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* * *
ぎゅっと目を閉じたその数秒後には触れてくるはずのものが、いくら待っても触れてこなかった。
「……?」
そろそろと瞼を開くと、困ったように苦笑する島津の視線とぶつかった。
「そんな顔されちゃなあ……」
島津は笑いながらそういって、小さく溜息をついた。
私はどうしていいかわからなくて、うつむいて、じっとしていた。
いったいどんな顔してたんだろ、私。
恥ずかしくて、島津の顔が見ることができない。
誰もいない夜の通りは静まり返っていた。冬の始まりを告げる冷たい風が、ふたりの間を通り抜けていく。
あと数メートルも歩けば私の家がある。でも、私たちはそこから動けず、気まずい空気を抱えたまま、風の中に立ちつくしていた。
「好きな奴がいるって言ってたよな。まだ忘れられない?」
どんな言い訳もできないと思った。キスを拒んでしまった私の気持ちに、この人はとっくに気づいている。
私は黙ったまま、ぎこちなくうなずいた。
「しょうがないな」
あきらめに満ちた声と、どこか淋しげな温もりを持った言葉。
島津は私の頭の上にそっと手を置いて、「別れてやるよ」と言った。私が顔を上げた時には、もう島津の手は離れていて、彼は私に背を向けていた。
何か言いたいけれど、言葉にならない。
去っていく島津の背中に声をかけたいのに、咽喉の奥が焼けるほど熱くて、胸が苦しくて、何も言えない。
あっという間に彼の後姿が夜の暗がりにのみこまれてしまうと、突然堰を切ったように涙があふれ出した。痛みを伴った苦しみが心を覆う。
自分のしたことが、どんなに残酷で思いやりのない行動だったかと、やっと気づいた。私は有村にはっきりと拒絶されるのが怖かった。それに耐えられる自信がなかった。自分が傷つきたくなくて、自分の心を守るために島津の気持ちを利用したんだ。彼が傷つかないはずないのに。
そんなことにすら思い至れなかった自分が恥ずかしくて、情けなくてしょうがない。
――ごめんなさい。
謝っても謝っても、たりない気がした。
今の私にできることは、自分の気持ちに素直になることだけ。それだけしか、残されていないと思った。
二学期最後の登校日に、私は有村に告白しようと決めた。
終業式とホームルームが終わった後で、クラスのみんながクリスマス会の参加メンバーを募っているとき、私は廊下にいる有村を見つけて声をかけた。
自然に声をかけたつもりだったのに、有村は私の顔を見たとたん、ぎくっとしたように大げさとも思える動作で身を引いた。
「あ、何……?」
有村の態度が変なのは、すぐにわかった。完全にいつもと違う。へこみそうになったけれど、私は勇気を出して言った。
「ちょっと、その、話があるんだけど」
有村はあからさまに困った顔をした。
さすがにこんな場所で告白する無神経さは、持ち合わせていない。人のいないところに移動したかったけれど、有村が固まったまま動かないので、どうしていいかわからなくなった。
なんだか、妙な感じだ。
有村と私との間に流れている空気が、明らかに今までと違う。
私は戸惑っていることを悟られないように、努めて冷静に、いつも通りの態度をふるまおうと躍起になって、ますます体が硬直してしまう。ぎこちない空気が、ぎしぎし音をたてているような気さえする。
「あ、やっぱりいいや。また今度で」
黙りこんでいる有村の目を見ることができなくて、私は横を向いた。
私の意気地なし!
そうやってずっと、先送りにするつもり? あと数か月で、卒業するっていうのに!
そのとき、教室の中でクリスマス会の出欠をとっていた学級委員長の国枝さんが、廊下側の窓から顔を出して「そこのおふたりはどうされますか?」と聞いてきた。
私が答えようとする間もなく、「亜衣は欠席だよねー!」と誰かが冷やかすような口調で言った。
「島津くんとデートだもんね、亜衣は」
「いいなー。ハツカレとクリスマスデートかあ」
「ちょっと計画的すぎない? やらしー」
勝手に騒いで盛り上がっている彼女たちに、「彼とはもう別れました」とはとても言えなくて、私は凍りついたような苦笑いを浮かべていた。
彼女たちの会話がおさまったのを見て、私はおそるおそる有村の顔をうかがう。
有村は、ものすごく冷めた目つきで私を見下ろしていた。そして視線以上に冷えきった言葉を口にした。
「よかったな、クリスマスに相手してもらえる男ができて」
「あ、えっと、そのことなんだけどね」
私があわてて説明しようとすると、有村が遮った。
「別にいいんじゃね? クリスマスの夜におまえが誰と会おうと俺には関係ねえし。おまえの処女にも興味ねえし」
猛烈な勢いで顔に火がついた瞬間、私は音速をも超えるかという速さで右手をふり上げていた。パアン、と乾いた音をたてて有村の頬が鳴った。
「死んじゃえ!! バカッ!!」
あたり一帯にとどろくほどの大声で怒鳴り、教室にもどってカバンをつかむと廊下に出た。
背後で、有村の「いってぇ……スナップ効かせすぎ」という泣きそうな声が聞こえたけれど、私はふりむかずに早足で教室から離れた。
三月一日は、朝から曇り空だった。
足がもつれそうになりながら、私は教室を飛び出した。
卒業式の朝。登校すると、教室にいた市之瀬と紗月が深刻な顔をしていて、有村が倒れたと言った。これから病院へ行くと聞いて、私は保健室に向かった。
信じられなかった。あの有村が倒れるなんて。
炎天下の練習でも、真冬の朝練でも、一度も音を上げたことがないのに。三年間病気ひとつしなくて、体力にだけは自信があるって豪語して、いつも自慢していたのに。
まわりの目も気にせず、私は廊下を突っ走り、階段をかけ下りた。一階にある保健室がやけに遠く感じる。
心臓が破けそうなほど激しく脈打っていることに気づいたのは、保健室の扉の前に立ったときだった。でも、呼吸を整えている暇さえ惜しくて、私は声もかけずに扉を開いた。
湧井先生がふり返り、私を見て「ああ、ちょうどよかった」と言った。
「職員室に行って、宇藤先生に連絡してくるよ。ちょっと留守番を頼むわ」
そう言うと、すたすたと保健室を出ていった。
私はわけがわからず、ベッドに寝ている有村に視線を移した。
有村は驚いた顔をして半身を起こし、その場に立ちつくす私を見ている。
「どうしたんだよ、おまえ」
鼻にかかったかすれ声で、苦しそうに言った。
「い、市之瀬が……」
胸が苦しくて声が出てこない。けれど、有村にはその言葉だけで意味が通じたようだった。とたんに、熱でのぼせた赤い顔を歪める。
「あいつ、なんか言ったの?」
私はうなずいた。ようやく呼吸が落ちつき始め、そろそろと有村の寝ているベッドに近づく。保健室には、私たちふたり以外誰もいない。
「倒れたって……病院に行くって聞いて、それで……。大丈夫なの?」
「ただの風邪だよ。式は休むけど、大したことない。そう言ってなかった?」
それを聞くと、ほっとして力が抜けた。同時に気づく。
「……騙されたっ」
市之瀬と紗月にどう仕返しをしてやろうかと思ったけれど、有村の笑っている顔を見ると、なんだか妙に穏やかな気持ちになった。
有村にどう思われても、私はやっぱりこの気持ちを伝えたいと思った。今ままでみたいに話せなくなって、友達ではいられなくなってしまうかもしれないけれど、どうしても伝えたいと思った。
「俺さ。ずいぶん考えてみたんだけど、どうも答えはひとつしかないみたいなんだよな」
私が口を開きかけたとき、ベッドの中で半身を起こした姿勢のまま窓の外へ視線を向けていた有村が、ふいに私を見て言った。
「俺、おまえに島津と付き合ってほしくないみたいだ」
私は一瞬茫然として、有村が何を言ったのかはっきり理解できなかった。頭の中で何度も台詞を反芻し、その意味をゆっくりのみこんでも、まだ信じられなかった。
それでも、有村の顔はいつになく真剣で、とても冗談を言っているようには見えない。その後も、何か言おうとしているみたいだったけど、結局あきらめたらしく、有村はそれきりまた窓のほうに顔を向けて黙りこんでしまった。
「島津とはもう付き合ってないよ」
私はきっぱりと言った。有村が驚いた目でふり返る。
「クリスマス前に別れたの。私、ほかに好きな人がいて。あきらめるつもりだったんだけど、やっぱりだめだった」
二人きりの保健室の中は静かだった。廊下を歩く足音も聞こえない。
「その人のこと、ずっと前から好きだったんだ。いつか気づいてふり向いてくれるって信じて、ずっと待ってた。でも、なかなかふり向いてくれないの。なんでだと思う?」
「えっ……?」
いきなり問われて、有村はうろたえた。
「私、有村のこと好きだったんだよ。一年のときから」
そう言ったとたん、一旦おさまっていた心臓が、ふたたび飛び出しそうなほど大きく胸を打ち始めた。鼓動がどんどん加速する。
それは、「友達」に終わりを告げる台詞だった。
小さな私を「松ぼっくり」と呼んでいた有村。背が低くて痩せていて、男の子みたいな外見に自信が持てなくて、劣等感の塊だった私。出会った瞬間から喧嘩ばかりしてきた私たち。もう、絶対にあの頃にはもどれない。
「知らなかったでしょ?」
私は有村のうつむき加減になった顔をのぞきこんだ。有村は戸惑いを隠せずに、黙ったままでうなずいた。そして「ごめん」と小さな声でつぶやくように言った。




