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会社にもどると、斜め前の席は無人だった。
あれから優に一時間以上は経っているが、西森さんがもどってきていないところを見ると、まだ広告の打ち合わせが終わっていないらしい。
「ずいぶん長かったなあ、颯さんとの打ち合わせ」
隣の席の同僚が、気の毒そうな顔を向ける。
俺は適当に相づちを打ってごまかした。申し訳ないが、そういうことにしておこう。
仕事を再開しようとするのに、心が騒いで集中できない。
公園の前で加島と別れたのは、ほんの十分前のことだ。
それなのに、会社にもどるとたちまち現実感が失われて、夢を見ていたのではないかという気分になった。
「どうや、うまくいきそうか?」
上の空でメールチェックをしていると、いきなり声をかけられた。
「……は?」
ふり向くと本間課長だった。一瞬、質問の意味を取り違えそうになって焦る。
「あ……はい。ラベルデザインの件、ですよね」
あわててとりなすと、本間課長が不審な表情で俺を見る。
「おまえがぼんやりするなんて、めずらしいなあ」
すみませんと謝りつつ、今日だけは見逃してくださいと心の中でつぶやく。
なんせ、十六年越しの片想いが、ようやく報われたのだから。
「ちゃんとついていけてるか? 西森さんに」
心配してというよりも、半ば冷やかすような口調で聞かれる。
返答に困った。
はっきり言って、まったくついていけていない。手伝うと言っても彼女はたいてい自分でこなしてしまうので、大したことはしていない。
俺が答えに窮するのを見て、本間課長は「まあ、そうやろなあ」と豪快に笑った。
「あー、ええねん、ええねん。ちゃんとやれっていう意味で言ったんとちゃうから」
じゃあどういう意味なんだと思いつつ目を向けると、本間課長のやわらかいまなざしとぶつかった。
「西森さんは、ほんまにうちの製品が好きで、そんで企画の仕事が好きやねん。そやから、アホみたいにいろいろ首を突っこみたがる。いらんことまでする」
話の流れが見えない。とにかく最後まで黙って聞くことにした。
「そういう人と一緒に仕事をしてると、嫌でも巻きこまれるねん」
確かに、完全に巻きこまれている。
「そやからな、今のうちに、貪欲に吸収せえよって言うてんねん。おまえはいずれ研究所に行くんやろ。そのために今ここにおるんやろ。もらえるもんは、何でももらっとけ」
がつんと一発殴られたような気がした。
そういうことだったのか、と目から鱗が落ちた。
手伝えと言ったのは、西森さんのためじゃなく、俺のため。
「あー、やっと終わった」
タイミングを見計らったかのように、西森さんが資料を抱えてもどってきた。
「えらい時間かかってたなあ」
本間課長が声をかけると、西森さんは資料をどさっとデスクの上に置いて「そうなんですよ」と笑いながら困った顔をする。
「イベントの話で盛り上がっちゃったんです」
「イベント?」
「雛条のクスノキを見に行く体験ツアーです」
西森さんはこともなげに答える。「えっ」という俺の心の叫びを、本間課長が代わりに声に出して言う。
「いつのまに?」
「ついさっき決まったんです」
「ツアーって、東京から行くんか?」
「いえ、関西支社からバスで」
「それ……関西支社の連中は知ってんの?」
心配そうに尋ねる本間課長に、西森さんは余裕の笑みを返す。
「これから相談します。とりあえず広報の安田さんに頼もうかと」
「ああ、安田さんか。じゃあ……大丈夫かなあ」
何が大丈夫なんだろう。そして、知らないうちにどんどん話が大きくなっているように思うのは、気のせいだろうか。
「あんまり独断専行で決めると、『また本社だけで勝手に決めて』って言われるで」
そう言われて初めて気づいたように、西森さんの表情がわずかに翳った。
「そうですよね……すみません」
「いやまあ、しょうがないことなんやけど。こっちが先行して動いてる以上、どうしたって事後承諾になるもんな。けど、支社の連中がそう言いたくなる気持ちも、ちょっとわかるねん」
「課長も、関西支社にいた頃は、そう思ってたんですか?」
そう聞いた後で、西森さんは失言だと思ったのか「すみません」と謝る。
「いや別に。俺は営業やったから、イベントにしろ企画にしろ、どこの誰が考えたかなんて最初から関係なかったし、出来上がったもんにイチャモンつけても始まらんしな。でも、売ってる身にもなってほしいなあと思ったことはある」
「……もしかして、それで、自分が作ろうと思ったんですか?」
「え? あー、うん。まあ……そうかなあ」
本間課長は急に照れたように言葉を濁した。
「改めて言われると……なんか、むちゃくちゃ偉そうやな、俺」
と、会話の途中でいきなり西森さんが俺を見た。
「市之瀬くん、例の、市役所の友達に連絡ついた?」
「えっ? いえ、まだ……」
そうだった。打ち合わせのとき、加島が連絡すると言うのを強引に引き取って、自分が連絡しておくと言ったのを思い出した。
「そっか。今日中に連絡つきそう?」
時計を見る。もうすぐ五時になろうとしている。
「すぐに電話します」
俺がそう答えるのと同時に、本間課長が「くくく」と笑いをかみ殺すのが聞こえた。見ると、こちらに向けた背中の肩のあたりが揺れている。
俺のため、というのも嘘ではないのだろうけど、半分は俺を困らせて面白がっている……ような気がする。いや、絶対そうだろ。
だけど。
西森さんが本当にうちの製品が好きで、この仕事に一生懸命だということは、近くで見ていてわかった。それに負けず劣らず、たぶん、本間課長も。
最初は誰かの小さな発見から始まったとしても、ひとつの製品が完成して世の中に出るまでには、たくさんの人の思いが交わる。さまざまな人の手で、思いもよらない遠くまで運ばれていく。
そして、顔も知らない、会ったこともない、誰かの手に届く。植物の種が風や動物たちに運ばれて、どこか遠い場所で芽を出すように。
悪くないなあと思う。そういうの。
苦労してやっとここまで──加島と一緒に仕事ができるところまで、来たんだ。今、ここであきらめたら、また逆もどりだ。
何でももらっておけるほどの器が、俺の中にあるかどうかは別にして。
これからは、こっちからもらいにいく。




