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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第11章 嘘つき
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 * * *



 教室の窓の向こうの青空に、うろこ雲がやわらかく広がっていた。


 もうすぐ十一月が終わる。

 誰もいない放課後の教室は、穏やかで、とても静かだった。


 校庭からは部活に励む下級生たちの声が聞こえてくるけれど、それもどこか現実味がなくて、この教室だけ外の世界から切り離されたように、ふわふわとしている。

 山はすっかり紅葉に染まっていた。

 あの秘密の場所も、きっとさまざまな色にあふれて、色を変えないクスノキをにぎやかに囲んでいることだろう。


 雛高祭の後からずっと、私はクスノキの場所には行っていない。

 市之瀬くんに会うのが怖かったから。

 ふたりきりになったら、私の気持ちはもう押さえがきかないような気がした。そうなったら、住友さんに嘘をついたことがわかってしまう。


 あのときと同じ。

 小学校六年生のとき、クラスメイトの諸見里さんについた嘘。

 私に、市之瀬くんのことが好きだと正直に語ってくれた彼女に対して、私は自分の本当の気持ちを打ち明けなかった。

 本心を隠して、応援するような態度をとって、諸見里さんのことも、市之瀬くんのことも、裏切ってしまったのだった。


 嘘をつきとおす覚悟もないくせに、どうしてすぐに嘘をついてしまうんだろう。

 私は、こんなにも市之瀬くんのことが好きなのに、どうして、口に出して言えないんだろう。


「あれ、まだいたの?」


 突然の声に驚いて顔を上げると、有村くんが黒板の前に立っていた。


「何してんの?」


 私に声をかけつつ、有村くんは自分の席へ向かう。


「日直日誌、書いてます」

「あ、今日日直なんだ? ひとり? 男は?」


 日直は男女ひとりずつ、毎日交代と決まっていた。


「先に帰られちゃって」

「……なるほど」


 有村くんは苦笑いを浮かべて、お気の毒、という目を向ける。


「有村くんは? 帰ったんじゃなかったの?」

「忘れ物」


 そう言って自分の席から辞書を抜き出すと、斜めがけにしているカバンの中に乱暴に突っこむ。

 私はふたたび日誌に目をもどした。


「加島さんさあ」


 ぎょっとして見ると、私が座っている席の前の席に有村くんが横座りに腰掛けて、こっちを見ていた。


「最近、ちょっと、元気ないよね」


 真正面から顔を見られて、うろたえる。


「そんなことないよ」


 私は笑ってごまかし、平然としているふりをして、日誌の続きを書く。

 なのに、有村くんは教室を出ていこうとしない。そこに座ったまま、頬杖をついて私が日誌を書くのをじっと見ている。


「あの……」


 目使いで抗議した。見られていると、ものすごく書きづらい。


「これ、言うなって言われたんだけど」


 有村くんは私の抗議を無視して、日誌に視線を落としたまま、ぼそりと言った。


「あのふたり、付き合ってないから」


 誰のことを言っているのかわからなかった。私は問い返す代わりに有村くんを見た。


「郁と住友」


 心臓が跳ね上がった。

 言葉を失って黙りこむ私を、有村くんのまっすぐな目がとらえる。


「中学のとき、ちょこっとだけ付き合って、別れた。だから……」


 有村くんは突然言葉に詰まったように、黙ってしまう。

 私はわけがわからなくて、どういう態度をとっていいか判断できずに、ただただ呆然としていた。

 有村くんが、急に立ち上がった。


「がんばれ」


 小声でそう言って、あとはもうふり返らず、すたすたと無言で教室を出ていった。

 ばれてたのか。

 考えたとたん、一気に顔が熱くなった。

 そんなに、わかりやすかったかな。


 自分でも気づかないうちに態度に出てしまっていたのかもしれないと思うと、恥ずかしくてたまらない。

 だけど──。

 本当に?

 本当に、市之瀬くんは住友さんと付き合ってないの?

 私は、市之瀬くんを好きでいてもいいの──?


 住友さんが、まだ市之瀬くんを好きなことは、わかっていた。彼女の気持ちは、今も市之瀬くんに残ったままだ。

 それでも、気持ちは正直だった。

 市之瀬くんの気持ちが、彼女のものではないとわかって、私はほっとしている。

 よかったと思っている。

 泣きたいくらいに。




 三月一日の朝は、曇り空だった。

 とても春に近づいたとは思えないような、冷たい風の吹く寒い日だった。


 卒業式。

 私と市之瀬くんは、走って教室を出ていく亜衣を見送り、笑顔を交わした。

 二月はほとんど学校に来ていなかったから、市之瀬くんに会うのも久しぶりだった。

 そして、まもなく、私はこの町を離れる。


 第一志望の美術大学に合格して、春からは念願の美大生になるのだった。

 市之瀬くんは、農学部を受験したと聞いている。合格発表は数日後らしいけれど、たぶん、市之瀬くんなら大丈夫だ。

 並んで立つと、ほんの少し、私の視線の位置が変わったような気がする。もしかしたら、また市之瀬くんの背が伸びたのかもしれない。


「加島」


 ぼんやりとそんなことを考えていると、市之瀬くんが低い声で私の名前を呼んだ。緊張を含んだ声のトーンにどきっとする。


「式が終わったら……話したいことがある」


 心臓が駆け出す。

 いろいろなことが頭に浮かんで、とっさにどんな顔をすればいいのかわからなくなった。私は市之瀬くんから目をそらして、足もとを見る。


 話したいことは、私にもあった。

 今日こそは、伝えようと思っていた。

 雛高祭が終わってから、市之瀬くんはなんとなく私を避けているみたいで、ふたりきりになることは一度もなかった。


 市之瀬くんが、私のことをどう思っているのかはわからない。

 ただの幼なじみとしか、思っていないのかもしれない。

 だけど、今日言わなかったら、明日からはもう、今までみたいに市之瀬くんに会えない。


「私も」


 うつむいたままつぶやいた後で、私は顔を上げた。勇気を出せ。


「私も、市之瀬くんに話したいことがあるの」


 そう言うと、市之瀬くんは少し驚いたような顔をして、「わかった」と言った。

 でも、私が心配した通り、ホームルームが終わった後も、市之瀬くんは簡単には解放されなかった。

 ほかのクラスの女の子や、式に参加していた下級生の女の子がつぎつぎと教室を訪ねてきて、そのうち彼女たちに連れられて、どこかへ行ってしまった。


「まだ帰らないの?」


 教室に残っていると、亜衣が保健室からもどってきた。有村くんは結局、最後のホームルームにも出られなくて、さっきクラス全員で保健室にお見舞いに行ったところだ。


「最後の最後に、なんだそのざまは」


 野球部の顧問でもある宇藤先生に叱られて、有村くんはふてくされていた。


「有村くんと一緒に帰るの?」


 私が聞くと、亜衣は照れたように横を向いて、「うん、まあね」と答える。


「紗月は? 誰か待ってるの?」

「美術部の子たちと、一緒に帰る約束してるんだ」


 とっさに嘘をついた。

 亜衣は「じゃあ、また連絡するよ」と言って、しあわせそうな笑顔で教室を出ていく。

 残っていたクラスメイトも、ひとり、またひとりと帰ってしまい、最後は私ひとりになった。


 市之瀬くんは、まだもどってこない。

 窓際の席に移動して、窓から校庭を見下ろした。誰もいない校庭は、ひっそりと静まりかえっていた。

 学校を囲む山の木々は、まだ冬の色を残していたけれど、きっと目に見えない小さな兆しがあちこちに芽生えているんだろう。


 足音が聞こえた。

 人の気配を感じて、私はふり向いた。

 教室の入り口に、住友さんが立っていた。


「市之瀬くんを待ってるの?」


 彼女はそう言って、教室の中に入ってきた。私のそばまで来ようとはせずに、教室の真ん中あたりで足を止め、近くの机によりかかる。


「三年間って、あっというまだよね」


 私が黙っていると、住友さんは一方的に話し出した。


「市之瀬くんとはね、中二のとき、同じクラスになったの。最初は、口を利いたこともなかったんだけどね、ちょっとしたことがきっかけで、仲良くなって、付き合うようになった。夏休みには、ふたりでいろいろなところに出かけたな。映画を見に行ったり、水族館に行ったり、私の家でDVDを観たり」


 楽しそうに話していたかと思うと、住友さんは急に黙りこんだ。


「嘘つき」


 私を見て、鋭い口調で言った。


「なんとも思ってないって、言ったくせに」


 言葉が、針のように突き刺さる。


「ただの友達なんでしょ?」


 ごめん、と言おうとした。

 私にとって市之瀬くんは、ただの友達なんかじゃない。幼なじみなんかじゃない。

 これ以上、嘘をつくことはできないと思った。

 住友さんに、正直に私の気持ちを話そう。

 でも、私の言葉は全部、一瞬のうちに弾け飛んで消えた。住友さんの、ひと言で。


「初めての人なんだよ」


 動きを止めた頭の中で、懸命にその言葉の意味を考えようとするけれど、うまくいかない。まるで細胞が──私の体全部が、理解することを拒んでいるみたいだった。


「だから、たぶん一生忘れられない。わかるでしょ?」


 何も言えなくて黙っていると、住友さんがかすかにほほえんだように見えた。


「一度だけじゃない。別れてからも、そういうことだけは続いてたの。加島さんにはわからないだろうけど、そんな関係もあるんだよ」


 もう何も聞きたくなかった。

 私はカバンを手にすると、急いで教室を出た。気づいたら、涙が頬をつたっていた。

 目には校内の景色が映っていたけれど、何も見えていなかった。耳が拾う音も聞こえない。感覚は生きているのに、なにひとつ心に届かない。

 ただ、濡れた頬を打つ風の冷たさだけを感じていた。

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