ボレロ」といい、今の「道化師の朝の歌」といい、明らかにファゴットが目立つ曲をわざと選んでかけている。
ファゴットは低音部を担当する木管楽器だ。高さが一メートル以上もある割に、オーケストラの中ではあまり目立たない。ボーというこもったような音も、コントラバスやほかの低音楽器に隠れてしまい、どっちかと言うと地味。
どうして地味な人って、わざわざ地味なものを選びたがるんだろう。
そう。ファゴットは、長谷川くんが音大で専攻している楽器なのだ。
「今度のコンサートは、何やるの?」
マスターが身を乗り出して聞いている。長谷川くんが所属している音大のオケが、定期的に行っている演奏会のことだ。
「チャイコフスキーの六番です」
「『悲愴』? いいねえー、しょっぱなからソロじゃない。楽しみだなあ」
マスターがからかうように言うのを聞いて、私は思わず口を挟んだ。
「マスター、いつも行ってるんですか? コンサート」
マスターと長谷川くんが、同時に私を見た。
「いつもってわけじゃないけど」
そう言ってから、マスターは私に「住友さんも行く?」と聞いた。
一瞬、返答に迷った。そんなつもりで聞いたわけじゃない。でも、即行で断るのも悪い気がする。
「住友さん、クラシック音楽、聴くの?」
ためらっていると、長谷川くんが驚いたような顔で聞いてきた。そう言えば、ここでバイトを始めてひと月もたつのに、彼と音楽の話をしたことがなかった。
「母が好きだから。たまに、コンサートにも付き合わされます」
それは本当だ。長谷川くんは複雑そうな表情になって、「住友さんは、好きじゃないの?」と聞いてくる。
「私は……難しくてよくわからないから」
なんとかごまかそうとしてそう言うと、長谷川くんは笑った。
「わかることと好きってことは、いつもイコールじゃないと思うけど」
意外に明るい笑顔を向けられて、私は少し戸惑った。
芸術系を目指す人って、みんなそうなのかな。地味で目立たなくておとなしそうで、だけど、好きなことにだけは自信満々で、すごく楽しそうで。
彼女も、そうだったな。
思い出したくもない人の顔を思い出してしまい、私は嫌な気持ちになった。
「好きじゃなくてもいいから、聴きに来てよ」
長谷川くんは、屈託のない笑顔で私を誘った。
私は目をそらして、「行けたら行きます」と答えた。感じの悪い態度を取ってしまった。言い方も生意気に聞こえたかもしれない。長谷川くんには関係ないのに。
「ありがとうございました」
マスターの声に、はっとする。見ると、奥のテーブルの男性客が伝票を手にしてすぐ近くに立っていた。じっと私を見ている。
急いでレジに向かおうとすると、長谷川くんが私を遮って男性客の手から伝票を受け取り、レジに入った。男性客はしつこく私に視線を残していたけれど、長谷川くんの「千百円です」という普段より大きめの声に、ようやく視線を外した。
男性客が店を出ていった後、長谷川くんはまたマスターとカウンター越しに音楽談義を始めた。
私はなんだかわけもわからずもやもやした気持ちになって、厨房のゴミを持って裏口から外に出た。
共同のゴミ置き場にあるバケツにゴミを捨ててもどろうとすると、長谷川くんが裏口から出てきた。チケットを手にしている。
「これ、来月の演奏会のチケット。本当に、よかったら来て」
そう言って、私にチケットを二枚、手渡す。チケットには、演奏会の日時と曲目が印刷されていた。
長谷川くんのいつもとは違う態度が、私の中のもやもやをさらに強くした。声も、表情も、緊張しているみたいに硬かった。
違う。気のせいだ。彼は、私に興味を持ったりなんかしない。
「さっきの、お客さん」
私がうつむいたまま言うと、長谷川くんはしばらく黙った後で「ああ、うん」と曖昧な返事をした。
やっぱり、気づいていたんだ。
あの男性客の視線に。
恥ずかしくて、悔しかった。ものすごく。
あの男性客が、私の胸を見ていたことを知られたことだけじゃなく。私が、それに気づいてまごついていたことを、知られてしまったことが。あんなことでいちいち傷ついて、堂々とできない自分を、見られてしまったことが。
「住友さん、彼氏とかいる?」
頭も心もパンク寸前だというのに、長谷川くんはさらに私を混乱させることを言った。心なし顔が赤い。
私は答えずに、唇を噛んだ。限界だった。
「……どうして、そんなこと言うんですか」
彼は違うと思っていた。あの男性客みたいに、私の気持ちを無視してそういう目で見るような、そんな人じゃないと思っていた。
気に入っていたのに。長谷川くんのことも、マスターのことも、『ラルゴ』のことも。みじめな気持ちにならなくてすむ、穏やかに過ごせる場所だったのに。もう、そうじゃなくなった。
どうして男の人って、みんな、そういうことばっかり考えるんだろう。
長谷川くんは、わけがわからないという顔をしている。
そうだ。長谷川くんを責めるのは間違っている。私が一方的に彼のキャラを決めつけて、安心していただけなんだから。
私は「ごめんなさい」と早口で謝った。
「そういうこと言う人じゃないって思ってたから。私が、勝手に」
すると、長谷川くんの顔が見る間にこわばった。
「それ、どういう意味?」
私ははっとした。
急に低くなった声が、責められているように聞こえる。
「俺は、好きな子に好きって言っちゃいけないの?」
そう言って、長谷川くんは、黙りこむ私にすばやく背を向けた。裏口の扉が、バタンと勢いよく閉まる音が響いた。




