1
日曜日の雛条高校はとても静かだった。
一号館の四階にある懐かしい三年一組の教室は、最後に見た卒業式の日から何ひとつ変わっていないように見える。
四角い空間に整然と並ぶ机とイス。飾り気のない丸い時計。掲示板の時間割表。
黒板には、金曜日の日付で日直の名前が書き残されている。
私は南側の窓のそばに歩みより、机の上に腰かけてグラウンドを見下ろした。バックネットのある一角で、野球部が練習をしている。
バッターボックスに立ってノックをしているのは、今年四十一歳になる野球部顧問の宇藤先生──ではなく、二十五歳の有村健吾だった。
親戚の法事に出ている宇藤先生の代わりに、今日は一日、健吾が野球部のコーチを引き受けることになったのだ。ときどき、そういうことがある。
ユニフォームを着た健吾が外野に向かって大声で叫び、バットを振った。高校野球特有の、金属バットの乾いた鋭い音が響き、ボールが空高く飛ぶ。
まだ、この音を聞くと胸がどきどきする。
無意識に体が反応して、うずうずしてしまう。
ユニフォームに袖を通さなくなって、夜中に素振りをしなくなって、ボールを握らなくなって、もう十年も経つのに。おかしいな。
でも、だから、こうしてひとりにされても意外と平気なのかもしれない。
彼氏がデートの約束よりも野球部の練習を優先させたら、彼女としては、普通は怒るべきなのかもしれないけれど、私は「しょうがないか」とあっさり納得してしまうのだ。
きっと、まだ私の中には、野球選手だった頃の情熱がくすぶっているんだろう。完全燃焼できないまま。永遠に。
物思いから我に返って、ふとグラウンドを見ると、健吾の姿がない。
バッターボックスに立っているのは、七月の地区予選敗退の後、新しくキャプテンに選ばれた二年生のようだ。遠目にも、さっきまでバットを振っていた健吾より体が小さく、ほっそりしているのがわかる。
どこへ行ったんだろうと思ったら、パタパタと、廊下を歩いてくるスリッパの音がした。
「あー疲れた」
ひょいと頭を屈めて教室の入り口をくぐるのは、たぶん条件反射なんだろう。彼は、この高校に入学した当初から──同じクラスになったときから、すでにそうしていたような気がする。
健吾は私の隣の机に腰掛けて、タオルで顔の汗を拭う。
「もうバテたの? だらしないなあ」
午前九時に練習が始まってから、まだ二時間しか経っていない。健吾は目を細めて、面白くなさそうな顔をした。
「バテてない。ちょっと腹が減っただけ」
そう言って、ちらりと私の横にあるトートバッグを見る。トートバッグの中には、今朝、早起きして作ったふたり分のお弁当が入っている。
「あーっ。ひょっとして、ひとりだけ早弁するつもり?」
「もう限界で。ちょっとだけ、ダメ?」
「ダメ!」
私は窓の外を指さした。
「彼らに申しわけないと思わないの? あと一時間くらい我慢しなさい!」
健吾は悲しそうな顔をして肩を落としたけれど、すぐにいつもの人懐こい笑顔に変わる。その笑顔が、懐かしいものを見るように優しかったので、私は思わずどきっとしてしまう。
「退屈してない?」
窓の外のグラウンドを見下ろしながら言う。
「してないよ」と、私はきっぱり答える。事実、退屈はしていない。
「退屈しないってわかってたから、ついて来たんだし」
そう言うと、健吾は私を見て、さっきと同じ笑顔を向けた。
「グラウンドに来ればいいのに」
そんなに好きなら──わざと言わない台詞が同時に届いたけれど、私は気づかないふりをして、首を横に振った。
「日焼けするの嫌だし、ここからのほうがよく見えるから」
もちろん、嘘だった。
バックネットのそばには、昔と同じように屋根付きのベンチがあって、そこにいれば日焼けなんか気にしなくてすむ。ここから見るより、ずっと近くでボールを追える。
でも、あの場所には行きたくない。あそこには、いろいろな思い出がありすぎる。
グラウンドから隣に視線を移すと、健吾がじっとこちらを見ている。私が今何を考えているのか、私の表情から必死に読み取ろうとしている。
その真剣なまなざしに、胸がきゅんとなった。
「今日は、早めに終わる予定だからさ」
健吾が言った。
「久しぶりに、投げてみる?」
予想していなかった申し出だ。私はしばらく考えて、悪くないかもと思った。
「ヘナチョコでも笑わない?」
冗談めかして言ったのに、健吾は真剣な顔のまま「笑わない」と言った。そして「そろそろもどるわ」と言い残して、教室を出ていく。
あのときもそうだったな。
古い記憶がよみがえる。
どうにもならないことを受け入れるしかないということに、私は納得しているつもりで、だけど全然納得していなくて、ひとりで悩んでいたとき。
ふっきれたのは、彼のおかげだった。




