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市之瀬くんと別れた後、まっすぐ事務所にもどった。
一緒に打ち合わせに出ていた営業担当者は、まだ帰社していなかった。あの後の広告の打ち合わせが長引いているのだろう。ほっとする。
困ったことに、まったく仕事が手につかなかった。
気持ちがふわふわして、まるで落ち着かない。
あれは、本当に現実だったのかな……。
市之瀬くんに好きだと言われたことが、まだ信じられなくて、何度もその場面を思い返してみるけれど、夢のように不鮮明でちっとも実感が湧いてこない。
おまけに、ついさっき別れたばかりなのに、もう会いたくてしょうがない。ほんの数時間でさえも、我慢できなくなっている。
どうなっちゃうんだろ、私。
気持ちが暴走しそうで、ちょっと怖い。自分が自分じゃなくなってしまいそうな気がする。
だけど、うれしい。
そんなことどうでもよくなるくらい、うれしい。
現実でも夢でも、もうどっちでもいい。
また頬が火照ってきて、私はあわてて思い出すのをやめた。
ラベルデザインの修正、今日中にやっておかないと。
頭を切り換えて、パソコンに向かう。
今日は早く仕事を終わらせて、市之瀬くんに電話しよう。
「どうだった? 打ち合わせ」
突然声をかけられて、びくっとした。まだ、頭の中が半分パステルピンクだ。
「ご指名を受けるなんて、気に入られたんじゃない?」
私の後ろから冗談交じりにそう言ったのは、相田社長だった。
健康そうな浅黒い肌に、笑うと皺に埋もれてしまう細くやさしい目。まもなく五十に手が届く年齢で、いつもおだやかなしゃべり方をする人だ。
「雛条のクスノキのことを聞かれました」
私はかいつまんで、打ち合わせで西森さんが話していた広告の内容を、相田社長に説明した。
「それで、私が雛条の出身だったから、打ち合わせに呼ばれたみたいです」
「ふうん。それはちょっと面白そうだね。ラベルデザインのほうはどうなったの?」
「色を少し調整して、違うロゴのパターンをいくつか出して……デザインは、基本的にはこのままでいいそうです」
来週の月曜に、修正案を提出することになっている。
「あの会社の人、面白いでしょ」
私の話に満足そうに頷いた後で、相田社長がひそひそ話をするように小声で言った。市之瀬くんが勤めている、スカイ飲料のことだ。先輩からも、ちらっとは聞いている。
「新しいことに挑戦するのが好きな人たちばかりだから、何を言い出すかわからないけどね。あと、少しでも手を抜いたら必ず突っこまれるから、気をつけて」
「はい」
立ち去りかけて、思い出したようにふり返る。
「よかったね、採用されて」
にっこりとほほえみかけられて、私も思わず笑顔になった。
ちゃんとやらなきゃいけない、と思った。
先輩のそばで見てきて、憧れていた仕事。
どうしてもやりたかった、スカイ飲料の仕事だ。
一年前、市之瀬くんが大学院の修士課程を終えて、飲料メーカーに就職したと有村くんから聞いたとき──その会社がスカイ飲料だと知ったときから。
私のデザインが採用されれば、必ず、市之瀬くんの目に触れる。
市之瀬くんに見てもらいたい。
自分の秘めた思いだけを、一方的に彩ることしかできなかった昔の私とは違う、今の私の仕事を見てもらいたかった。
たとえそれが、誰の手によるものか、わからなくても。
私はもう一度、はずれかけていた心のねじを締め直す。パステルピンクを、まっ白に塗り替える。
市之瀬くんに、恥ずかしくない仕事をしよう。
本番はこれからだ。
なんとか仕事を切り上げて、市之瀬くんの携帯電話に連絡を入れたのが午後八時過ぎ。
待ち合わせをしている駅の改札を出る前に、私はトイレに立ちよって全身の最終チェックをした。
会社を出るときにお化粧はしっかり直したし、乱れた髪も結びなおした。コートの中の服は──全然かわいくないけど、こればっかりはしょうがない。
見えるところは全部、くまなくチェックした。
よし。大丈夫!
「改札のところにいた人、イケメンだったねー」
入れ違いにトイレに入ってきた若い女性ふたりが、そんなことを言っていた。
改札を出てみると、やっぱり、市之瀬くんがいた。
「ごめんね、遅くなって」
「全然。俺も残業だったから」
人の多い場所で一緒に並んで歩いていると、すれちがう女性たちの視線が刺さる。
そりゃあそうだよね。
でも、私はここにいていいんだよね?
人混みの中、対向する人の波をうまくかわせずに、ぶつかりそうになりながら歩いていると、市之瀬くんが一瞬だけ足を止めて私の手をとった。
市之瀬くんはそのまま歩き出して、もうふり返らなかったけれど、つないだ手はとても大きくて温かかった。
どきどきする。
てのひらから、鼓動が伝わるんじゃないかと心配になるくらい。
裏通りにある、こじんまりとした洋風のお店に入ろうとしたところで、市之瀬くんがじっと私を見下ろして言った。
「あー、ごめん。手、離していい?」
言われて初めて、ぎゅっと彼の手を握りしめていたことに気づく。無意識に。
「すっ……すみません」
私はあわてて手を離した。
すると、市之瀬くんは笑いながら、「何、謝ってんの」と言った。
店内は縦に細長い造りになっていて、入り口近くにL字型のカウンター席があり、奥にテーブル席があった。私たちが案内されたのはいちばん奥のテーブル席。
静かすぎず、うるさすぎす、隣の席に会話を聞かれる心配もなさそう。
注文をとりに来た店の人に、とりあえずふたり分のビールを頼んだ。
「加島って、お酒飲めるの? 同窓会の時、ずっとジュースばっか飲んでなかった?」
「それは、だって、緊張して」
しどろもどろになった。
「緊張?」
七年ぶりに、初恋の人と会ったんだから。緊張して、お酒なんか飲めないよ。そんなに強くないし、酔ったりして、変なとこ見られたくないもん。
と、言いたいけれど言えず、私はかろうじてひと言だけつぶやく。
「今だって、緊張してる」
市之瀬くんは何か言いかけて、やめた。
ビールが運ばれてきた。とりあえず乾杯をして、適当に料理も頼む。
「こういうの、初めてで。ちょっと、どうしていいか、わからない」
市之瀬くんは、少し間を置いてから、「こういうのって?」と聞いた。
私は気が重くなった。
やっぱり、言わなきゃいけないのかなあ。
でもどうせ言うのなら、今のうちに言ったほうが楽かもしれない。一度隠してしまうと、言い出すタイミングがわからなくなってしまう。
意を決して、私は言った。
「その……仕事帰りに待ち合わせて、ご飯食べたりとか」
「……は?」
市之瀬くんは、意味がわからないという顔をしている。
「男の人と手をつないだのも、初めてだし」
そう言ったとたん、市之瀬くんの顔が固まった。
「ちょっと待て。それ以上言うな」
「私、今まで、一度も付き合ったことないから」
しばらく無言で私の顔を見つめた後、市之瀬くんは片手で頭を抱え、深い溜息をついた。
「最低だろ……俺」
言葉の意味を理解できなくて、私は「何が?」と聞いてしまった。
「キス」
「……え」
今度は私が固まる。
「ファーストキスだったんじゃないの? あれ」
返す言葉が見つからない。
気まずさに耐えかねて、私は無言で目をそらした。お酒を飲んだせいか、異常に暑い。
市之瀬くんがまた深い溜息をついて、「やっぱり」と言った。
なるべく思い出さないようにしていたのに、思い出すと、ますます顔が熱くなった。
「悪い。やりなおさせて。今度」
市之瀬くんがしれっとそんなことを言ったので、さらにうろたえる。「はいどうぞ」って言うのも恥ずかしすぎるし、「いえお構いなく」って言うのも変だし。どんな顔をすればいいのかわからない。
でも、市之瀬くんが気にするほど、私は全然気にしていない。
それどころか、よかったと思っている。
相手が市之瀬くんで。初恋の人で。大好きな人で。
そんな幸せなことって、ないと思う。
「なんで……今まで誰とも付き合わなかったの?」
市之瀬くんが意地悪な質問をする。
美大に通っていたとき、同じ科の男の子とちょっと仲良くなったり、バイト先の先輩に誘われたり、なんとなくそういう雰囲気になりそうだなーと思ったことはあった。
就職して社会人になってからも、取引先の担当の人から食事に誘われたことは、何度かある。
そのたびに、この人とだったら付き合えるかもしれないって、思った。
でも、結局、思うだけ。
「……忘れられなかったから」
正直に、私はそう答えた。
重いかな。
めんどくさい女って、思われたりしない?
こわごわ、市之瀬くんの顔を見た。
いつもと同じ無表情。でも私と目が合うと、照れたようにさっと視線を外して、かすれた低い声でぼそっと言った。
「それは、責任重大……だな」
そして何も聞かなかったように、ビールを飲んで、料理を食べ始めた。
もしかしたら。
私は、ずっと──子供の頃からずっと、勘違いをしていたのかもしれない。
市之瀬くんは、私の前ではいつも完璧で、冷静で、なんでも平然とやってのける人だった。私がみじめにうろたえているときも、市之瀬くんは落ち着きはらっていて、私は彼のひと言で心が穏やかになった。
私はそんな市之瀬くんに憧れていた。
ずっと、手の届かない人だと思っていた。
でも、違ったのかも。
市之瀬くんは、ずっと前から──十六年前に出会ったときから、どこにでもいる、普通の男の子だったのかもしれない。




