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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
番外編 キャッチボール
67/88

 * * *


 中学三年の夏休みが始まる直前、私は上滝うえたき市内の野球場にいた。

 来年受験する、雛条高校の野球部が出場する試合を見るためだ。


「あーあ。また一点入っちゃった」


 がらんとした一塁側の内野席で、私の隣に座るクラスメイトが退屈そうにぼやく。

 彼女はまったく野球に興味がないので、どっちのチームが勝とうがどうでもいいといった感じだ。彼女は悪くない。一緒に雛条高校を受けるという理由だけで、私が無理やり付き合わせたのだから。


 バックスクリーンのスコアボードに「1」が表示される。

 まだ三回裏だというのに、もう六点も取られてしまった。雛高は点どころかヒットすら打っていない。このままでは、五回コールドという可能性もあり得る。


 三塁側の内野席では、対戦相手の学校の生徒と思われる一団が、大きな声をはりあげて応援をしている。一回戦で、しかも日曜だというのに熱心なことだ。

 対戦相手は、何度か甲子園にも出場している私立の野球名門校だった。今年も当然、全国大会を狙っているに違いない。


 それに比べて雛高サイドは、応援団らしき姿もなく、前列に野球部のユニフォームを着た男子たちが、数人かたまってちんまりと座っているだけ。

 ベンチ入りできなかった一、二年生だろうとは思うけれど、彼らもこの試合展開に早々と見切りをつけたのか、まったく元気がない。


「で、どうするか決めたの?」


 試合を追うことに飽きた友達が、私のほうを向いて聞いた。


「うん、まあ……決めたというか」


 私ははっきりしない返事をして、彼女から目をそらす。また打たれた。これで四打席連続ヒット。さらに一点追加。何やってんのよ、もう。

 マウンドの上のピッチャーは、既に限界だった。七点取られても交代しないところを見ると、代わりの投手がいないのかもしれない。


 弱小野球部、という言葉が頭に浮かぶ。

 それでがっかりする自分を期待したけれど、うまくいかなかった。むしろ、無駄なやる気がわいてきて、うんざりした。私って、どこまでも野球バカらしい。


「高校に行っても、野球部に入ることにしたよ」


 私が感情をこめずに答えると、彼女はたいして興味がなさそうに「ふーん」とうなずいた。


「でも、女子は公式戦には出られないんだよね?」

「うん。だから、選手としてじゃなく、マネージャーとして入部する」

「あ、選手やめるんだ?」


 あっさりと言ってくれる。その決心をつけるまで、私がどれほど悩んだと思っているんだ。

 私は立ち上がった。


「帰るの?」


 嬉しそうな顔をする彼女を見下ろして、私はひとこと「トイレ」と言った。彼女は落胆の色を顔に浮かべたけれど、すぐに気をとりなおして「ついでにアイス買ってきて」と甘えた声を出した。

 階段を降りてスタンド下の通路を歩いていると、前から、丸刈り頭のやたらと背が高い男子ふたりが走ってきた。制服を着ているので、雛高の生徒かもしれない。


「おい少年。どっちが勝ってる?」


 嫌な予感がしてふり返ると、たった今すれ違ったふたりのうちのひとり──肩幅の広いほうが、なんの疑いもなく私を見ていた。


「あんた、今なんて言った?」


 私が思いきり冷ややかな視線を送っても、相手は表情を変えようとしない。まんまるい、人懐こそうな目で私を見ると、困ったように笑って後頭部に手を添える。


「あ、もしかして中学生か。ごめんごめん」


 そこじゃないでしょ!!

 私がきっと睨みつけると、隣にいた眉の太い男子のほうが先に気づいて、きまり悪そうに彼の腕を引っ張った。


「おい、行こうぜ」

「え? ああ、うん」


 私はふたりを無視してきびすを返し、大股で歩き出す。通路の途中にある女子トイレに入ると、鏡に映っている自分をあらためて眺めてみた。


 身長は百四十五センチしかない。

 顔も、腕も、足も、見えている部分の肌は日に焼けて真っ黒。髪は短い。ベリーショートというやつだ。着ている服は、ロゴ入りの黒いTシャツにカーキ色の短パン。おまけに今日はお気に入りのニューヨーク・ヤンキースの野球帽を被っている。

 見下ろす胸は──もちろん、ぺたんこ。

 これじゃあ、男の子と間違われてもしかたないかも。


 まわりの友達は、気づいたらみんなとっくにおしゃれに目覚めていて、髪を伸ばしたり染めたり巻いたり、色つきのリップクリームを塗ったり、制服のスカートを短くしたりしている。

 出遅れてしまったことは、わかっている。

 だけど、私はそんなことをする時間があったら、練習をしたかった。髪は邪魔にならないほうがよかった。制服だからしかたないけど、スカートなんて──チームメイトに、わざわざ女だと認識させるような格好なんて、したくなかった。


 これからは、小学生の男の子に間違われる理由を、野球のせいにはできないのだ。男の子に間違われたことよりも、そのことのほうが何倍もショックだった。

 売店でアイスクリームをふたつ買ってスタンドにもどると、さっきの男子生徒ふたりが、わたしたちの座る席から少し離れたところに座っていた。雛条の生徒かと思ったけれど、よく見ると制服が違う。他校の生徒だろうか。


 眉の太い男子と目が合った。もう一度睨みつける。すると、彼は申しわけなさそうにぺこりと頭を下げた。

 隣にいる肩幅の広い男子も、私に気づいた。彼はにっこり笑って手を振ってきた。どうやら、彼のほうはまだ自分が犯した重大かつ深刻なミスに気づいていないらしい。私は知らん顔してやった。無神経なやつ。


 結局、試合は私が予想したとおり、五回コールド試合となった。十一対〇。雛高は相手ピッチャーに翻弄され、たった一本の内野安打しか打てなかった。

 球場を出るとき、例のふたり組が前を歩いていて、「雛高の野球部がここまで弱いとはなあ」とか、「俺は逆にやる気が出てきた」とか話しているのが聞こえた。

 ひょっとして、彼らも私と同じ中学生で、雛高を受験するのだろうか。まさか。




 入学式の日、私はだぼだぼの制服を着て、二号館の四階にある一年二組の教室に入った。出席番号順に指定された自分の席に着くと、後ろの席の女の子がささやいた。


「うわ、見てあの人。でっかい」


 彼女に言われるまでもない。私の目は、たった今教室に入ってきた、背が高くて肩幅が広いその男子に釘付けになっていた。

 彼は、自然な動作でひょいと頭を屈めて教室の入り口をくぐった。

 そして教室の中をひととおり見回して、同じ中学の出身らしき知り合いの男子を見つけると、人懐こい笑顔を浮かべて親しげに声をかける。


 どこかで見たことがある、と思った。

 あの顔、どこかで。どこだったっけ。

 つぎの瞬間、私は叫びそうになった。野球場で会ったふたり組のうちのひとり──最後まで私が女だと気づかなかった無神経な男子だと、思い出したからだ。

 やっぱり、野球場で会ったときは同じ中学三年だったんだ。ありえない。


 有村健吾。それが彼の名前だった。

 野球場で会ったもうひとりの男子は、富坂信太郎とみさかしんたろう。ふたりとも、雛条第一中学の野球部出身。当然のごとく、彼らは野球部に入部した。

 私は当初の予定どおり野球部のマネージャーを志願したので、嫌でも毎日彼らと顔を合わせることになった。


 雛高野球部は、思ったとおりの弱小野球部だった。

 部員数は、新入生も入れて全員で十七人。甲子園でベンチ入りできる選手は十八人だから、それよりも少ない。マネージャーは二年の先輩と私のふたり。


 部活は一応毎日、朝と放課後に練習が行われるけれど、どこかのんびりしているというか……悪く言うと、だらけている。

 あと三か月もすれば夏の大会の地区予選が始まるというのに、全然、熱気が感じられない。まあ、去年のあの試合を思い出せば、それも納得だけれど。

 朝の練習は午前七時から八時までで、放課後の練習は午後六時半まで。有村とは同じクラスだから、ほぼ一日一緒にいるようなものだ。最悪。


「おーい、松ぼっくり!」


 いつものようにジャージに着替えて野球帽を被り、昨日やり残したグラウンドの草むしりをしていると、有村が大声で叫ぶのが聞こえた。

 彼は野球場で会ったことを覚えていないばかりか、私のことを“松ぼっくり”などと小学生レベルのあだ名で呼ぶ。本当に、無神経で鈍感で最低なやつ。

 私はわざとらしく聞こえないふりをして、無視することにした。


「松ぼっくり! なあっ、おいっ。松ぼっくりっ!」


 私は立ち上がって、有村に向かって叫んだ。


「そんな大声で呼ばれて聞こえないわけないでしょ! 全身全霊で黙殺しようとしてるのがわかんないの!?」

「そこのボール、投げて!」

「人の話聞いてる!?」


 見ると、すぐ近くにボールが転がっていた。少し離れたところにいる有村が、私に向かって大きく両手を振っている。

 見てろぉ。

 私はボールを拾い、怒りにまかせて思いきり投げた。


 ボールは勢いよく走り、有村のグラブの中心に吸いこまれた。グラブの中に収まると同時に、革を打つ大きな音が響き渡る。

 ぽかんとしている有村にざまあみろと心の中で舌を出し、私は草むしりを再開した。すると、すぐに有村が走ってきて興奮気味に言った。


「何、今の。何?」

「投げろって言うから投げただけよ」

「おまえ、もしかして本当にピッチャーだったの?」


 私はじろりと有村を睨んだ。


「あー、信じてなかったんだ。言ったでしょ、敏腕投手だったって」


 有村は唖然として、それからおもむろに私の手首を握った。


「こんな細っこい腕で? なんで、あんな球投げれんの? 信じらんねー」


 突然のことに私は動転し、あわてて有村の手をふりほどいた。すると、今度は心配そうな顔をして、野球帽のつばの下から私の顔をのぞきこんでくる。


「おまえ、ちゃんと飯食ってる? 栄養が行き届いてないんじゃね?」

「う、うるさいなっ。あんたに関係ないでしょ!」


 私は草むしりを中断して、屋根付きベンチに逃げこんだ。

 手首に、有村の大きな手の感触が残っている。自分の小さなやわらかい手とは全然違う。かたくてごつごつしていて、力強い。男の子の手だった。

 思わずぼうっとしてしまい、私は頭を振った。

 あんな妖怪ぬりかべ男に、私の繊細な気持がわかってたまるもんか。それに、たしかに私の腕は細いけれど、筋肉はついているはずだ。今でも毎日、ジョギングと筋トレは欠かさない。


 有村がいると調子が狂う。

 だから必死に避けようとしているのに、あいつはそんな私の思惑に気づいているのかいないのか、全然おかまいなしで、遠慮がない。

 その後もなんらためらうことなく、有村は平気で私のことを「松ぼっくり」と呼び、まるで昔からの知り合いみたいに親しげに話しかけてきた。いつのまにか、有村のペースに巻きこまれてしまっているのが腹立たしい。




 ホームルームが終わると、紗月が私の席まで来て声をかけてくれた。


「今日は部活なんだ。美術室の窓から見えたら手を振るからね」

「わかった。私も気づいたら手を振るよ」


 彼女は油絵の道具を手にして、意気揚々と教室を出ていく。

 同じクラスの加島紗月かしまさつきは、美術部に所属している。入学してすぐに仲よくなった友達で、私はちょっとだけ、彼女のことがうらやましいと思っている。

 彼女は、すでに卒業後の進路を決めている。美大に行きたいのだと言う。子供の頃から、絵を描くのが大好きだったらしい。


 どうして世の中には、かなえられる夢とかなえられない夢があるんだろう。不公平だと思う。

 ああ、違うな。私は夢をかなえられないことを悔しがっているんじゃない。夢を見ることも許されないことに、腹を立てているのだ。


 中学までは選手でいられたのに、どうして高校だとだめなんだろう。

 どうして、女子高校生は甲子園をめざしちゃいけないんだろう。

 何度も何度も考えて、しかたがないことだと自分を納得させたはずだったのに。私は全然、あきらめきれていなかった。


 だって、あきらめたら終わってしまう。

 今まで、野球を始めた小学校三年から中学三年までの六年間、ただ野球がうまくなりたくて、ひたすら練習に打ちこんできた。その六年間が──私がやってきたことが、全部、無駄になってしまう。そんなの、嫌だ。


 グラウンドでは、部員たちが今日も元気に練習をしている。金属バットの乾いた音が春の空に響き渡り、かけ声が交わされる。

 私は今日も、ボールを磨いたり、草むしりをしたり、ベンチの掃除をしたり、日誌をつけたりする。きっと三年間、ずっと。

 野球なんかできなくても、マネージャーにはなれた。速い球を投げられなくても、絶妙なバントができなくても、誰も文句を言わない。むしろ、女の子なら当たり前って言うだろう。


 私が今までしてきたことは──あんなに、毎日必死でやってきたことは、いったいなんだったんだろう。

 急にのどのあたりが痛くなって、涙がこみあげてきた。

 バカみたい。

 目の前で私と同じ夢を追いかける男の子を、本気で応援できると思ったの?


「松ぼっくり」


 無神経な声にびくっとして、私はさっと涙をぬぐって顔を上げる。ベンチの前に有村が立っていた。逆光で、表情が影になってよく見えない。


「今日さ、俺、少しだけ居残り練習するから。付き合って」

「……は?」


 有村の声は、いつもと変わらない。明るくて、屈託のない声だった。


「なんで私が?」

「まあ、いいからいいから」


 私が返事をする前に、有村はくるりと背中を向けて練習にもどる。

 なんなの、いったい。

 いくらマネージャーだからって、個人の居残り練習にまで付き合っていられない。そう思って、グラウンド整備と片付けが終わった後、とっとと帰ろうとしたのに、有村は抜かりなく私を見張っていた。


「帰るなよ、松ぼっくり!」


 結局、付き合うはめになってしまった。


「おまえらー。適当にして帰れよー」


 顧問の宇藤先生まで、グラウンドを去ってしまう。

 有村とふたりきりになったとたん、妙に緊張し始めた。私はベンチに座って、何かやることがないか探した。何もない。


「何やってんの?」


 有村がベンチの前に立って、のぞきこんでいる。


「何って……」


 何もしてないんだけど。


「練習、付き合って」


 そう言うと、有村はいきなり私の腕をつかんで、ベンチから引っ張り出した。


「ちょっと、何よ!」


 そのまま、強引にグラウンドの中央まで引きずられる。無駄だと思いつつ抵抗を試みたけれど、まったく歯が立たなかった。有村は片腕だけで、やすやすと私をマウンドに連れていく。


「はい、ここに立って」


 そう言って私に自分のグラブを手渡し、私の手にボールを握らせる。


「投げて」


 私は唖然として手の中のボールを見つめた。それから有村の顔を見た。


「……え?」

「本気でだぞ。試合のときみたいに」


 押し黙る私を気にもせずに、有村はマウンドから走り去り、ホームベース後方のキャッチャースボックスにしゃがみこんだ。右手の拳で左手のミットをパンと鳴らし、「よし、こいっ」と叫ぶ。


 胸が高鳴り、心地いい緊張が私の全身を包む。有村が構えるミットを見つめると、ぞくぞくした。何か月も感じることができなかった──私が待ち望んでいた、ぞくぞく感だ。


 グラブの中で、ボールの縫い目に人差し指と中指をかけて、軽く握る。すぐに違和感が生じた。中学で使っていた軟球と違って、硬球は硬いうえに大きくて重い。

 それでも、ボールを握ると懐かしい感覚がよみがえった。セットポジションから足を上げる。

 左足の膝が自然に上がる。そのままホームベースに向かって、まっすぐ踏み出す。同時に振り下ろされた右腕から、ボールが離れていく。


 私が投げたボールは、思ったよりも速度を増して、有村が低めに構えたミットのど真ん中に入った。有村はまったく動かなかった。ミットも、体も。

 捕球した体勢のまま、有村はしばらくじっとしていた。それから視線を上げて私を見た。


「どうだった?」


 しゃがみこんだ姿勢のまま、マウンドにいる私にボールを投げてよこす。そのボールをグラブで受け止めて、私は意味がわからないという仕草をした。


「投げやすかったかって、聞いてんだけど」


 ああ、そういうことか。


「んー……もう一回投げさせて」


 久しぶりの感覚と、硬球を投げる新鮮な感覚とに酔ってしまって、キャッチャーの構えがどうだったかなんて気にしていなかった。有村がふたたびミットを構えたのを見て、私は投球姿勢に入る。今度はワインドアップで。


 ミットの芯がまっすぐこちらを向いている。有村の大きな体が、なぜか大きく見えない。それよりも、構えたミットのほうがどっしりとして大きく見える。

 私が投げたボールはさっきよりも低めに入り、地面すれすれのところで有村のミットにおさまった。

 最高に気持ちがいい。それに、いつも以上に球が走る。


「もう一回」


 私はそう言って、何度も投球を繰り返した。


「おーい。いいかげんにしろよ」


 十球くらい投げたところで、有村はとうとうしびれを切らして立ち上がった。


「俺は、投げやすいかどうかを聞いてんだよ。どっちなんだよ?」


 投げやすいよ。すごく。

 そう思ったけれど、素直に本心を語るのはしゃくだった。


「まあ、悪くないんじゃない?」

「えー……何それ」


 有村はがっかりしたように肩を落とした。

 そのとき、体育館のほうから宇藤先生がやってきて大声で怒鳴った。


「おいっ、おまえら! いつまでやってんだ、さっさと帰れ!」


 気がついたら、もうあたりは暗くなっていた。私はマウンドから降りてグラブをはずし、有村に返した。

 体育館の一階にある更衣室で制服に着替え、外に出てみると、有村が少し離れたところで私を待っていた。そのままふたりで校門に向かう。なぜか、一緒に帰ることになってしまった。


「おまえ、いつから野球やってんの?」


 校門からバス停まで続く下りの坂道を歩きながら、有村が聞いてきた。


「小三から。お父さんが地域の少年野球クラブの監督をしてて、お兄ちゃんもクラブに入ってたから、私も自然とやりたくなって」


 あの頃は、野球をやることになんの疑問も抱いていなかった。ほかの男の子たちと同じように、いつか甲子園に行くことを夢見ていた。


「ふーん。俺は小二。やっぱり親父が大の野球ファンで。小学生の頃は、女子の選手もけっこういたんだけどな。中学に入ったら、みんなやめちゃったな」


 有村の口調は自然だった。女子が野球をやることに対して何か考えがあるという感じではなく、ただ事実を述べているだけのようだ。それがうれしくて、私はつい、警戒を解いてしまった。


「私も、そのあたりでさっさと踏ん切りつけて、ソフトボールに転向しておけばよかったな。そうしたら、こんなにつらい思いしなくてすんだもん」


 自嘲気味に笑いながら言った私の言葉を、有村は黙って聞いていた。いつもなら、すぐに茶化してくるくせに、今日は何も言わない。

 調子が狂った。私は急いでどうでもいい話題に切り替えた。


「うちのお父さん、いい年して野球マンガが大好きでね。家の中、野球マンガだらけなんだよね。古いのから新しいのまで。有村はマンガとか読む?」

「読むよ。つか、野球マンガを読まない野球少年なんかいるのか?」

「だよねっ。私も大好き」


 バス停には誰もいなかった。時刻表を見ると、次のバスがやってくるまで十分ある。


「私がいちばん好きなのはね、『野球場の歌』」

「古っ!! おまえそんな古いマンガ、どこで見つけてきたんだよ? 俺だって噂に聞いただけで、読んだことねーよ」

「だから、お父さんのコレクションなんだってば! それに、古いけどすごく面白いんだもん」


 私の必死の言い訳を、有村がくつくつ笑いながら聞いている。


「たしか、プロ野球界初の女性投手が活躍する話だよな?」

「そう!」


 私はますますうれしくなって、自然と声が高くなった。『野球場の歌』はあまりにマニアックすぎて、今までにこの話題で盛り上がった友達は、男女問わずひとりもいなかったのだ。


「主人公がね、女性だっていう理由でいろいろな壁にぶつかるんだけど、まわりの人に助けられながら、ひとつひとつ自分のやりかたで乗り越えていくの。読んでてワクワクしたなー」


 はじめて読んだときはまだ小学生で、その頃は本気で信じていた。女性のプロ野球選手が存在することを。


「いちばん記憶に残ってるのは、主人公がマウンドでピンチに立たされたとき、心の中で好きな人の名前をつぶやくシーンなんだよね。あれは、感動だったなあ」

「ふーん。それ、松ぼっくりもやったことあんの?」

「えっ。な、ないよ、そんなの」


 私は、あからさまにうろたえてしまった。すると、隣で有村が遠慮のない笑い声をあげた。


「まー、そうだよな。松ぼっくりには、男よりアイスクリームのほうが似合ってるな」

「……は?」


 ただ単にからかわれただけかと思った。けれど、含みを持たせる言い方が気になって、有村の顔を見上げると、有村はにやにやしながら私の胸のあたりを見下ろしている。


「おまえさ、ほんとにもうちょっと栄養のつくもん食ったら? 去年の夏から全然成長してねーよな、その胸」

「……!!」


 言葉にならない叫び声をあげて、私は両腕で胸を押さえこむ。口をぱくぱくさせている私を、有村は余裕のほほえみで見下ろしている。

 バスが来た。回転地に入って、私たちの前で止まる。扉が開くと、茫然としている私を残して有村が先にステップを上がる。私もわれに返り、急いでバスに乗りこむ。


「きっ……き……気づいてたの? いつから!?」


 バスが発車して回転地を出ると同時に、私は有村の横に並んで立った。背が高い有村は、つり革ではなくつり革がぶら下がっているポールのほうをつかんでいる。


「つい最近」


 思い出したらしく、有村は笑いをかみ殺した。


「いやー悪かったよ、ホント。てっきり小学生だと思ったからさ。まさか俺と同じ中三だったとは」


 こらえきれなくなったように、笑い出す。私は冷ややかに突っこんだ。


「微妙に核心をずらしてません?」

「あ、バレた?」


 有村がちっとも罪悪感を抱いていないようなので、私はむくれた。


「いいですよ、もう。どうせ私は胸も身長も色気もないし。彼氏もいないし」

「そこまで聞いてない」

「さらっと流してよ、気が利かないなあっ」

「でも、いい球投げるじゃん」


 私ははっとして、言葉の意味をたしかめようと、有村の顔を見た。ふざけているのでもからかっているのでもない、やわらかな笑顔が私を見下ろしていた。


「指は平気?」


 指?


「硬球に慣れてないだろ」


 ああ、そういう意味か。

 私は吊革を左手に持ちかえて、右手の指をたしかめた。少し赤くなっている。投げているときは夢中で、指に負担がかかっていることに気づかなかった。


「どうして、私だったの?」


 ふと思いついて聞いてみると、有村が首を傾げた。


「居残り練習の相手」


 現時点での雛高のエースは、三年生だった。入部したての一年が、居残り練習の相手に三年の先輩を付き合わせるのは、たしかに気が引ける。しかも正捕手はほかにいて、有村はレギュラーじゃない。

 でも、控えの投手の中には、今年入った一年生もいる。なぜ、そっちに頼まなかったのだろう。いくら中学時代に投手の経験があるからって、私はもう選手じゃないのに。


「信用できると思ったから」


 有村はさらりと言った。あたりまえのように。なんのためらいもなく。


「それに、男は自分がどう感じたかなんて、いちいち言わないからさ。松川は思ったことをはっきり言うから、きっと正直な感想が聞けると思って」


 急に胸が痛み始めた。そんなことを言われたら、さっき正直に言わなかった自分のことがすごく恥ずかしくなる。


「ごめん。私、ウソついた」


 窓の外が明るくなって、駅に着いたのだとわかった。駅前の停留所でバスが止まり、扉が開く。乗客がつぎつぎとバスを降りていく。


「本当は、すごく投げやすかったの」


 私はそう言うと、有村より先にバスを降りて、彼がバスを降りてくるのを待たずにダッシュで家に帰った。


 その日の夜は、なかなか眠れなかった。

 有村が言った言葉が、いつまでも頭を離れなかった。

 もしかしたら、マネージャーの仕事以外にも、まだ私にできることがあるかもしれない。

 私は選手として試合に出ることはできないけれど、今まで積み重ねてきた私の六年間の経験が、誰かの役にたつことがあるのかもしれない。


 まだ、終わっていない。

 小さな音をたてて、心臓が駆けだす。プレイボールの声を聞く直前の、ぞくぞくする感じがよみがえった。




 最近、有村と紗月がふたりで話しているところをよく見かける。

 それも、教室の中ではなくて、たいてい廊下とか昇降口とかの目立たないところで。何を話しているのかは、わからない。

 紗月は、引っ込み思案で自分から話しかけることはほとんどしない。特に男子には絶対に話しかけない。ということは、有村から話しかけているということになる。


 紗月はかわいいと思う。いかにも女の子、という感じがする。

 ストレートの黒髪はつやがあってとてもきれいだし、私と違って肌の色は白いし、笑うと右の頬にできるえくぼもかわいい。おとなしくて控えめで、優しくて、たぶん男の子に好かれるタイプだ。

 有村も、やっぱりああいうタイプが好きなのかな。


「最近、紗月と仲いいね」


 放課後の練習が始まる前に、道具の準備をしていた有村に声をかけた。こういうとき、どうして黙っていられないんだろうなあ私。

 案の定、有村はにやにやして「おっ。ヤキモチ?」と聞いてくる。


「ばーか。そんなわけないでしょ。紗月のことが心配だから聞いたの。あんた、しつこくしたりしてないでしょうね?」


 紗月に聞いたら彼氏はいないと言っていたから、ふたりがこれからそうなる可能性もあるわけだ。

 あれ。なんだろ、このモヤッとする感じ。


「え? あー、違うって。そういうんじゃない」


 有村は困ったように言葉を濁して、準備に集中するふりをした。

 はぐらかされてしまった。別にいいけど。関係ないし。あー、やっぱりウソ。ものすごく気になる。これってヤキモチ? いやいや、それはないでしょー。うん。

 だけど、無神経で鈍感で軽いだけのやつだと思っていた有村が、本当はそうでもないらしいということに、最近気づいたのもたしかだった。


 少し前、有村が六組の生徒と喧嘩をした。

 昼休みに学食へ向かう途中でその生徒に呼び止められて、ふたりで何か話していたかと思うと、有村がいきなりその生徒を殴ったのだった。

 私はその場に一緒にいて、ふたりの会話を聞いてはいたけれど、その生徒のことも、ふたりが話していたイチノセとかマドカとかいう人のことも知らないから、話の内容はよくわからない。

 だけど、有村が誰かをかばったことだけはわかった。


 有村が本気で怒るところを初めて見た。いつも調子のいいことばかり言って、へらへら笑っているから、キレることなんかないのかと思っていた。ちょっと驚いた。

 いったい誰をかばったんだろう。 

 もしかして、紗月?


 そう考えたとたん、胸がざわめいた。認めたくなかったけれど、やっぱり私は嫉妬しているのかもしれない。

 そのことに気づいたら、隠していることができなくなった。私は嘘をついたり隠しごとをしたりするのが、すごく苦手だ。


「いつも、有村と何を話してるの?」


 昼休みに一緒にお弁当を食べているとき、紗月に聞いてみた。とたんに、紗月はうろたえた顔をする。


「別に……その、大したことじゃないよ。いつもってわけじゃないし」

「でも、ほかの男子とはしゃべらないよね? 有村とだけ、しゃべってるよね?」


 戸惑う紗月の顔をじっと見る。やがて、紗月ははっとしたように目を見開いた。


「あ、えっと、亜衣は、その……」

「自分でも、まだよくわからないんだけどね。私、あいつのことが気になるみたい」


 紗月の顔がほころんだ。なぜか、ほっとしたような顔をしている。


「そっかあ。ごめんね、気づかなくて。でも、私と有村くんはそういうんじゃないから安心して。えっと、共通の友達がいて、その友達のことで、ちょっと相談にのってもらってたっていうか」

「あ、そうなんだ。そっか」


 胸のざわめきが一瞬で遠ざかる。私は紗月に笑い返した。


「よかった。もし紗月がライバルになったら、絶対にかなわないなって思ってたんだ」

「何言ってんの?」


 紗月がむきになって言い返した。


「有村くんは、亜衣と話すときは全然違うよ。すごく自然に話してる感じがする」

「あー、それはたぶん、あいつが私のことを意識してないからだな。きっと女だと思ってないんだよ」

「そんなこと……」


 もごもごと、正直な紗月は口ごもった。


「いいんだ。自分でもわかってるし。私って女の子らしくないもん。しょうがないよね」

「髪、伸ばしてみたら?」


 紗月が思いついたように言う。私はありえないとばかりに、顔の前で大きく手を振った。


「似合わないって、そんなの」

「そうかなあ」


 つやがあってまっすぐな紗月のきれいな髪をちらりと見て、私は「そうだよ」と言った。


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