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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第14章 これから話そう
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 市之瀬くんと別れた後、まっすぐ事務所にもどった。

 一緒に打ち合わせに出ていた営業担当者は、まだ帰社していなかった。あの後の広告の打ち合わせが長引いているのだろう。ほっとする。


 困ったことに、まったく仕事が手につかなかった。

 気持ちがふわふわして、まるで落ち着かない。


 あれは、本当に現実だったのかな……。

 市之瀬くんに好きだと言われたことが、まだ信じられなくて、何度もその場面を思い返してみるけれど、夢のように不鮮明でちっとも実感が湧いてこない。

 おまけに、ついさっき別れたばかりなのに、もう会いたくてしょうがない。ほんの数時間でさえも、我慢できなくなっている。


 どうなっちゃうんだろ、私。

 気持ちが暴走しそうで、ちょっと怖い。自分が自分じゃなくなってしまいそうな気がする。


 だけど、うれしい。

 そんなことどうでもよくなるくらい、うれしい。

 現実でも夢でも、もうどっちでもいい。


 また頬が火照ってきて、私はあわてて思い出すのをやめた。

 ラベルデザインの修正、今日中にやっておかないと。

 頭を切り換えて、パソコンに向かう。

 今日は早く仕事を終わらせて、市之瀬くんに電話しよう。


「どうだった? 打ち合わせ」


 突然声をかけられて、びくっとした。まだ、頭の中が半分パステルピンクだ。


「ご指名を受けるなんて、気に入られたんじゃない?」


 私の後ろから冗談交じりにそう言ったのは、相田社長だった。

 健康そうな浅黒い肌に、笑うと皺に埋もれてしまう細くやさしい目。まもなく五十に手が届く年齢で、いつもおだやかなしゃべり方をする人だ。


「雛条のクスノキのことを聞かれました」


 私はかいつまんで、打ち合わせで西森さんが話していた広告の内容を、相田社長に説明した。


「それで、私が雛条の出身だったから、打ち合わせに呼ばれたみたいです」

「ふうん。それはちょっと面白そうだね。ラベルデザインのほうはどうなったの?」

「色を少し調整して、違うロゴのパターンをいくつか出して……デザインは、基本的にはこのままでいいそうです」


 来週の月曜に、修正案を提出することになっている。


「あの会社の人、面白いでしょ」


 私の話に満足そうに頷いた後で、相田社長がひそひそ話をするように小声で言った。市之瀬くんが勤めている、スカイ飲料のことだ。先輩からも、ちらっとは聞いている。


「新しいことに挑戦するのが好きな人たちばかりだから、何を言い出すかわからないけどね。あと、少しでも手を抜いたら必ず突っこまれるから、気をつけて」

「はい」


 立ち去りかけて、思い出したようにふり返る。


「よかったね、採用されて」


 にっこりとほほえみかけられて、私も思わず笑顔になった。

 ちゃんとやらなきゃいけない、と思った。

 先輩のそばで見てきて、憧れていた仕事。

 どうしてもやりたかった、スカイ飲料の仕事だ。


 一年前、市之瀬くんが大学院の修士課程を終えて、飲料メーカーに就職したと有村くんから聞いたとき──その会社がスカイ飲料だと知ったときから。

 私のデザインが採用されれば、必ず、市之瀬くんの目に触れる。


 市之瀬くんに見てもらいたい。

 自分の秘めた思いだけを、一方的に彩ることしかできなかった昔の私とは違う、今の私の仕事を見てもらいたかった。

 たとえそれが、誰の手によるものか、わからなくても。


 私はもう一度、はずれかけていた心のねじを締め直す。パステルピンクを、まっ白に塗り替える。

 市之瀬くんに、恥ずかしくない仕事をしよう。

 本番はこれからだ。




 なんとか仕事を切り上げて、市之瀬くんの携帯電話に連絡を入れたのが午後八時過ぎ。

 待ち合わせをしている駅の改札を出る前に、私はトイレに立ちよって全身の最終チェックをした。


 会社を出るときにお化粧はしっかり直したし、乱れた髪も結びなおした。コートの中の服は──全然かわいくないけど、こればっかりはしょうがない。

 見えるところは全部、くまなくチェックした。

 よし。大丈夫!


「改札のところにいた人、イケメンだったねー」


 入れ違いにトイレに入ってきた若い女性ふたりが、そんなことを言っていた。

 改札を出てみると、やっぱり、市之瀬くんがいた。


「ごめんね、遅くなって」

「全然。俺も残業だったから」


 人の多い場所で一緒に並んで歩いていると、すれちがう女性たちの視線が刺さる。

 そりゃあそうだよね。

 でも、私はここにいていいんだよね?

 人混みの中、対向する人の波をうまくかわせずに、ぶつかりそうになりながら歩いていると、市之瀬くんが一瞬だけ足を止めて私の手をとった。


 市之瀬くんはそのまま歩き出して、もうふり返らなかったけれど、つないだ手はとても大きくて温かかった。

 どきどきする。

 てのひらから、鼓動が伝わるんじゃないかと心配になるくらい。

 裏通りにある、こじんまりとした洋風のお店に入ろうとしたところで、市之瀬くんがじっと私を見下ろして言った。


「あー、ごめん。手、離していい?」


 言われて初めて、ぎゅっと彼の手を握りしめていたことに気づく。無意識に。


「すっ……すみません」


 私はあわてて手を離した。

 すると、市之瀬くんは笑いながら、「何、謝ってんの」と言った。


 店内は縦に細長い造りになっていて、入り口近くにL字型のカウンター席があり、奥にテーブル席があった。私たちが案内されたのはいちばん奥のテーブル席。

 静かすぎず、うるさすぎす、隣の席に会話を聞かれる心配もなさそう。

 注文をとりに来た店の人に、とりあえずふたり分のビールを頼んだ。


「加島って、お酒飲めるの? 同窓会の時、ずっとジュースばっか飲んでなかった?」

「それは、だって、緊張して」


 しどろもどろになった。


「緊張?」


 七年ぶりに、初恋の人と会ったんだから。緊張して、お酒なんか飲めないよ。そんなに強くないし、酔ったりして、変なとこ見られたくないもん。

 と、言いたいけれど言えず、私はかろうじてひと言だけつぶやく。


「今だって、緊張してる」


 市之瀬くんは何か言いかけて、やめた。

 ビールが運ばれてきた。とりあえず乾杯をして、適当に料理も頼む。


「こういうの、初めてで。ちょっと、どうしていいか、わからない」


 市之瀬くんは、少し間を置いてから、「こういうのって?」と聞いた。

 私は気が重くなった。

 やっぱり、言わなきゃいけないのかなあ。

 でもどうせ言うのなら、今のうちに言ったほうが楽かもしれない。一度隠してしまうと、言い出すタイミングがわからなくなってしまう。

 意を決して、私は言った。


「その……仕事帰りに待ち合わせて、ご飯食べたりとか」

「……は?」


 市之瀬くんは、意味がわからないという顔をしている。


「男の人と手をつないだのも、初めてだし」


 そう言ったとたん、市之瀬くんの顔が固まった。


「ちょっと待て。それ以上言うな」

「私、今まで、一度も付き合ったことないから」


 しばらく無言で私の顔を見つめた後、市之瀬くんは片手で頭を抱え、深い溜息をついた。


「最低だろ……俺」


 言葉の意味を理解できなくて、私は「何が?」と聞いてしまった。


「キス」

「……え」


 今度は私が固まる。


「ファーストキスだったんじゃないの? あれ」


 返す言葉が見つからない。

 気まずさに耐えかねて、私は無言で目をそらした。お酒を飲んだせいか、異常に暑い。

 市之瀬くんがまた深い溜息をついて、「やっぱり」と言った。

 なるべく思い出さないようにしていたのに、思い出すと、ますます顔が熱くなった。


「悪い。やりなおさせて。今度」


 市之瀬くんがしれっとそんなことを言ったので、さらにうろたえる。「はいどうぞ」って言うのも恥ずかしすぎるし、「いえお構いなく」って言うのも変だし。どんな顔をすればいいのかわからない。


 でも、市之瀬くんが気にするほど、私は全然気にしていない。

 それどころか、よかったと思っている。

 相手が市之瀬くんで。初恋の人で。大好きな人で。

 そんな幸せなことって、ないと思う。


「なんで……今まで誰とも付き合わなかったの?」


 市之瀬くんが意地悪な質問をする。

 美大に通っていたとき、同じ科の男の子とちょっと仲良くなったり、バイト先の先輩に誘われたり、なんとなくそういう雰囲気になりそうだなーと思ったことはあった。

 就職して社会人になってからも、取引先の担当の人から食事に誘われたことは、何度かある。

 そのたびに、この人とだったら付き合えるかもしれないって、思った。

 でも、結局、思うだけ。


「……忘れられなかったから」


 正直に、私はそう答えた。

 重いかな。

 めんどくさい女って、思われたりしない?


 こわごわ、市之瀬くんの顔を見た。

 いつもと同じ無表情。でも私と目が合うと、照れたようにさっと視線を外して、かすれた低い声でぼそっと言った。


「それは、責任重大……だな」


 そして何も聞かなかったように、ビールを飲んで、料理を食べ始めた。

 もしかしたら。

 私は、ずっと──子供の頃からずっと、勘違いをしていたのかもしれない。


 市之瀬くんは、私の前ではいつも完璧で、冷静で、なんでも平然とやってのける人だった。私がみじめにうろたえているときも、市之瀬くんは落ち着きはらっていて、私は彼のひと言で心が穏やかになった。


 私はそんな市之瀬くんに憧れていた。

 ずっと、手の届かない人だと思っていた。

 でも、違ったのかも。

 市之瀬くんは、ずっと前から──十六年前に出会ったときから、どこにでもいる、普通の男の子だったのかもしれない。

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