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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第10章 話したいことがある
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 * * *



 十一月も半ばを過ぎると、いよいよ本格的に受験モードが濃くなった。


 体育祭や雛高祭で浮かれ騒いでいた雰囲気は、またたくまに教室から消えてなくなる。

 誰もあからさまに口にはしないものの、受験や卒業といった言葉が教室の後ろの壁に四六時中貼り出されているかのような、どことなく暗くて重い空気が漂う。


 雛高祭の後、俺と加島は二人きりで話すことも会うこともなくなった。

 加島は、昼休みも放課後も美術室に入り浸るようになっていた。雛高祭の前にはクスノキの場所で会うこともよくあったのに、もうあの場所に彼女が現れることはない。


 俺のほうも、意識してふたりきりになることを避けていた。

 また誰もいない場所でふたりきりになってしまったら、何をするかわからない。ずっと堪えてきたいろいろなものを、抑えきれなくなりそうだった。自分で自分を制御する自信がなかった。


 ただの友達、と言われてしまったのだ。

 加島が俺と同じ気持ちならともかく、彼女のほうにそういう気がないことがわかった以上、強引な行動を取るようなことだけは絶対に避けなければ、と思った。


 だけど、いったいどうすれば、加島の気持ちを変えることができるのだろう。

 わからないまま、時間だけが無慈悲に過ぎていく。


 幼なじみ、という事実が、良くも悪くもやっかいだった。

 俺が知っているかぎり、加島はたぶんまだ誰とも付き合ったことがないはずだ。

 離れていた中学の三年間については知りようがないのだが、クラスの男子ともろくに口をきけない加島が中学で男と付き合うなんて、ありえない。考えられない。


 まあそれも、希望的観測が大いに含まれているのだけれど。

 加島のことは俺がいちばんよくわかっているという、実際にはまったくあてにならない思いこみと自負が、無駄に自信を与えてしまうのかもしれない。本当にやっかいだ。

 俺の私情を抜きにしても加島はかわいいと思うし、性格的にも、おとなしすぎて声をかけづらいという点を除けば、男に好かれるほうだと思う。


 ただ単に奥手なだけなのか。

 それとも好きな男がいるのか。

 好きな男。

 考えただけでぞっとする。それだけは勘弁してほしい。


 加島も俺も、第一志望は関東の大学だった。だから、卒業しても距離的に離れる心配はないのだが、そんなものはなんの安心材料にもならない。

 たとえ地元に残ったとしても、同じ町内に住んでいたとしても、このままただのクラスメイトで卒業してしまえば、きっと二度と会うことはないだろう。

 中学のときみたいに、また偶然の再会を祈りながら悶々と日々を過ごすなんて、二度としたくなかった。


 校舎のまわりの景色は、深い秋の色に変わっている。

 夏の間、息苦しいほど鮮やかな緑色だった山の木々も、冷たくなった空気の中で静かに色を変え、それぞれ見事な黄色や赤に染まっている。


 もうさすがに森の中で昼寝をするには寒くなって、昼休みの時間を持てあまし気味に教室の窓から外を眺めている俺の隣で、健吾がうっとうしいくらい大きな溜息をついた。

 その視線の先には、松川亜衣がいる。

 廊下で、四組の島津裕輔しまづゆうすけと楽しそうに話している。雛高祭の後、松川が島津と付き合い始めてから、ほとんど毎日見る光景だった。

 健吾がまた大きな溜息を漏らす。


「おまえさ」


 下手に関わるのはよそうと思って黙って見ていたが、もはや見るに見かねる状態だ。


「なんともないわけ? 松川がアイツと付き合ってて」

「んー」


 健吾はしかめ面をして腕を組み、首をひねる。


「よくわかんねえんだけど、なんかすっげー気になるんだよな。あいつらのこと」


 俺は本気で心配になった。


「おまえ……バカ?」


 廊下を見ていた健吾の視線が俺に移り、ますます険しい顔をして「なんだよ?」と不機嫌なゴリラみたいな声を出す。


「ほっとけって言いたいんだろ。わかってるよ」


 健吾はけだるそうに巨体を回転させて、廊下に背を向けた。窓台によりかかるように、組んだ腕に顎を乗せて、ぼんやりと窓の外を見つめる。


「俺はただ、応援してやるって言っただけなんだよ。なのにさ、あいつ、それから口きいてくれなくなったんだよ。おかしいだろ。わけわかんねえ」


 めずらしく、声がいらだっている。


「……松川が怒る理由、ほんっとにわかんないわけ?」


 端から見ていても、あんなにわかりやすいのに。正直うらやましいくらいだ。

 健吾は俺を見て、情けなくなるくらい弱々しく笑った。


「俺さ、初めて会ったとき、あいつのこと男と間違えちゃってさ。第一印象から最悪だったんだよ。その後も、どういうわけか、いつもあいつのこと怒らせちゃうんだよな。よっぽど嫌われてんだろうな」


 あ、もうダメだ。これは一生気づかねえ。


「ところで、おまえ、加島さんになんかした?」


 俺が匙を投げた次の瞬間、健吾がさらっと聞き捨てならないことを言った。


「雛高祭の後から、元気がないような気がするんだよな。昼休みだって、前は教室で過ごしてたじゃん。まあ、松川が島津と付き合うようになって、気を使ってるのかもしれないけどさ。でもやっぱ、変なんだよな」


 聞いていると、微妙にむかつく。

 どうしてこいつが加島の心配をしてるんだ。松川の気持ちには気づかないくせに。


「それが、なんで俺のせいなんだよ」


 つい、声に恨みがましい気持ちがこもる。


「おまえ、前科あるし。また加島さんのこと無視したりとか、してねえ?」

「してねえよ」


 ふたりきりになるのを避けているだけで、ほかの生徒がいるところでは普通に接しているつもりだった。友達として。


「ほんとに心当たりねえの?」

「……あるわけねえだろ」


 健吾の問いに、一瞬だけ答えが遅れた。

 何もしていない、と言い切るには、疚しい気持ちが強すぎた。

 停電の日のあれは、「何かした」部類に入るのか?

 いや、何もしてねえし!

 だが未遂とはいえキスしようとしたのは確かで、しかも加島の気持ちも確かめず──。


「やっぱ、なんかしたんだろ」


 俺のためらいを見抜いたように、健吾が冷たい視線を送ってくる。


「してない。人聞きの悪いこと言うな」

「気づいてないだけじゃねえの? おまえ鈍感だからな」

「……おまえにだけは言われたくねえよ」


 健吾はしつこく疑いの目を向けていたが、俺はそれ以上何も言わなかった。

 落ちこんでるのはこっちだっつーの。




「風邪だね」


 養護教諭の湧井先生にそっけなく言われ、ベッドの中の健吾は赤い顔をして、「だっせー」と鼻づまりの声で苦しそうに呻いた。


 三月一日の朝。登校して教室に入ってくるなり、健吾は「気分が悪い」と言って崩れ落ちた。

 中学から高校までの六年間、一度も病欠をしたことのない、ロボット並みに無神経で強靱な肉体を持つ男が、こうも簡単に風邪でダウンするとは。

 よりによって、卒業式の朝に。


「……笑える」


 俺が保健室のベッドの脇に立って見下ろすのを、健吾は横になったまま半眼で睨む。


「まさに“鬼の霍乱”だわ」


 体温計を確認しながら、湧井先生もかすかに笑っている。


「これじゃ、式に出るのは無理だろうね。けっこう熱が高いから。あきらめておとなしく寝てなさいな」

「くっそー……」


 健吾の顔がますます赤くなり、先生の言葉通り鬼みたいに見える。


「市之瀬はそろそろ教室にもどったほうがいいんじゃない? 宇藤先生には、私から連絡しておくから」


 俺は「お願いします」と言い残し、悔しそうな健吾を置き去りにして保健室を後にする。

 教室にもどると、加島と国枝が心配そうな顔をして俺の帰りを待っていた。健吾が倒れたとき、ふたりとも教室にいたのだ。


「心配ない。風邪だってさ」


 俺の言葉に、加島がほっとして肩の力を抜く。国枝も笑顔を見せて「安心しました」と言う。


「式には出席できそうなんですか?」

「欠席するって」

「そうですか……残念ですね」


 ほかの生徒に呼ばれて、国枝は俺たちのもとを離れた。


「めずらしいよね、有村くんが病気になるなんて」

「あれは知恵熱」


 俺が小声で言うと、加島が首を傾げた。


「あいつ、ここのところずっと、いろいろ考えこんでたから。柄にもなく」

「試験のこと……?」

「いや、まったく別のこと」


 たぶん、あいつは初めて、自分の気持ちと向き合ったんだろう。

 加島はしばらく理解できないような顔をしていたが、ふいに思いあたったようにハッとして、俺を見た。

 ちょうどそのとき、松川が教室に入ってきた。


「おはよー。どうしたの? ふたりして深刻な顔して」


 加島が説明しようとするのを、俺は遮った。


「健吾が倒れたんだよ」


 笑っていた松川の顔から、色が失われる。

 俺の言葉の意味を必死に飲みこもうとするみたいに、松川はしばらく黙って俺の顔を見ていた。


「え……何? どういうこと……?」

「今、保健室に運ばれたところ。これから病院に行くって言ってた」

「……何よそれ」


 愕然としている松川の手から、加島がカバンを奪う。


「保健室、行ってきなよ。まだ間に合うかもしれない」

「……でも」

「早く!」


 加島の叫び声にびくっと体を震わせて、松川は踵を返した。最初はのろのろとした足取りだったが、やがてすごい勢いで教室を飛び出していった。

 俺と加島は、松川が教室を出ていくのを見送った後、深い溜息をこぼした。


「世話の焼けるやつらだな」

「本当にねえ」


 思わず顔を見合わせた。ふたりとも、自然に笑顔になる。


「有村くん、もしかして知らないのかな? 亜衣と島津くんが別れたこと」


 加島が言った。


「あー、知らないんじゃねえの」

「教えてあげなかったの?」

「まあな」


 加島は責めるような目で俺を見上げて、「意地悪だね」と言う。


「そうか? 世界一、親切な友人だと思うけど」


 加島が笑った。久しぶりに、間近で見る笑顔だった。それも、俺にだけ向けられた、最高の笑顔。


「合格したんだよな。おめでとう」

「あ、うん。ありがとう」


 俺と健吾は合格発表を数日後に控えている状態なのだが、加島と松川はすでに進路を決めていた。

 加島は美大に合格して雛条を離れることになり、地元の短大に受かった松川は雛条に残る。


 今日は、卒業式だ。

 もう、これが最後のチャンス。


「加島」


 自然に声をかけたつもりだったのに、声に緊張が表れていた。笑っていた加島の顔が、そのことに気づいて敏感に反応する。笑顔が消える。


「式が終わったら……話したいことがある」


 俺を見つめる加島の目に、驚きと戸惑いが浮かんだ。困惑した表情のまま、加島は俺から目をそらして、うつむいた。

 そしてうつむいたまま、「私も」とつぶやく。

 ゆっくりと顔を上げて、加島は強いまなざしで俺を見た。


「私も、市之瀬くんに話したいことがあるの」


 強い意志のこもった目で見つめられて、俺は焦った。鼓動が速くなり、胸が苦しくなる。かろうじて息を整え、「わかった」と答えた。


「でも、市之瀬くんは、その……簡単には、帰れないでしょ? きっと……その」


 加島がまた顔をそらして、何か言いにくそうに口籠もる。


「女の子たちが……たくさん、待ってると思う……」


 聞き取れないほど小さな声で、つぶやくようにもごもご言った。


「加島は?」


 俺が待っていてほしいのは、彼女だけだ。


「加島は、待っていてくれないわけ?」


 加島はますます困ったように赤くなってうつむき、小声で「待ってる」とだけ言った。

 まもなく、俺たちは体育館に移動した。


 卒業式が始まってから終わるまで、まったく上の空だった。

 初めて、加島と気持ちが通じ合ったように思えた。

 期待で胸がいっぱいになり、式の内容なんてまったく頭に入ってこない。いろんな人が、壇上で卒業生の新たな門出を祝う言葉を語っていたが、最初から最後までまったく集中できなかった。


 式が終わって体育館の外に出ると、式に出ていた下級生の女子が数人やってきて、俺を引き留めようとした。なんとか彼女たちをふりきって、保健室に行く。

 保健室のベッド脇には、すでに松川がいた。式の後、まっすぐここへ来たのだろう。

 寝ている健吾は朝と同様に赤い顔をしていたが、それが熱のせいなのか、それとも別の理由によるものなのか、かなり怪しかった。ふたりとも、異様に口数が少ない。

 ばかばかしくなって、俺はさっさと保健室から退散した。


 教室での最後のホームルームは、長々と語らない宇藤らしく、あっさり終わった。

 だがその後も、教室を訪ねてくる女子が後を絶たず、第二ボタンをくれだの、一緒に写真を撮らせてくれだの、なんだかんだと呼び出されて、結局二時間近く、教室にはもどれなかった。


 それでも、俺は加島が待っていると信じていた。

 俺の気持ちは、もう加島に通じていると思っていた。

 ほとんどの生徒は、校内からいなくなっていた。静かな廊下を歩いて、一号館の四階にある教室にもどった。


 教室の中にいたのは、住友だった。

 加島の姿は見あたらない。


「……住友、ひとり? ほかに誰かいなかった?」


 俺が聞くと、住友は首を傾げて「さあ」と言う。

 風が、教室の窓ガラスを叩いている。


「私が来たときには、もう誰もいなかったよ?」


 そして、カバンを抱えて俺のほうへ歩みよる。


「一緒に帰ろ」


 俺は住友から離れて、窓のそばに立った。


「俺はもう少し残るから」

「加島さん、ただの友達だって言ってたよ。市之瀬くんのこと」


 住友がおだやかな声で告げた。


「もうあきらめなよ」


 俺は住友を無視して、窓の外に視線を移した。


「どうして私じゃだめなの?」


 聞こえてくる住友の声は、かすれていた。顔を向けると、彼女はカバンを抱えたままその場に立ちつくし、泣いていた。


「私は、忘れられないのに……どうして、市之瀬くんは忘れられるの?」


 忘れてなんかいない。

 胸を刺す痛みは、あのときも今も同じ。


「ごめんな」


 心から、そう思った。

 時間を巻きもどせるものなら、彼女のためにもう一度あの夏にもどりたい。

 そして──彼女には指一本触れない。

 住友は右手の甲で乱暴に涙を拭くと、うつむいたまま言った。


「もう二度と会わない」


 うつむいたまま、俺と目を合わせることなく、住友は教室を出ていった。




 しばらく教室で待った後、俺は三階の美術室へ行ってみた。教室の扉は堅く閉ざされ、鍵がかかっていた。

 昇降口にも、中庭にも、グラウンドにも、加島はいない。


 クスノキの場所へ行ってみた。

 あたりに人影はなく、寒々として、人の気配は感じられなかった。

 落葉して枝をさらす周囲の木々の中で、変わらずに葉をつけているクスノキの梢が、まだ春とは呼べない冷たい風にさらされていた。

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