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二年になると、有村とはクラスが別になった。
私と紗月は三組で、有村は四組。クラスが別れても、有村は廊下で会うとすぐに声をかけてくるし、離れたところにいてもめざとく見つけて「松ぼっくり!」と大声で叫んだ。
まわりに誰がいようとおかまいなしに、そんな恥ずかしいあだ名を大声で連呼するくせして、有村は大事な話をしているとき、絶対に私を「松ぼっくり」とは呼ばない。
部活では、あいかわらず有村のキャッチング練習に付き合わされた。最初のうちは違和感を覚えた硬球にもすぐに慣れて、私の右手の指先にもほかの投手同様にタコができた。
一、二年のピッチャーから投球フォームのチェックをしてほしいと頼まれたり、キャッチボールの相手をさせられたりもした。
三年の先輩が卒業して、マネージャーは私ひとりになっていたから、けっこう忙しい毎日だった。でも、自分にしかできないことをしているという充実感もあった。
さらに、私自身にも大きな変化があった。
身長がいきなり六センチも伸びたのだ! ここにきて、ついについに、私にも待ちに待った成長期が訪れた!
日焼けにも気をつけるようになってから、肌は少しずつ白さをとりもどしていった。
一年の冬から伸ばし始めた髪は、二年の夏には肩に届くほどになり、三年に進級する前の春休みにやわらかなウェーブのパーマをあてた。カラーリングもした。
ファッション雑誌を読みあさり、メイクの仕方も覚えた。
パーマもメイクも校則違反だけれど、校則を気にしていたら女になれない。私にはもう時間がないのだ。切実なのだ。
三年になって、有村と同じクラスになったとわかったときには、心の中でガッツポーズとジャンプを繰り返した。
「なんだよ、また松ぼっくりと一緒じゃん」
有村はあいかわらず私を女扱いしてくれないばかりか、私と話すときは今でも必ず背を屈める。
私の身長は、百五十六センチになった。
体重も少し増えた。がりがりだった二の腕や太股やお尻に肉がついて、ようやく、男の子に見間違われることがなくなった。欲を言えば、もう少し胸に脂肪がほしいけど。
「よかったねー、亜衣」
クラス替えの掲示を一緒に見ていた紗月が、小声でうれしそうに言った。紗月ともまた同じクラスになった。
紗月は、さっきから何度も掲示を確認しては、うれしそうにしている。
三年一組の教室は、一号館の四階にある。教室の窓が、グラウンドに面しているのがうれしい。
教室に入る前、有村が廊下で自分と同じくらい背の高い男子と話しているのを見た。
後でわかったのだけれど、それが市之瀬郁だった。紗月が、以前、有村との共通の友達だと言っていたのは、市之瀬のことだった。
紗月が友達だと言うので、てっきり女の子だと思っていたから、驚いた。
しかも市之瀬という男は、デスマスクかと思うほどの無表情で、相手が知り合いだろうが初対面だろうがいっさい関係なく、誰に対しても冷たい。けっこうモテるくせに、自分に好意をよせてくれる女の子に対してさえ、愛想のかけらもない。
あんなやつと、紗月や有村が友達だなんて、とても信じられない。紗月とは幼なじみらしいけど、それもよくわからない。見た感じ、ふたりはちっとも親しそうじゃないからだ。
いったい、彼らのどこにどんな共通点があるんだろうかと思う。
夏の大会が近づいている。
去年も一昨年も、雛高野球部は地区予選一回戦で敗退している。今年の目標は一回戦突破──かと思ったら、富坂キャプテンはなんとベスト8を高々と目標に掲げた。
そのせいか、みんないつになく気合いが入っている。
有村は、放課後の居残り練習が実を結んで、正捕手になった。
男の子たちは、みんな一年のときに比べると大きく成長して、肉体的にも精神的にもたくましくなった。私の投げる球は、もう彼らには通じない。
「松川」
放課後、ジャージに着替えるために更衣室に向かう途中で、呼び止められた。
見ると、中学のときの同級生、島津裕輔がかけよってくるところだった。
「ちょっとだけ、いい? 話があるんだけど」
「うん、何?」
軽い気持ちで答えると、島津はぎこちない笑顔を浮かべて「こっちで」と、体育館裏に誘う。
体育館裏には、誰もいなかった。この時間帯だと、すっかり日陰になっていて涼しい。
「付き合ってるやつ、いるの?」
一瞬、私はぽかんとしてしまった。予想もしていなかった台詞だ。
「えっ、あの……私に聞いてる?」
「うん。松川に聞いてる」
島津はおかしそうに笑った。
中学のとき、吹奏楽部の部長をしていた島津は、見た目も中身もさわやかなやつで、男子からも女子からも人気があった。
雛高でも吹奏楽を続けていて、やっぱり部長におさまっている。たしかトランペットを担当していたはずだ。
島津と私とは、中学二年、三年と同じクラスで、わりと気軽にしゃべっていたほうかもしれない。でも、そういう、男女の仲のよさでは決してなくて、いつものごとく、あくまで男同士みたいな関係だったのだ。
「えっと、いない、けど」
かろうじて答える。心臓がバクバクいっている。
「じゃあさ、今度遊びに行かない?」
照れくさいのか、島津はあらぬ方向を向いて、やたらと自分の髪をいじっている。
「つまりその……付き合ってほしいんだけど」
まさか!
信じられなくて、声が出ない。
こんな夢みたいな展開、少女マンガではよくあるけれど、実際に自分に訪れる日がくるとは思ってもみなかった。まあ、妄想はしたことあるけど。
島津はほっそりとした体型で、身長もそれほど高くないけれど、優しい顔立ちをしている。性格も穏やかで、優しい。
はっきり言って、有村とは全然違うタイプの男の子だ。
「あ、ありがとう」
パニックに陥りそうだった頭が、ようやくわれに返った。
「すごくうれしい。でも、ごめん。私、好きな人がいるんだ」
島津は目をくるりとこちらに向けて、「誰?」と単刀直入に聞いた。
「そんなこと言えないよ。片想いだもん」
「片想い? 松川が?」
露骨に驚いた後、「似合わないなあ」と島津は笑いながら言った。笑うと、憎たらしいくらいさわやかになる。
「ほっといてよ。島津だって、告ってくれる女の子たくさんいるでしょ。モテるんだから。私なんかやめて、もっとかわいい子にしたら?」
「松川は十分かわいいと思うけど?」
さらっと言われて、焦った。どんな顔をしていいかわからなくなる。島津って、前からそんなこと言うやつだったっけ?
「私はかわいくないよ。外見は少しばかり変わったかもしれないけど、中身は昔と一緒だよ? 素直じゃないし、女の子らしくない。そんなこと、島津だってよくわかってるじゃん」
私は真剣に話しているのに、島津はあいかわらず笑っている。さもおかしそうに。
「何よっ」
私が怒ってみせると、島津は笑いながら「ごめん」と言った。
「いや、そういうとこがかわいいなーと思って」
「あ、あのね」
そう何度も「かわいい」を連発されると、困ってしまう。慣れていないのだ、その言葉には。
有村なんて、絶対に言わないだろうな。うん、言わない。私に対するそんな形容詞は、頭の片隅にもないに違いない。
「もし気が変わったら、いつでも言って。あと、これからも友達ってことで、よろしく」
島津はとろけるようなさわやかな笑顔でそんなことをさらりと言って、私に背を向け、その場から立ち去った。
高校最後の夏が終わった。
雛高の野球部は、地区予選の三回戦で負けた。延長十四回、サヨナラ負け。勝てば、ベスト8だった。
有村も、富坂も、私も、その試合を最後に野球部を引退した。
もう、朝練のために早起きしなくてもいい。日曜日に学校に来なくてもいい。放課後の練習も、雨の日の補強運動もない。毎日、授業が終われば家に帰るだけ。
二学期が始まっても、私はしばらく、この新しい生活のリズムに慣れることができなかった。マネージャーの私ですらそうなのだから、選手は私以上に違和感を覚えているだろう。
有村は特にひどかった。魂が抜け落ちた人って、こういう人のことを言うんだろうか。
もうすぐ雛高祭だというのに、有村はいつまでたっても心ここにあらずという感じで、何もしようとしない。
毎日、放課後になると教室の窓から野球部の練習を眺めて、溜息ばかりついている。呼んでも生返事しかしないし、目はうつろだし。哀れなほどだ。
気持ちはわかる。
私も、中学の最後の試合が終わった後、そうだったから。
だけど、有村は、あのときの私よりましだと思う。まだこれからも、やろうと思えば大学でもどこででも、野球を続けられるのだから。全然、落ちこむ必要なんてないと思う。
今日もまた、彼は窓辺にへばりついて、うらやましそうに野球部の練習風景を眺めている。まるで家族旅行に置いてけぼりにされた犬みたい。
「亜衣」
突然、低い声で名前を呼ばれてどきっとする。でも呼んだのは有村じゃなかった。教室の出入り口に島津が立っていた。有村の視線が、グラウンドから島津に移る。
「あ、え、ど、どうしたの?」
何うろたえてるんだろ、私。
「昨日話してたCD。聞いてみたいって言ってただろ?」
島津はそう言いながら教室に入ってきて、手に持っていたCDケースを私の前に差し出した。
「あ、ありがと……」
「返すの、いつでもいいから」
「うん」
島津の笑顔につられて、私もほほえみ返す。じゃあ、と言って立ち去った島津の後ろ姿は、やっぱりさわやかだった。
ふり返ると、有村が私を見ていた。その顔が、何か言いたそうだった。
「じゃあな」
有村は立ち上がって、カバンを手にして教室を出ていく。
私はぽかんとして、その大きな背中を見送った。
らしくない、と思った。
有村は今、明らかに私に対して何か言おうとしていた。それなのに何も言わないで帰るなんて、有村らしくない。
あいつが、今まで私に遠慮したことなんて、一度もなかったのだから。
もしかして、誤解した……?
まさかとは思うけど、島津のことを誤解したのかもしれない。
そう思うと、もうじっとしていられなかった。私は有村の後を追って、教室を飛び出した。階段の途中で前を行く有村を見つけ、思わず叫んだ。
「有村!」
有村がふり向く。私は階段をかけ下りて有村のそばまで行くと、一気にしゃべった。
「ちょっと、なんか、誤解してない? 島津は、その、えっと、ただの友達なんだからね」
有村は覇気のない顔でじっと私を見つめ、それからいつものニコニコした笑顔を浮かべた。
「そんなこと言うために走ってきたのか? 大丈夫、心配すんな。俺、絶対に誰にも言わねえし。ちゃんと応援してやるから」
ぽん、と大きな手が私の頭に乗った。私は首をふって、その手を払いのけた。
ふいに、涙がこみ上げてきた。
「……松ぼっくり?」
有村が屈んで、うつむく私の顔をのぞきこもうとした。
「もういい」
私は顔をそむけてその場から逃げた。泣き顔は、絶対に見られたくなかった。
髪を伸ばして、メイクをして、少しは女の子らしくなったのかな、なんて、少しでも思った私がバカだった。島津に告白されて、いい気になってた。
誰もいない教室にもどると、こらえきれなくて、涙があふれた。あふれた涙は頬をつたって、ぼろぼろこぼれる。
どんなに私が思っていても、有村には届かない。
私は、何年たっても、有村にとって小さな少年で、「松ぼっくり」でしかないんだ。
鈍感。無神経。野球バカ。ぬりかべ男。お調子者。バカ。最低。
泣きながら、心の中で有村を罵倒する言葉を思いつくかぎり並べた。
気持ちを消せる消しゴムがあったらいいのに。
もしそんなものが存在して、手に入るなら、どんなことをしてでも手に入れるのに。百個くらい買って、あいつを好きな気持ちなんか、跡形もなくきれいさっぱり消してやるのに。
私の名前を呼んだ、島津の優しい声が脳裏によみがえった。
島津なら、受け止めてくれるかもしれない。こんな私を「かわいい」と言ってくれた島津なら、私の抱えているものを全部、受け止めてくれるかもしれない……。




