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久しぶりにマウンドに立つと、懐かしい感覚と記憶が全身をかけめぐる。
一時間ほど前に野球部の練習が終わって、グラウンドには誰もいなくなっていた。
健吾がキャッチャースボックスにしゃがみこんで、見慣れた姿勢でミットを構える。昔と変わらない、どっしりした構えだ。
古い感覚を呼び覚ますように、私はグラブの中で何度もボールの縫い目をたしかめ、指をかけた。
大きく振りかぶって、足を上げる。ホームベースの方向に向かって思いきり踏みこみ、右腕をふり下ろす。
ボールはゆるやかな速度で孤を描いて、健吾が構えるミットから少し左にそれた位置に落ちた。ぎりぎり届いたという感じ。
「あー。やっぱりダメだね。立って立って」
私は両手のてのひらを上に向けて、健吾に立ち上がるよう合図を送る。
「キャッチボール、しよう」
マウンドを降りて、三塁側に数歩、移動する。健吾との距離も、少し縮める。私が立ち止まってグラブを構えるのを待って、健吾がボールを投げてきた。
全力ではないけど、すごく手加減をしているというわけでもない──私に手加減していると感じさせない、微妙な加減のボール。うまいなあ。
健吾からのボールを受けとって、返す。投げる。受けとる。投げる。ただそれだけの繰り返しなのに、こんな単純なことが、どうしてこんなに楽しいんだろう。
「なあ」
キャッチボールを続けながら、健吾が私に声をかける。
「んー?」
私も手を止めずに、答える。
「結婚しない?」
健吾が投げたボールは、私のグラブの横を通過して背後に転がった。ボールを失った私たちは、自然と動きを止める。
「あ、はい」
とっさにそう答えると、健吾がうなだれた。
「なんなの、その普通な返事」
私はのぼせて、頬が熱くなった。そんなこと言ったって!
「普通に聞かれたら、普通に答えるしかないでしょ! それとも何? ヤダって言えばよかったわけ?」
「バカ、変更不可だ! もう受理したからな!」
健吾の顔がおもいのほか必死だったので、私は思わず吹き出してしまった。後ろに転がったボールを拾いにいく。拾ったボールを投げ返すと、健吾はボールを受けとったままじっとしている。
「……考えなくていいの?」
さっきは受理したなんて言ったくせに。今さらそんな弱気な発言をして、もし本当に私の気が変わったらどうするつもりなんだろう。
健吾は不安そうな顔で、私の返事を待っている。
ちょっと意地悪してみたい気もしたけれど、かわいそうなのでやめた。
「結婚しても、キャッチボールの相手をしてくれる?」
今度は健吾が吹き出した。
「考えるとこって、そこ?」
「だって、私にとっては大事なことだもん!」
健吾は笑うのをやめ、「約束する」と言った。
「じゃあ、もう考える必要なんてないよ」
一瞬の迷いもなく、私は言う。
「私が結婚したい人は、あなただけです」
「来年の同窓会だけど」
西の空に傾く夕日をふたりで屋根付きベンチに座って眺めているとき、健吾がふと思い出したように言った。
「加島さん、出席するって言ってた?」
来年の年明け二日に、雛高の同窓会を開催することが決まっていた。まだ同窓会の案内は届いていないけれど、健吾が幹事を引き受けたので私もいろいろ手伝うことにしている。
「どうかなあ。たぶん帰ってくるとは思うんだけど……仕事が忙しいって言ってたから、同窓会には出ないかも」
「誘ってみてよ」
「……何か企んでる?」
「企んでると言うほどでもないけど」
健吾は複雑そうな笑みを浮かべて、深々と溜息をこぼした。
「もうさ。いい加減なんとかしないと、と思って」
「あ。もしかして、紗月にいい人紹介してくれるとか?」
「まあ、そんな感じ」
健吾が言葉を濁すときは、しつこく聞いても無駄だと知っているので、私はそれ以上聞かずに「わかった」と答えた。
「紗月に、一緒に行こうって誘ってみるよ」
屋根付きベンチを出るとき、健吾が身をかがめてすばやくキスをした。そして心から安堵したような溜息と一緒に、言った。
「実は朝からずっと緊張してたって、知ってた?」
私は笑った。甲子園に行くという子供の頃の夢はかなわなかったけれど、もう悔しいとは思わない。
一生、キャッチボールの相手をしてくれる人を手に入れたのだから。
今回は、有村と亜衣のお話でした。
市之瀬&紗月に比べて、行動的でわかりやすいふたりなので、書いていても楽しかったです。市之瀬は口が重いので喋らせるのに苦労しますねー。
番外編は今後も追加する予定です。




