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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第12章 知り合い?
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「市之瀬、ちょっと」


 本間課長に呼ばれて、席を立つ。

 年明け六日の初出勤から一週間がたち、正月気分もすっかり消えて、社内の雰囲気は通常の状態にもどっていた。


「相談なんやけどな」


 本間課長のいつも元気な関西弁が、なぜか小声になっている。

 本間裕章ほんまひろあきは、俺が所属する開発部開発一課の課長である。

 年中浅黒い顔をしている彼は、関西の出身で、本社に来る前は関西支社で営業をしていたと聞いている。三十七歳、既婚者。本人曰く、愛妻家。


「西森さんの仕事、手伝ってほしいんやけど」


 やっぱり小声で言いながら、横目でそうっとデスクにいる彼女のほうを見る。


「それは……できるならそうしたいですけど」


 俺までつい小声になってそう答えると、本間課長は「弱ったなあ」と、溜息交じりに頬杖をつく。

 自分が話題の的になっているとも知らずに、彼女──西森華にしもりはなは、山積みの資料に埋もれて、まばたきもせずにノートパソコンの画面を注視している。

 彼女のデスクの上は、この数ヶ月間、まったく片付いていない。と言うより、昨年の九月に企画部から異動してきて以来、片付いた瞬間を見たことがない。


「そうやっておまえらが尻込みするから、西森さんがひとりで大量に仕事を抱えるはめになるんや」


 本間課長が低い声でぼやいた。

 尻込みしているわけじゃない。単純に、できないのだ。


 彼女の仕事は、主に開発部と企画部の調整役。

 製品の進み具合に合わせてプロモーションのスケジュールを決めたり、宣伝企画のコンセプトと製品の方向性がずれないように互いの部署を行き来して軌道修正したりしている。製品についてはもちろんだが、広告やCMなどについても意見を出す。


 はっきり言って、そんなことができるのは、ここでは彼女だけなのだ。

 俺を含めて開発部の人間は、広告とかCMとかウェブサイトとか、宣伝についてはまるっきり門外漢の素人で、さっぱりわからない。たまに行われる企画部との合同会議でも、話についていけるのは本間課長くらいだった。


 俺が勤務しているスカイ飲料は、コンビニや自動販売機などで売られているペットボトルや缶入りの飲料を製造している会社だ。

 数年前に発売された緑茶飲料『一期一会』と、昨年発売した紅茶飲料『RED』が大ヒットして、清涼飲料業界でトップ5に入っている。


「あのー」


 ぎょっとしてふりむくと、噂の当人が俺の背後に立っていた。


「ちょっと、ご意見をうかがいたいんですけど」


 西森さんはにっこり笑うと、俺と本間課長を交互に見た。


「はい。なんでしょう」


 本間課長ががらりと声音を変えて、明るく答える。

 単刀直入に言うと、西森さんは社内でも評判の美人だった。

 年齢は三十を過ぎているはずだが、まったく見えない。男が十人いたら、たぶん十人全員がふり返る。

 見た目だけじゃなく性格もよくて、優しくて気が利くし、人付き合いもいい。おまけに仕事もできる。昨年大ヒットした『RED』のCMは、彼女が企画した。


 正直なところ。

 あまりにも完璧すぎて、俺には近寄りがたい存在だ。


「実は、『レッツウォーター』のラベルデザインなんですけど、新しい案が出てきたので見ていただけませんか?」


 レッツウォーターというのは、この春リニューアル発売が予定されている機能性飲料の名称だ。

 従来の正当派スポーツドリンクという位置づけから大きくシフトチェンジして、日常生活において気軽に水分補給ができる飲み物、というコンセプトで現在プロジェクトが進行中。

 ちなみに俺はこのプロジェクトには参加していない。


「自然をテーマに、という点は前回同様なんですけど」

「前回のって、ブルー系の色やったよな。海のイメージで」

「そうです。配合しているミネラルからの連想だったんですけど、今回はビタミンからの連想で……緑のイメージだそうです」


 そう言って、手にしていたデザイン案の用紙を本間課長のデスクの上に広げた。

 その瞬間、俺は息をのんだ。


 黄緑色で塗りつぶされた、木のシルエット。

 そのシルエットの右上に、これも切り絵のような、シンプルな鳥の形が描かれている。たった今、木の枝から小さな鳥が飛び立つように。


 まさか。

 いや、でも──。


 イラストに合わせて、ロゴも黄緑色のシンプルなデザインになっているが、かっちりとした真面目な印象ではなかった。ロゴにも草や木などのシルエットをからませて、少しゆるめのやさしい感じに仕上がっている。


「へえ。悪くないやん、これ」


 本間課長が前のめりになって、デザイン案を見つめる。


「ロゴの色は、ほかにもいくつか出してもらっています」


 重ねていた用紙を、西森さんがずらして並べる。

 濃い緑、黒、グレー、オレンジなど、ロゴの色を変えたいくつかのパターンを見て、本間課長が「そうやなあ」とうなった。


「市之瀬は、どう思う?」


 いきなり振られて焦る。内心の動揺を悟られまいと、平静を保ちつつ答える。


「どれもいいと思います」

「おまえに聞いたんが間違いやった」


 即行で言われた。俺に絵心がないことは、本間課長には既にばれている。

 だが、「どれでもいい」と言ったわけじゃない。

 本当に、全部、いいと思ったのだ。


「これ、誰……いえ、どこのデザインですか?」


 黙っていられずに、俺は西森さんに尋ねる。声に興奮が表れないように気をつけた。だが、とても平常心ではいられない。


そうさん。アトリエ颯だよ」


 なじみのデザイン事務所の名前を聞いて、本間課長が首をひねった。


「颯さんとこに、こんなかわいいデザインできる人おったかなー」


 アトリエ颯は、社員数人の小さなデザイン事務所だ。俺が入社する前からの付き合いで、本間課長はアトリエ颯の社長とも仲がいい。


「うちの仕事、初めてだって言ってました」

「西森さん、デザイナーに直接会ったの?」

「あ、いえ。企画部の矢神やがみ課長から聞きました。私は打ち合わせには同席できなかったので。若い女性のデザイナーさんらしいです」


 ふたりが会話を進める横で、俺がじっとデザイン案を見ていると、西森さんが「気に入った?」と聞いてくる。


「あ、はい」


 素直に頷いた。西森さんがうれしそうに顔をほころばせる。


「そっか。よかった。ほかの人にも聞いてみたんだけど、みんなこれがいいって。私も、いちばんいいなって思ってたんだ」


 一瞬、迷った。

 その迷いを、〇.一秒で蹴散らした。


「そのデザイナーさんの名前、わかります?」


 西森さんと本間課長が、同時の俺の顔を見た。ふたりとも、呆気にとられた顔をしている。


「知り合いかもしれないと思ったので」

「えっ、ほんと?」


 西森さんが叫び、本間課長が「おまえにデザイナーの知り合いなんかおるんか!」と失礼な突っこみを入れた。


「矢神課長に聞いたらわかるよ。私、ちょうどこれから企画部に行くところだったから、聞いてみてあげる。……一緒に来る?」

「はい」


 即答し、西森さんと一緒に開発部のフロアを出て、企画部のある六階へ向かった。一階下なので、エレベーターを待たずに非常階段を使った。

 非常階段の扉を開けると、ちょうど倉庫から出てきた矢神課長と鉢合わせた。


「お疲れさまです」


 西森さんがいつものように愛想よく声をかける。矢神課長は優雅にほほえんで「お疲れさま」と言い、ちらりと俺を見て不思議そうな顔をした。

 西森さんがラベルデザインの新しい案について相談している間、俺は一歩下がってふたりを眺めていた。


 絵に描いたような美男美女である。

 企画部宣伝企画課の矢神課長は、本間課長と同じ三十七歳で、社内きっての切れ者だ。

 見た目も文句なしの美形だが、それ以上にできる人で、彼が宣伝を手がけた製品は必ずヒットすると言われている。

 どこから見ても完璧なふたりは、どこから見ても隙がなくて、なんとなく、一緒にいると気後れしてしまう。


「ラベルの件、なんなら西森さん──開発に任せてもいいけど?」

「えっ!?」


 矢神課長が言うと同時に、西森さんが顔を上げてまじまじと相手を見る。


「本当に? 颯さんの窓口、企画部で統一するルールになっていますよね? いいんですか?」

「まあ……別にいいんじゃないかなあ。ルールと言っても、そんな厳密に決めたものじゃないし。そのへんは臨機応変に、お互いがやりやすいようにすれば」


 西森さんの顔が、みるみる明るくなった。


「ありがとうございます!」


 思いきり弾んだ声が、廊下に響き渡る。


「ただし、状況報告はこまめに頼みます。本間課長はそのへん結構なおざりなんで」

「もちろん、そこは抜かりなくやりますっ!」


 彼女のこんな声を聞くのは初めてだ。

 いつも冷静に仕事をしていて、我を忘れたり度を失ったりしているところなんか、見たことがない。ましてや、興奮して声を張り上げるところなど。

 前の上司に「任せる」と言ってもらえたことが、そんなに嬉しいのだろうか。

 その勢いで、西森さんはもうひとつの用件について語った。


「ああ、昨日のデザイナーさんか。名前は……えーと」


 矢神課長は天井を仰いで思い出そうと試みていたが、すぐにあきらめた。


「ちょっと待ってて。もらった名刺があるから、取ってくる」


 そう言って、廊下に俺たちを残して企画部の自分のデスクに名刺を取りにいった。

 別人かもしれない。

 だけど、どう見てもあのデザインは、あのときの──雛高祭で、加島がコースターに描いたものと同じだった。

 あのときの手描きの絵よりもずっと洗練されているし、鳥の大きさも違うし、似ているだけだと言われれば、そうかもしれないのだが──。


「昔からの知り合い?」


 突然、西森さんが俺をふり返って言った。

 ほかのことに意識をとられていたので、自分への質問だと気づくまで少し間が空いた。


「……まあ、そんな感じです」


 無難な返事をする。

 確かめてどうするのか、まだ自分でもわからなかった。

 だが、確かめずにはいられなかった。

 矢神課長がもどってきて、一枚の名刺を西森さんに手渡した。俺は西森さんの隣に移動して、名刺を見た。


 アトリエ颯

 デザイナー 加島紗月


 鼓動が高まる。

 西森さんが俺の顔を見て「知り合い?」と聞く。

 俺は「そうです」と答えるのが精一杯だった。名刺の名前から目を離せずにいると、西森さんがそっと名刺を手渡してくれる。


「そう言えば彼女、雛条の出身だって言ってたかな」


 矢神課長が思い出したように言った。


「雛条って、クスノキの伝説で有名なところですよね」

「伝説?」

「聞いたことないですか? クスノキの精の話」


 西森さんが「すごく切ない話なんですけど」と言う。


「さあ……知らないな」

「そのクスノキ、確かまだ生きているはずですよ。えっと、樹齢何年だったかな」

「九百年です」


 俺は思わず、ふたりの会話に割って入っていた。


「樹齢九百年」


 俺がそう言ったとき、西森さんの目がきらりと──文字通り光ったように見えた。


「課長」


 西森さんが視線を上げて矢神課長を見上げた。


「今、お時間ありますか。ちょっと思いついたことがあるんですけど」

「……またか」


 穏やかな声の中に若干のうんざり感を滲ませて、矢神課長は西森さんを見下ろす。


「あんまり時間ないんだけど」

「聞くだけ聞いてください。十分……いえ五分でいいです。すぐ終わらせますから」

「はいはい」


 いつものことなのか、矢神課長は適当にうなずいて、ミーティングルームのほうへ向かいながら手招きする。

 顔を輝かせてミーティングルームに向かいかけて、西森さんはやっと気がついたように俺をふり返った。


「先にもどってて。あ、そうだ。そのデザイナーさんに連絡して、打ち合わせの時間決めてくれる? いつでもいいけど、できれば早いほうがいい」

「……はい? あの……」


 西森さんはもう俺のほうを見ていなかった。矢神課長を追いかけて、あっというまに企画部のフロアへ消えてしまった。

 俺は唖然としたまま彼女を見送る。


 あの人って……もしかして、単純にこの仕事がものすごく好きっていう、ただそれだけなんじゃないのか?

 今までの印象が──いつも取り澄まして冷静に仕事をこなしている完璧なイメージが、ちょっと崩れた。

 俺は名刺を手にしたまま、のろのろした足取りで非常階段を上がって七階の開発部へもどった。


「おう、どうだった?」


 本間課長がすぐに聞いてくる。


「はい。やっぱり知り合いでした」


 それを聞いたとたん、本間課長がにたりとする。俺はその意味深な笑いを見なかったことにして、話を続けた。


「矢神課長が、ラベルデザインはこっちに任せると言っていました」

「マジでか!!」


 大声で叫んで、立ち上がる。

 大げさな反応に面食らっていると、本間課長が照れくさそうに笑って、ふたたびイスに座り直した。


「いやー、今までどんなに頼んでも、任せてくれたことなんか一度もなかったんや。そうかー。あいつとうとう折れたかー。やっぱり西森さんの存在は大きいなー」


 ほんの少し前まで、開発部と企画部は犬猿の仲だった。課長同士の仲の悪さはさらに険悪で、西森さんが間に入るまでは、まともに打ち合わせもできなかったらしい。

 今はそこまでではないが、ふたりとも、ことあるごとにけなし合っているような感じはする……面白半分に。


「だったらなおさら、西森さんひとりじゃ手に余るな。おまえ、やっぱり手伝え」

「……わかりました」


 俺に何ができるかはわからないが、とりあえず頷いた。

 さて。

 ここからが問題だ。


 自分のデスクにもどり、俺はもう一度あらためて名刺を眺めた。

 加島は昨日、ここに──俺と同じこのビルの中にいたのだ。

 加島は知っているのだろうか? 俺がここにいることを。


『市之瀬くんは、六日だよね』


 同窓会のとき、彼女は俺の会社の年明け初出勤日を知っていた。俺がスカイ飲料に勤めていることを、知っていたんだ。

 ふいに小さな怒りが湧いた。

 知っていたなら、言えよ!


 デスクの電話の受話器を取り、名刺に刻まれている番号を押した。ごちゃごちゃ考えるのが億劫になった。直接聞いたほうが早い。


『はい。アトリエ颯です』


 電話に出たのは若い女の声だったが、加島ではなかった。加島は外出中で、帰りは夕方になると言う。俺は電話を切って、パソコンのメールソフトを立ち上げた。

 しかし。

 いったい何をどう書けばいいのか。

 いやいや、これは仕事のメールだ、単なるアポ取りのメールだ、と自分に言い聞かせても、相手が加島である以上、形式張ったビジネスメールを書くことなど土台無理な話だった。


 結局、三十分近く、パソコンの前で頭を抱えるはめになった。

 ああでもないこうでもないと、文面を書いたり消したりしているうちに、わけがわからなくなってきた。

 あーっ、もういい!

 最後はほとんどやけくそで、勢いで書きなぐったメールを読み返しもせずに、そのまま送信ボタンを押した。

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