エピローグ
九月の半ばの日曜日。
何もすることがなくて、澪入山に登った。
来月行われる運動会のリレーには、今年も俺と熊井が出ることになった。
加島がいなくなって、女子の五十メートル走のタイムは熊井が一番になったけれど、あんまりうれしそうじゃない。
俺も、今年はリレーの練習をさぼってばかりいる。
加島の代わりにリレーに出ることになった女子は活発でおしゃべりで、熊井と同じく体育が得意だった。バトンを渡し損なったり、落としたりもしない。
空は晴れていて明るい。
これ以上ない行楽日和だ。
でも、山の中に入ると、思ったよりも空気が冷たかった。この前、夏休みに登ったときと、全然違う。
リュックを背負ったハイカーの人たちと、何度かすれ違った。みんな笑顔で「こんにちは」と挨拶をする。
汐崎に教えてもらった道は、ちゃんと覚えていた。
山頂に向かう登山道の途中で、クスノキのある場所に続く細い道に入ると、あたりはいっそう暗くなった。湿った土と緑の匂いが濃くなり、空気は冷たくなる。
途中で登山コースを外れてから、誰にも会わなかった。
なのに、クスノキの前には人がいた。
誰もいないと決めこんでいたから、ちょっと驚く。
こっちの気配に気づいて彼女がふり向き、「こんにちは」と言う。俺もどきどきしながら「こんにちは」と言った。
彼女はおかしな格好をしていた。
だぼだぼの白いTシャツに、穴だらけのジーパン。どちらも泥だらけで、汚らしい。腰まである長い髪はボサボサ。若い女の人なのに。しかも手ぶら。
ちょっと、変な人かもしれない。
それ以上近づけず、離れて見ていると、彼女が俺を見てにっこり笑った。服は汚いし髪もボサボサだけど、笑った顔はとてもきれいだった。変な人じゃないかも。
彼女はクスノキの根もとにしゃがみこんで、落ちている葉っぱを一枚拾った。真ん中で折り曲げて、鼻に近づける。
「わー、いい匂い」
すうーっと大きく鼻から息を吸いこんで、うっとりとした様子で言う。
俺が見ていると、彼女が俺に持っていた葉っぱを差し出した。
「嗅いでみる? すごくいい匂いがするよ」
何も考えずに、受け取ってしまった。
おそるおそる鼻を近づけて葉の匂いを嗅ぐと、爽やかな強い香りがする。どこかで嗅いだような、なつかしい匂い。
クスノキの葉って、こんな匂いがするんだ。
木を見上げる。
頭上を埋めつくす枝と葉は、互いに重なり合わないように広がり、空を背景に複雑なモザイク模様を描いている。
高いところの枝が揺れて、葉がざわめく。とても静かに。ささやくように。
「あ、ヒガンバナ」
俺の背後で彼女がささやいた。
ふり返ると、クスノキから少し離れた林の中に、線香花火のような赤い花が、何本もまとまって咲いている。
「この花、葉っぱがないの。おもしろいでしょ」
赤い花の前にしゃがみこんだ彼女が、俺を見て言った。
たしかに、花の根もとにあるのは地面からまっすぐに伸びた茎だけ。
「どうして葉っぱがないの?」
やっぱり変な人かも、と思いながら、俺は聞いてしまった。彼女が満足そうな目を向けて、説明する。
「葉っぱはね、花が枯れた後に生えるの。そして寒い冬の間にじっくり光合成をして、栄養分を蓄えて、春になると枯れるの」
「でも、普通は春に芽が生えるんじゃないの?」
さらに質問すると、彼女はうれしそうにほほえんだ。
「そうだよね。冬って、たいていの植物は葉が枯れるもんね。でも逆に言うと、冬なら、ほかの植物に邪魔されることなく、思いっきり陽射しを浴びることができるじゃない? だから、わざと寒い冬を選んで、冬でも枯れないしくみを考えたんだと思う。春に芽を出すと、みんなと競争しなくちゃいけないから」
まるで、植物に意思があるみたいな言い方だ。そんなわけないよなあと思ったけれど、口には出さなかった。
「植物の力をバカにしちゃダメだよ。私たちはねえ、花や木や草や、虫やカビや細菌たちのおかげで生きていられるんだよ」
花や木はともかく、どうしてカビや細菌が出てくるのかまったくわからないが、とりあえずうなずいておいた。
「ヒガンバナはね、花と葉が出会うことがないから、別名『葉見ず花見ず』って呼ばれているの。あと、出会うことがなくても花は葉を思い、葉は花を思う──っていう意味で『相思華』とかね」
そう語ったときの彼女の声は、とてもやさしくて、静かで、俺は一瞬どきっとした。
「この花がここで咲いてるってことは……やっぱり、ここには誰か住んでたんだね、昔」
彼女はつぶやくようにそう言って、立ち上がった。
「どうして?」
俺を見下ろす彼女の笑顔が、ほんのわずか、さびしそうに見えた。
「ヒガンバナは、種を作らない花だから。風や昆虫に種が運ばれて、遠い場所で芽吹くなんてこともない。こんな山の中に、自然に芽が生えるということは、ありえないの。誰かが、そこに球根を植えないかぎり」
俺はクスノキの伝説を思い出した。
村の娘は、クスノキが伐られた後、ここで切り株から芽が出るのを待ち続けた。十六年も。
「もしも彼女が植えたのだとしたら──」
ふり返って、背後にそびえる大きな木を仰ぎ見る。
「どうして、この花を植えたんだろうね。そんな大昔に、花言葉を知ってるはずもないのに」
「花言葉?」
「ヒガンバナの花言葉はね、『再会』なんだよ」
彼女は淋しそうに──だけど少しだけうれしそうに、ほほえんだ。
その笑顔に一瞬見とれて、はっとして視線をそらす。
クスノキは、俺たちの会話を聞いているのかいないのか、やっぱり静かにささやいている。
あ。俺、今おかしなこと考えたな。クスノキが会話を聞いている、なんて。そんなことありえないのに。
この変な女の人のせいだ。
「今、変な人って思ったでしょ?」
彼女が笑いながら睨む。
心の中を言い当てられて、俺は焦った。どうしてわかったんだろう?
「私は、ただの大学生だよ。農学部なの」
ノーガクブ?
彼女はクスノキの向こう側に移動し、「今は夏休みで、旅行中なんだ」という声だけが聞こえてきた。
ガサゴソと音がしたかと思うと、彼女が大きなリュックを背負って現れる。
彼女の身長の半分以上もある、ものすごく大きなリュック。これまた、あちこち破れてボロボロで、ゴミ捨て場で拾ってきたみたいに汚い。
「じゃあ、またね」
そう言って、彼女はにっこり笑うと、俺に手を振った。つられて俺も手を振り返す。
彼女が大股でその場を立ち去ると、あたりはしんと静まり返った。風が吹くたび、高いところでクスノキが揺れるだけ。
変な人。
またね、なんて。もう会うことないのに。
視界の隅で、赤い花が揺れる。
人目につかない場所で、ひっそりと咲いている花。
一生出会うことのない葉と花が、互いに思いをつなげて生きている。
もしも彼女が植えたのだとしたら。
待っていたんだろうな、きっと。
いつか会えると信じて。
俺の背後でクスノキがささやく──。
『きっとまた会える』
<fin>
ここまで読んでくださってありがとうございました!
書けなかったエピソードがたくさんあるので、番外編描きます。
よかったらまたお付き合いください。




