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涙が乾くと、風の冷たさが頬に染みた。
先に行っていいと言ったのに、市之瀬くんはいっこうに会社にもどるそぶりを見せない。
私がベンチでぐずぐずと涙を引っこめる努力をしている間も、無言で隣に座っている。
ふたりで冬の公園のベンチに座って、徐々に空が色を変えていくのを見ているうちに、なんとか気持ちがおさまってきた。
私が涙をふいたハンカチをカバンにしまうのと同時に、市之瀬くんがくしゃみをする。
スーツ姿で寒そうにしている彼を見て、私は心配して言った。
「私のことはいいから、会社にもどって。市之瀬くんて、寒いの苦手だよね?」
「え?」
「子供の頃、冬になるといつも教室の前のストーブに張りついてた」
市之瀬くんが顔をしかめ、呆れた様子で言った。
「おまえ、よく覚えてんなあ、そんな昔のこと」
「だって、ずっと見てたもん」
言ってから、しまったと思った。
今、間違いなくよけいなこと言った!
案の定、市之瀬くんが私の顔をじっと見つめる。
「ずっとって……いつから?」
声が切実で、はぐらかすことができそうにない。私はうつむいて、膝の上に置いたカバンの把手をぎゅっと握りしめた。
「……小学校で……同じクラスになったときから」
横顔に、市之瀬くんの視線を感じる。
恥ずかしすぎて死にそう。顔が火照るのを感じていると、市之瀬くんの視線がそれた。
「……俺も」
すぐ近くで、押し殺した低い声が告げた。
「ずっと見てた」
その言葉を聞いた途端に、頭の芯がぼうっとなった。
視界がぼやける。体中熱くて眩暈がして、なにがなんだかわからない。
信じられなくて、市之瀬くんの顔を見た。
まっすぐ前を見て、私と目を合わせようとしない。
相変わらずの無表情なのに、なぜか強い思いが伝わってきた。
心臓が、すごい勢いで音をたてて駆け出す。息ができないくらい。
うわ、ほんとに死にそう!
私は公園の中を見回した。今すぐ話をそらさないと。呼吸困難で倒れる前に。
「ねえ、あの木、クスノキかな?」
少し離れた、向かいの植え込みに生えている大きな木を指さして言う。落葉して枝だけになっている木が多い中で、その木だけはこんもりと葉を茂らせている。
「あれはシイの木」
市之瀬くんはあっさり答えた。わざとらしく話をそらした私に、苦笑いを向けながら。
「樹皮が縦に裂けるところは似てるけど、葉っぱの裏が金色っぽいのはスダジイの特徴で、こっちはブナ科の植物だよ。木の下に行ったら実が落ちてるかもな」
「実?」
「ドングリ。生で食べられるって知ってた?」
「知らない……食べたことないもん」
私の隣で笑っている市之瀬くんを見て、意外な印象を受けた。
「くわしいね」
市之瀬くんは両手で両膝をつかみ、そのままベンチから立ち上がる。
「大学ではけっこう真面目に勉強したからなー。誰かさんに追いつきたくて」
「え?」
意味がわからず問い返した私に、一瞬だけ複雑そうな笑顔を返して、市之瀬くんは話題を変えた。
「今日、仕事何時に終わる?」
「あ、えっと」
これから事務所にもどってラベルの修正をして、それから……。
「終わったら連絡して」
「でも、遅くなるかもしれないし」
そう言いながらも、心の中では私も会いたいと思っていた。
「何時でもいい。待ってるから」
市之瀬くんのやさしい目が私を見下ろしている。
また、胸の奥が苦しくなった。ぎゅっと締めつけられる。
卒業式から七年も待ったのだから、一日や二日くらい、簡単に待てるはずなのに。今は、一日だって待てそうにない。
このままずっと、何時間でも一緒にいたい。
携帯の番号を告げようとした市之瀬くんに、私はベンチから立ち上がって「知ってる」と言った。
「亜衣が……有村くんに聞いて、教えてくれた。同窓会の次の日に」
市之瀬くんはとたんに仏頂面になった。
「あーもう。しばらくネタにされるな、絶対」
「うん……それは覚悟したほうがいいかも。私も亜衣に報告楽しみにしてるって言われた」
ふたりで顔を見合わせて、なんとなく照れくさくなって笑ってごまかした。
公園を出たところで、足を止める。駅は市之瀬くんの会社とは反対方向なので、ここで別れなければいけない。
「じゃあ、行くね」
そう言いながらも、足が動かない。離れたくない気持ちが強すぎて。
「加島」
やさしい声が、私の名前を呼ぶ。
「これから、話そう。十六年分」
せっかく苦労して止めた涙が、またあふれてきそうになった。私は「うん」と答えて、駅に向かって歩き出した。




