1
翌日の朝、出社してすぐにメールチェックをした。
そのとき初めて自分が昨日加島に送ったメールを読み返して、呆然とした。
何だ、このメール……。
混乱していたとはいえ、あまりにもひどすぎる。しかもキレ気味。
本当にこんなものを送ったのだろうかと何度も確認してみるが、確かに送信済みになっている。今さら後悔したところで手遅れだ。
加島から返信が来ているかもしれないと気づき、新着メールをチェックした。
加島からのメールは、昨日の夜、十九時四十六分に届いていた。
--------------------------------------------
件名:Re:打ち合わせのご相談
差出人:加島 紗月
スカイ飲料株式会社
開発部 市之瀬郁 様
いつもお世話になっております。
アトリエ颯の加島です。
打ち合わせの日程の件ですが、
後日、営業担当よりお返事をさせていただきます。
今後の連絡は、営業担当を通していただけると助かります。
用件のみにて失礼します。
--------------------------------------------
私信は無視か。
メールを閉じて溜息をつく。
まあ、当然だな。あんなメール、ほかに返信のしようがない。
こうなったら、もう直接会うしかない。
「西森さん」
斜め前の席に座っている彼女に声をかけると、「はい」と優等生みたいな返事をしてにこやかに顔を上げる。
「『レッツウォーター』のラベルデザインの打ち合わせ、僕も同席させてほしいんですけど、いいですか?」
「それは別に、かまわないけど……?」
西森さんは腑に落ちないといった表情で俺を見ていたが、すぐに思い出したように「ああ」と言った。
「知り合いなんだっけ、あのデザイナーさんと。彼女、次回の打ち合わせにも来るの?」
「わかりません」
一応そう答えたが、来ない確率のほうが高い。あのメールの文面からして、加島は俺と関わることを避けているような気がする。
すると、西森さんは俺のほうに身を乗り出して言った。
「できれば、来てほしいんだけどな」
「どうしてですか?」
「ちょっと、聞きたいことがあるの。クスノキのことで」
ふふっと意味深に笑う。
「クスノキ? 澪入山のクスノキのことですか?」
「そう。──あれ? 市之瀬くん、ひょっとして……」
「僕も雛条の出身です」
「あっ、そうなんだ」
西森さんはしばらく俺の顔を見ていたが、急にデスクの上の雑誌を数冊手にして、席を立った。
「じゃあ、市之瀬くんには先に話しておこうかな。五分だけ、いい?」
そう言って、俺をミーティングルームのほうへ手招きした。
その日のうちに、アトリエ颯の営業担当者から連絡があり、ラベルデザインの打ち合わせは明日木曜の午後二時からと決まった。
「加島さんにも同席してほしいんです」
そう告げると、営業担当の男性は電話の向こうで一瞬黙りこんだが、すぐに「わかりました」と愛想のいい声で答えた。
電話を切るとすぐに、西森さんが斜め前の席から首を伸ばして、資料の山越しに「どうだった?」と聞いてくる。
「大丈夫です」
「そう。よかった」
ほっとした顔をする。
「どうして彼女の同席が必要なんですか?」
「だって地元の人の口から直接聞きたいし」
「僕にとっても地元ですけど」
そう言うと、西森さんは申し訳なさそうに俺を見た。
「市之瀬くん……広告とか、あんまり興味なさそうだし」
興味がないのではなく、ただ単にわからないだけなのだが。
今日の午前中、西森さんから、企画部が進めている『レッツウォーター』の広告とCMについて聞かされた。
アトリエ颯からは、新たなラベルデザインの提案と同時に、広告についての提案もあったのだと言う。
正確には、アトリエ颯の親会社である広告代理店からなのだが、付き合いの長いアトリエ颯の営業担当者がまとめて窓口になっているらしい。
「全国の絶景ポイントをめぐるCMを提案されたんだけどね、なんだか漠然としてるなあと思って」
そう言って、西森さんは自分のデスクから持ってきた雑誌を開く。“一度は行ってみたい日本の絶景”というタイトルの特集が組まれている雑誌である。
ほかにも、“秘境をめぐる旅”とか、“全国の名所百選”とか、その手の特集を組んだ雑誌が数冊。どの雑誌にも、びっしりと付箋がついている。
「それに正直な話、予算的に名所をめぐってる余裕はないんだよね。近場を入れて、せいぜい三ヶ所ってところ。それで、テーマを絞りこんでみたらどうかと思って。例えば……古木とか」
俺は何気なく見ていた雑誌のページから、西森さんの顔に視線を移す。
「それなら、記憶に残ると思わない?」
輝きを増した目が、じっと俺を見つめる。
俺はとまどいを感じながら、「そうですね」と答えた。
俺の反応の薄さに不満げなようすで、彼女はまた別の雑誌──ムック本を取り出して、テーブルの上に開いて見せる。
タイトル、“神様が宿る木”。
「これは私の勘だから、外れてるかもしれないんだけど。もしかして彼女、地元のクスノキのイメージが先にあって、それであのデザインを考えたんじゃないのかな」
驚いて、西森さんの顔を見た。
彼女は雑誌の写真に目を通しながら「違うかな?」と、ひとり言を言う。
彼女が見ているページには、見覚えのある景色が、見開きで載っていた。
山の中にたたずむ大木。緑色の苔に覆われた、太い幹と根。縦に裂けた樹皮に、薄く光が当たっている。
「たぶん……そうだと思います」
俺が答えると、西森さんは顔を上げて「だよね」と、うれしそうに笑った。
五分と言ったのに、西森さんはそれから延々と『レッツウォーター』の広告についてしゃべり続け、ミーティングルームから解放されたのは四十分以上経ってからだった。
つまり彼女は、澪入山のクスノキを、広告の撮影地のひとつとして候補に入れたいと考えているのだ。
四十分間、広告について熱く語り続ける彼女を前に、俺はただ呆然と聞いているしかなく、時おり「そうですか」とか「へえ」とか、感想にも意見にもほど遠い相づちを打つだけだった。
そういう態度が、「興味がなさそう」と受け取られたのかもしれない。
木曜日の打ち合わせは、開発部のフロアに設けられている会議室で行った。
出席者は、俺を含めて四人。
加島は営業担当者の隣──俺の真向かいの席に座る。グレーのセーターに臙脂色のスキニーパンツという格好で、髪は後ろでひとまとめにしている。
ラベルデザインについていくつかの修正点を伝えた後、アトリエ颯の営業担当者と加島を相手に、西森さんはふたたび俺に語ったことを繰り返した。俺のときより、ほんの少し熱を抑え気味にして。
打ち合わせの間、加島は一度も俺と目を合わせようとしなかった。
視線は常に、西森さんに固定されたまま。真向かいにいる俺には顔も向けようとしない。
「それ、いいアイデアですね」
西森さんの話を聞いて、営業担当者がすぐに乗り気になった。
「さっそく候補地のリストを作ってきます。あまり時間がないですし、早く決めないと」
「ひとつは決まってるんです、実は」
そう言って、西森さんはにっこり笑いながら加島を見た。
「雛条のクスノキ。樹齢九百年、でしたよね」
西森さんの視線が、加島から俺に移る。それにつられて、加島の視線も俺に移った。
「え……?」
俺と西森さんの顔を、とまどいながら交互に見る。
「雛条のクスノキですか」と、営業担当者が手帳に書きこみながら、考えこむ。
「どこにあるのかな。市役所に聞いてみたらわかりますかね」
市役所と聞いて、俺と加島が同時に「あっ」と叫んだ。
ふたりで顔を見合わせた後、俺が黙りこんだので、代わりに加島が遠慮がちに答える。
「市役所の観光課に……知り合いがいます」
西森さんと営業担当者が、ぽかんとした顔をして俺たちを見た。
「これから、六階の企画部のほうで広告の打ち合わせが入ってるんですよ、『レッツウォーター』の」
ひととおりの話がすむと、営業担当者が手帳を閉じてそう言った。
「さっきの話、矢神課長はご存じですか?」
西森さんが「はい」と頷く。
「じゃ、西森さんにも同席してもらったほうがいいかもしれませんね。お時間、大丈夫ですか?」
「私はかまいませんけど……」
言いながら、俺と加島を見る。
加島があわてたように「私はここで失礼します」と言う。
加島が席を立つのと同時に、俺も席を立った。
会議室を出て、六階へ向かうエレベーターに乗りこむ西森さんたちを見送った後、俺と加島はふたりきりでエレベーターホールに取り残された。
下へ向かうエレベーターは、なかなか来ない。
「すみませんでしたね」
前を向いたまま、俺は隣にいる加島に言った。
加島が「え?」と小さな声で問い返す。
「変なメールを送りつけて」
「いえ、とんでもない……です」
静かな空間にポン、と軽快な音が響き、エレベーターの扉が開いた。
エレベーターに乗りこんで「失礼します」と言いかけた加島を遮るように、俺も続いて箱に乗りこむ。
「ちょっとだけ付き合って」
加島に背を向けたまま、ボタンを押して扉を閉める。
「え?」
「話がある」
しばらく間を置いて、「でも、仕事が」という弱々しい反抗の声が背後から聞こえてくる。
「選択権ないから」
言い捨てて、一階でエレベータを降りる。そのままビルの玄関を出た。
まだ日が暮れる時間ではなかったが、空は曇っていて、ビル街を吹き抜ける風は冷たい。
裏通りをしばらく歩いたところでふり向くと、加島はコートとカバンを手に持ったまま、少し離れて俺の後ろをついてきていた。
「コート、着れば?」
「でも」
加島がためらう。俺がコートを持たずに出てきたことを、気にしているらしい。
「いいから着ろよ。見ているこっちが寒い」
加島は困ったような顔をしたが、あきらめてコートを羽織った。
会社から歩いて十分ほどのところに、まばらな樹木に囲まれた小さな公園があった。
気候がよければ、このあたりのOLやサラリーマンが昼休みを過ごす憩いの場になっているのだが、さすがに冬のまっただ中にベンチに腰かけている人はいない。
誰もいない公園の中ほどまで来たところで、俺は足を止めた。
「アトリエ颯に勤めてること、なんで言わなかったんだよ」
加島は何か言いたそうに口を開きかけたが、こらえるように黙りこむ。
「俺がスカイ飲料にいるって、知ってたんだろ。知ってて、黙ってたんだよな。なんで隠す必要あるわけ?」
「別に隠してたわけじゃないよ」
目をそらして、加島が言い返した。
「七年ぶりに同窓会で会ったからって、何もかも話さなきゃいけないの?」
いつもは静かでやさしい声が、張り詰めたようにこわばっている。




