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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
エピローグ
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エピローグ

 九月の半ばの日曜日。

 何もすることがなくて、澪入山に登った。


 来月行われる運動会のリレーには、今年も俺と熊井が出ることになった。

 加島がいなくなって、女子の五十メートル走のタイムは熊井が一番になったけれど、あんまりうれしそうじゃない。


 俺も、今年はリレーの練習をさぼってばかりいる。

 加島の代わりにリレーに出ることになった女子は活発でおしゃべりで、熊井と同じく体育が得意だった。バトンを渡し損なったり、落としたりもしない。


 空は晴れていて明るい。

 これ以上ない行楽日和だ。


 でも、山の中に入ると、思ったよりも空気が冷たかった。この前、夏休みに登ったときと、全然違う。

 リュックを背負ったハイカーの人たちと、何度かすれ違った。みんな笑顔で「こんにちは」と挨拶をする。


 汐崎に教えてもらった道は、ちゃんと覚えていた。

 山頂に向かう登山道の途中で、クスノキのある場所に続く細い道に入ると、あたりはいっそう暗くなった。湿った土と緑の匂いが濃くなり、空気は冷たくなる。

 途中で登山コースを外れてから、誰にも会わなかった。


 なのに、クスノキの前には人がいた。

 誰もいないと決めこんでいたから、ちょっと驚く。

 こっちの気配に気づいて彼女がふり向き、「こんにちは」と言う。俺もどきどきしながら「こんにちは」と言った。


 彼女はおかしな格好をしていた。

 だぼだぼの白いTシャツに、穴だらけのジーパン。どちらも泥だらけで、汚らしい。腰まである長い髪はボサボサ。若い女の人なのに。しかも手ぶら。


 ちょっと、変な人かもしれない。

 それ以上近づけず、離れて見ていると、彼女が俺を見てにっこり笑った。服は汚いし髪もボサボサだけど、笑った顔はとてもきれいだった。変な人じゃないかも。

 彼女はクスノキの根もとにしゃがみこんで、落ちている葉っぱを一枚拾った。真ん中で折り曲げて、鼻に近づける。


「わー、いい匂い」


 すうーっと大きく鼻から息を吸いこんで、うっとりとした様子で言う。

 俺が見ていると、彼女が俺に持っていた葉っぱを差し出した。


「嗅いでみる? すごくいい匂いがするよ」


 何も考えずに、受け取ってしまった。

 おそるおそる鼻を近づけて葉の匂いを嗅ぐと、爽やかな強い香りがする。どこかで嗅いだような、なつかしい匂い。

 クスノキの葉って、こんな匂いがするんだ。


 木を見上げる。

 頭上を埋めつくす枝と葉は、互いに重なり合わないように広がり、空を背景に複雑なモザイク模様を描いている。

 高いところの枝が揺れて、葉がざわめく。とても静かに。ささやくように。


「あ、ヒガンバナ」


 俺の背後で彼女がささやいた。

 ふり返ると、クスノキから少し離れた林の中に、線香花火のような赤い花が、何本もまとまって咲いている。


「この花、葉っぱがないの。おもしろいでしょ」


 赤い花の前にしゃがみこんだ彼女が、俺を見て言った。

 たしかに、花の根もとにあるのは地面からまっすぐに伸びた茎だけ。


「どうして葉っぱがないの?」


 やっぱり変な人かも、と思いながら、俺は聞いてしまった。彼女が満足そうな目を向けて、説明する。


「葉っぱはね、花が枯れた後に生えるの。そして寒い冬の間にじっくり光合成をして、栄養分を蓄えて、春になると枯れるの」

「でも、普通は春に芽が生えるんじゃないの?」


 さらに質問すると、彼女はうれしそうにほほえんだ。


「そうだよね。冬って、たいていの植物は葉が枯れるもんね。でも逆に言うと、冬なら、ほかの植物に邪魔されることなく、思いっきり陽射しを浴びることができるじゃない? だから、わざと寒い冬を選んで、冬でも枯れないしくみを考えたんだと思う。春に芽を出すと、みんなと競争しなくちゃいけないから」


 まるで、植物に意思があるみたいな言い方だ。そんなわけないよなあと思ったけれど、口には出さなかった。


「植物の力をバカにしちゃダメだよ。私たちはねえ、花や木や草や、虫やカビや細菌たちのおかげで生きていられるんだよ」


 花や木はともかく、どうしてカビや細菌が出てくるのかまったくわからないが、とりあえずうなずいておいた。


「ヒガンバナはね、花と葉が出会うことがないから、別名『葉見ず花見ず』って呼ばれているの。あと、出会うことがなくても花は葉を思い、葉は花を思う──っていう意味で『相思華』とかね」


 そう語ったときの彼女の声は、とてもやさしくて、静かで、俺は一瞬どきっとした。


「この花がここで咲いてるってことは……やっぱり、ここには誰か住んでたんだね、昔」


 彼女はつぶやくようにそう言って、立ち上がった。


「どうして?」


 俺を見下ろす彼女の笑顔が、ほんのわずか、さびしそうに見えた。


「ヒガンバナは、種を作らない花だから。風や昆虫に種が運ばれて、遠い場所で芽吹くなんてこともない。こんな山の中に、自然に芽が生えるということは、ありえないの。誰かが、そこに球根を植えないかぎり」


 俺はクスノキの伝説を思い出した。

 村の娘は、クスノキが伐られた後、ここで切り株から芽が出るのを待ち続けた。十六年も。


「もしも彼女が植えたのだとしたら──」


 ふり返って、背後にそびえる大きな木を仰ぎ見る。


「どうして、この花を植えたんだろうね。そんな大昔に、花言葉を知ってるはずもないのに」

「花言葉?」

「ヒガンバナの花言葉はね、『再会』なんだよ」


 彼女は淋しそうに──だけど少しだけうれしそうに、ほほえんだ。

 その笑顔に一瞬見とれて、はっとして視線をそらす。

 クスノキは、俺たちの会話を聞いているのかいないのか、やっぱり静かにささやいている。


 あ。俺、今おかしなこと考えたな。クスノキが会話を聞いている、なんて。そんなことありえないのに。

 この変な女の人のせいだ。


「今、変な人って思ったでしょ?」


 彼女が笑いながら睨む。

 心の中を言い当てられて、俺は焦った。どうしてわかったんだろう?


「私は、ただの大学生だよ。農学部なの」


 ノーガクブ?

 彼女はクスノキの向こう側に移動し、「今は夏休みで、旅行中なんだ」という声だけが聞こえてきた。

 ガサゴソと音がしたかと思うと、彼女が大きなリュックを背負って現れる。

 彼女の身長の半分以上もある、ものすごく大きなリュック。これまた、あちこち破れてボロボロで、ゴミ捨て場で拾ってきたみたいに汚い。


「じゃあ、またね」


 そう言って、彼女はにっこり笑うと、俺に手を振った。つられて俺も手を振り返す。

 彼女が大股でその場を立ち去ると、あたりはしんと静まり返った。風が吹くたび、高いところでクスノキが揺れるだけ。


 変な人。

 またね、なんて。もう会うことないのに。


 視界の隅で、赤い花が揺れる。

 人目につかない場所で、ひっそりと咲いている花。

 一生出会うことのない葉と花が、互いに思いをつなげて生きている。


 もしも彼女が植えたのだとしたら。

 待っていたんだろうな、きっと。

 いつか会えると信じて。


 俺の背後でクスノキがささやく──。


『きっとまた会える』







                         <fin>

ここまで読んでくださってありがとうございました!

書けなかったエピソードがたくさんあるので、番外編描きます。

よかったらまたお付き合いください。

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