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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
番外編 キャッチボール
66/88

 日曜日の雛条ひなじょう高校はとても静かだった。


 一号館の四階にある懐かしい三年一組の教室は、最後に見た卒業式の日から何ひとつ変わっていないように見える。

 四角い空間に整然と並ぶ机とイス。飾り気のない丸い時計。掲示板の時間割表。

 黒板には、金曜日の日付で日直の名前が書き残されている。


 私は南側の窓のそばに歩みより、机の上に腰かけてグラウンドを見下ろした。バックネットのある一角で、野球部が練習をしている。

 バッターボックスに立ってノックをしているのは、今年四十一歳になる野球部顧問の宇藤うどう先生──ではなく、二十五歳の有村健吾ありむらけんごだった。


 親戚の法事に出ている宇藤先生の代わりに、今日は一日、健吾が野球部のコーチを引き受けることになったのだ。ときどき、そういうことがある。

 ユニフォームを着た健吾が外野に向かって大声で叫び、バットを振った。高校野球特有の、金属バットの乾いた鋭い音が響き、ボールが空高く飛ぶ。


 まだ、この音を聞くと胸がどきどきする。

 無意識に体が反応して、うずうずしてしまう。

 ユニフォームに袖を通さなくなって、夜中に素振りをしなくなって、ボールを握らなくなって、もう十年も経つのに。おかしいな。


 でも、だから、こうしてひとりにされても意外と平気なのかもしれない。

 彼氏がデートの約束よりも野球部の練習を優先させたら、彼女としては、普通は怒るべきなのかもしれないけれど、私は「しょうがないか」とあっさり納得してしまうのだ。

 きっと、まだ私の中には、野球選手だった頃の情熱がくすぶっているんだろう。完全燃焼できないまま。永遠に。


 物思いから我に返って、ふとグラウンドを見ると、健吾の姿がない。

 バッターボックスに立っているのは、七月の地区予選敗退の後、新しくキャプテンに選ばれた二年生のようだ。遠目にも、さっきまでバットを振っていた健吾より体が小さく、ほっそりしているのがわかる。

 どこへ行ったんだろうと思ったら、パタパタと、廊下を歩いてくるスリッパの音がした。


「あー疲れた」


 ひょいと頭を屈めて教室の入り口をくぐるのは、たぶん条件反射なんだろう。彼は、この高校に入学した当初から──同じクラスになったときから、すでにそうしていたような気がする。

 健吾は私の隣の机に腰掛けて、タオルで顔の汗を拭う。


「もうバテたの? だらしないなあ」


 午前九時に練習が始まってから、まだ二時間しか経っていない。健吾は目を細めて、面白くなさそうな顔をした。


「バテてない。ちょっと腹が減っただけ」


 そう言って、ちらりと私の横にあるトートバッグを見る。トートバッグの中には、今朝、早起きして作ったふたり分のお弁当が入っている。


「あーっ。ひょっとして、ひとりだけ早弁するつもり?」

「もう限界で。ちょっとだけ、ダメ?」

「ダメ!」


 私は窓の外を指さした。


「彼らに申しわけないと思わないの? あと一時間くらい我慢しなさい!」


 健吾は悲しそうな顔をして肩を落としたけれど、すぐにいつもの人懐こい笑顔に変わる。その笑顔が、懐かしいものを見るように優しかったので、私は思わずどきっとしてしまう。


「退屈してない?」


 窓の外のグラウンドを見下ろしながら言う。

「してないよ」と、私はきっぱり答える。事実、退屈はしていない。


「退屈しないってわかってたから、ついて来たんだし」


 そう言うと、健吾は私を見て、さっきと同じ笑顔を向けた。


「グラウンドに来ればいいのに」


 そんなに好きなら──わざと言わない台詞が同時に届いたけれど、私は気づかないふりをして、首を横に振った。


「日焼けするの嫌だし、ここからのほうがよく見えるから」


 もちろん、嘘だった。

 バックネットのそばには、昔と同じように屋根付きのベンチがあって、そこにいれば日焼けなんか気にしなくてすむ。ここから見るより、ずっと近くでボールを追える。

 でも、あの場所には行きたくない。あそこには、いろいろな思い出がありすぎる。


 グラウンドから隣に視線を移すと、健吾がじっとこちらを見ている。私が今何を考えているのか、私の表情から必死に読み取ろうとしている。

 その真剣なまなざしに、胸がきゅんとなった。


「今日は、早めに終わる予定だからさ」


 健吾が言った。


「久しぶりに、投げてみる?」


 予想していなかった申し出だ。私はしばらく考えて、悪くないかもと思った。


「ヘナチョコでも笑わない?」


 冗談めかして言ったのに、健吾は真剣な顔のまま「笑わない」と言った。そして「そろそろもどるわ」と言い残して、教室を出ていく。


 あのときもそうだったな。


 古い記憶がよみがえる。

 どうにもならないことを受け入れるしかないということに、私は納得しているつもりで、だけど全然納得していなくて、ひとりで悩んでいたとき。

 ふっきれたのは、彼のおかげだった。


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