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昨日の騒ぎが嘘のように、クスノキのまわりは静まりかえっていた。
「あ、ほんとだ。いい匂いがする」
地面に落ちていた、まだ青いクスノキの葉を拾って半分に折り、加島が鼻を近づける。
「なんだろ、この匂い。ハーブに似てる……?」
「樟脳だよ、防虫剤の。ナフタレンやピレスロイド系の防虫剤が出る前は、クスノキから作った樟脳が使われてたんだ。だから、クスノキは『薬の木』が語源だという説もある」
澪入山の木々の多くは、まだ新芽を開いていない。寒々とした枝ばかりが目立つ林の中にあって、常緑樹のクスノキは冬でも変わらず緑の葉を茂らせている。
CMと広告の撮影は無事に終わり、撮影隊は昨日のうちに東京に帰った。俺と加島は、帰りを一日延ばすことにした。地元なので実家に泊まればいいわけだし、今日は日曜なので急いで帰る必要もない。
「うるさかっただろうねー、急にあんな大勢の人が押しかけて」
俺の隣で、加島がクスノキを見上げてなんのためらいもなく言ったので、つい笑ってしまった。
加島がふしぎそうな顔をする。
「私、何かおかしなこと言った?」
「いや、別に」
加島にとっては、あたりまえなんだろうな。クスノキに意思があるということが。
「市之瀬くんてさあ」
少し拗ねたような口調で、加島が文句を言う。
「私のこと、子供だと思ってない?」
「思ってないよ」
笑いながらそう言っても、加島は俺に疑惑の目を向けるだけで、ますます不満そうな顔をする。俺は加島の顔に手を伸ばし、身を屈めて唇を重ねた。
加島の手が、すがりつくように俺の服の腕のあたりを握りしめる。
クスノキが揺れて、風が空を渡っていく音がする。
「もう行かないと。新幹線の時間に間に合わなくなる」
まだぼんやりしている加島の手をとって、俺は帰り道を歩き出した。
ふいに呼ばれた気がして、クスノキが見えなくなる手前で足を止め、ふり返った。
聞こえてくるのは、世界を包むような葉擦れの音だけだった。
十六年なんて、ほんの一瞬──。
今なら、彼らもそう思っているかもしれない。
俺は加島の手を握り、その場所を後にした。
澪入山を下りて、雛条神社の境内を出る。
「今回の企画で思ったんだけど」
鳥居を抜けて雛条駅に向かう道を並んで歩きながら、俺は言った。
「全国には、もっと古い木がたくさんあるんだよな」
「屋久島の縄文杉とか?」
「ほかにもいろいろ。時間があったら訪ねてみたいと思ってんだけど」
「巨木をめぐる旅? いいな、私も行きたい」
加島が顔を輝かせて俺を見る。完全に俺の趣味なのでひとりで行くつもりでいたのだが、うれしい誤算だ。もちろん断る気はさらさらない。
「じゃあ一緒に行く? どこに行きたい?」
「そうだなあ。えーっと」
しばらく考えて、何か思いついたように顔を上げた。
「鹿児島に行きたい」
加島がうれしそうな顔をする。
鹿児島には、全樹種を通じて日本最大と言われる蒲生のクスがある。樹齢千五百年。
「修学旅行のとき、本当はその木が見たかったんだ。でも遠くて行けそうになかったから」
「ああ、そうだった。たしかあのとき、加島が迷子になって」
「なってないよっ」
「そうだっけ?」
笑っている俺を、加島がふくれ面で睨む。
知らない場所で、ふたりきりで過ごしたわずかな時間を思い出す。あのとき、俺はどうやっても消すことのできない自分の本心に気づいた。
あれから長い時間がたって、やっと、俺はここにいる。加島のそばにいることが、あのときからずっと、俺の願いだった。
「そうだな。ふたりで見に行こう」
つないでいた手を強く握ると、加島がそっと握り返してきた。




