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* * *
何が起こったのだろう。
暗闇の中で、私は市之瀬くんの温もりだけを感じていた。
とくとくと心臓の音が聞こえる。長い腕がふんわりと私を包みこむように抱き、大きな手が私の背中を支える。
夢かと思った。
信じられなくて、じっとしていた。
少しずつ、少しずつ。市之瀬くんの制服の胸に顔をうめるようにして、体をあずける。鼓動が近くなる。やさしい匂いがする。
雨音が激しさを増した。
風が吹き荒れ、雨粒が窓を叩く。山が吠えるような音をたてる。
闇に沈んだ教室の中、市之瀬くんは私を抱きよせたまま離さない。
このまま──永遠に世界が動き出さなければいい、と思った。
市之瀬くんの手がやさしく私の髪をなでる。こんなことされたの、いつ以来だろう。うんと小さい頃以来、かもしれない。
闇の中、私は両手をさまよわせた。確かめるように、市之瀬くんの背中に手を回す。制服の生地を通して、てのひらに体温が伝わる。
両手に、ほんの少し力をこめた。ぎゅっと。
後から思えば、ものすごく大胆なことをしたと思う。でも、このときは、ごく自然にそうしてもいいような気がした。
ずっとそうしていたかったのに、市之瀬くんはわずかに体を離した。ぎゅっとしたのがいけなかったのかもしれない、そう思ったとき。
市之瀬くんの両手が、私の頬を包んだ。
かたい、大きなてのひらだった。そして熱かった。
熱い手が、ゆっくりと私を上向かせる。
暗闇の中でも、目が合ったのがわかった。その目を見たとたん、どうしようもなく切なくなった。心臓に痛みが走るほど。
市之瀬くんの顔が近づいてきて、私は思わず目を閉じようとした。そのとき。
世界が目覚めたように、光がもどってきた。
世界が動き出しても、私たちはまだ闇にとらわれたまま、しばらく動けなかった。教室にもどることを促す先生たちの声が聞こえてきて、ようやく市之瀬くんが私から離れ、廊下を見にいった。
私たちはふたりで教室にもどった。廊下を歩いているときも、教室にもどったあとも、市之瀬くんは私を見ようとしなかった。
「近くに雷が落ちたらしいよ」
教室に残っていた亜衣が教えてくれる。窓の外を見ると、風も雨も幾分おさまっている。雷はもう遠ざかったようだ。
「よかった。このぶんならバスで帰れそうだね」
私と一緒に教室の窓から外のようすを眺めながら、亜衣がいった。
市之瀬くんは、廊下で有村くんとなにか話しこんでいる。いつもどおりの無表情だった。やっぱりあれは夢だったのかな、と思う。あるいは私の妄想?
私たちはなにも言葉を交わさないまま、帰宅した。
夢にしろ妄想にしろ、あまりにも鮮烈すぎる。
未だにその場面を思い出しては、恥ずかしくて叫び出したくなったり、心臓が早鐘を打って顔が火照ったりしてしまう。あれから何日も経っているのに。
市之瀬くんのほうは、いたって普通だった。停電の日の翌日、何もなかったような態度で、完成しそこねたポスターの仕上げを手伝うといってきた。
私は意識しすぎておかしくなりそうだった。普通に会話するだけでも息が止まりそうで、うまくしゃべれない。市之瀬くんとまともに目を合わせることができない。とてもじゃないけど、もうふたりきりになるのは無理だった。
「あれは……えっと、家でやるから。いいよ」
私は必死に笑顔を浮かべる。市之瀬くんはすぐに「わかった」といい、「じゃあよろしく」と私に背中を向けて離れた。
市之瀬くんのそっけない態度は今までどおりなのに、なぜか悲しく感じる。
異常なほど意識しているのは私だけで、市之瀬くんは、あんなことくらいなんでもなかったのかもしれない。ただちょっと、雰囲気に流されただけだったのかもしれない。
私は家に持ち帰ってポスターの残りの部分を仕上げ、翌日国枝さんに提出した。
「すごーい、きれい!」
「さすが美術部だねー」
クラスのみんなが思った以上にポスターの出来を気に入ってくれて、その様子を見た国枝さんが、「お客様にお出しするコースターにも、何か絵を描いていただけませんか?」と言った。
雛高祭まで残り一週間しかない。
百五十枚のコースターに絵を描くのは、けっこう大変な作業だった。
できるだけ簡単なデザインを考えて、クラスのみんなにも手伝ってもらう。トレーシングペーパーを使って鉛筆で原画を写し、上からカラーペンでなぞるという方法だ。
美術部の作品のほうがまだ完成していなかったので、ちょっと焦ったけれど、放課後みんなと一緒にコースターに絵を描くのは楽しかった。私が描いた絵をトレースして、みんな、一生懸命描いてくれた。
美術室に展示する作品も、なんとか間に合った。
雛高祭当日、私が描いたクスノキの絵は、美術室の正面に展示された。入ってすぐ目につく場所だ。
私はこの絵を、市之瀬くんに見てもらいたかった。
でも、きっと市之瀬くんは美術室に立ちよったりはしないだろう。
横に長い一号館の西の突き当たりという場所の悪さもあって、美術室周辺にはなかなか人が集まらない。毎年、誰もいない教室で、作品だけが静かに佇んでいる……というのが現実だ。
対照的に、私たちのクラスの和装カフェは、なかなかのにぎわいを見せた。
やってくるのはほとんどが女性客だった。市之瀬くんと有村くんが客引きをしているせいだ。
有村くんは、野球部を引退して髪を伸ばし始めてから、女子からの人気が急上昇した。市之瀬くんは言うまでもなくモテる人だし、二人が一緒にいると、以前にも増して注目されるようになった。
みんなで苦労して準備したのだから、お客がたくさん来てくれるのはうれしいに決まっている。でも、私は内心複雑だった。
「わー、かわいい。似合うじゃん、紗月」
着付けを終えた私を見て、亜衣が言う。国枝さんが選んでくれた小豆色の矢絣の着物に合わせて、髪は編みこみのアップにした。帯がきつくてちょっと苦しいけれど、少しのがまんだ。
亜衣のほうは、紫の小袖に臙脂の袴姿。ふわふわのウェーブがかかった長い髪をハーフアップにして、足もとはブーツ。
「亜衣もすっごく似合ってる。朝ドラのヒロインみたい」
「そお?」
うれしそうな照れ笑いを浮かべる亜衣に、私はそっと顔をよせて小声で聞く。
「ね、有村くんと仲直りした?」
亜衣の無邪気な笑顔がたちまち曇る。
「ケンカになってないのに、仲直りも何もないよ。イライラしてんのは私だけなんだもん。あいつはなーんとも思ってないんだもん」
「でもそれは、有村くんが気づいてないだけで」
「たぶん永遠に気づかないと思う」
亜衣はふーっと長い息を吐いた。
「いいんだ、もう。あいつのことは、終わりにする。なんかさ、バカみたいなんだもん。見込みのない人をいつまでも好きでいるのなんて。こんなことしてたら、あっというまに青春終わっちゃうよ。だから、もうやめる。ちゃんと私のこと見てくれて、私のこと好きだって言ってくれる人、探す」
強がっているのは見え見えだったけれど、亜衣がわざとそんなふうに言っていることもわかっていた。
そうやって言葉にして誰かに宣言しないと、気持ちにブレーキをかけられない。いつまでもずっと、好きでいてしまうから。
そっと廊下のほうへ目を移すと、市之瀬くんと住友さんが親しげに話しているのが見えた。
その光景を見たとたん、自分が途方もない勘違いをしていたことに気づかされた。
市之瀬くんには住友さんがいる。
あの停電のとき、市之瀬くんも同じ気持ちだったのかもなんて、少しでも思った自分が恥ずかしい。そんなことあるはずがない。
きっと、私が怯えていたから、安心させようとしただけだったんだ。子供をあやすみたいに、ちょっと抱きよせただけだったのを、私が思い違いをしてひとりで意識して舞い上がっていただけだったんだ。
「加島さん……だよね?」
「えっ」
ふりむくと、住友さんがいた。
「市之瀬くんから聞いてるよ。小学校からの知り合いだって」
大人びた、余裕のあるほほえみ。制服でもはっきりわかるスタイルのよさ。私はひそかに着物でよかったと思った。おかげで貧弱な体型が目立たない。
住友さんは私に声をかけた後、一緒にいる友達ふたりと、すぐそばのテーブル席に座った。
「小学生のときの市之瀬くんって、どんな感じ? かわいかった?」
「え。あ、そう、そうだね。小さかったから」
亜衣に接客を替わってもらおうと思ったのに、住友さんは私に話しかけるのをやめてくれない。まるで昔からの友達みたいに、親しげな態度。
「うん、知ってる。中学のときも小さかったもん。最初は私よりも背が低かったんだよ。それが、あっというまに抜かれちゃって。今でもまだ伸びてるみたい」
「そうなの?」
できるだけ自然に笑ってみたけれど、自信がない。住友さんの前で普通に市之瀬くんの話をすることが、こんなにも難しいことだとは思わなかった。
「わ、これかわいいね」
注文した飲み物と一緒に出したコースターを見て、住友さんが言った。
「それねー、この子が描いたの」
いつのまにかすぐ後ろに亜衣がいて、言わなくてもいいことを言ってしまう。
「ほんと? うまいね」
「そうなの。美大目指してるんだよ。美術室に作品が展示されてるから、よかったら見にいってあげてね」
「ちょっと亜衣」
なんでそんなこと言うの! と、私は心の中で叫んだ。住友さんはじっくりコースターを眺めた後で、「うん。後で行ってみる」なんて答えるし。
住友さんは店を出た後、廊下にいる市之瀬くんと言葉を交わしてから、手を振って別れた。私は交代の時間になると同時に制服に着替え、廊下に出た。
市之瀬くんは鉄紺色の着流し姿で、ほれぼれするほどよく似合っていた。下駄を履くといっそう背が高くなって、見栄えがする。女の子が集まってくるのもわかる。
けれど、本人は相変わらずにこりともしないで、時代劇に出てくるうらぶれた浪人みたいに堅苦しい顔をして、所在なげに立っていた。
「市之瀬くん、お疲れ。まだ終わらないの?」
心を決めて、精いっぱい明るい口調を心がけた。市之瀬くんは一瞬私と目を合わせた後、すぐに顔をそらして廊下の窓の外を見る。
たったそれだけのことで、私は落ちこんでしまう。勘違いするなと言われたみたいで。
「私、ちょっと美術室のほう見てくる。もどったら、宣伝係交代するよ」
そう言ってから、何バカなこと言ってるんだろう、と思った。
「私じゃ、市之瀬くんの代わりはつとまらないか」
市之瀬くんは私を見て、何か言いたそうな顔をした。けれど結局何も言わず、また窓の向こうへ視線をもどす。
私は教室を後にして、美術室に向かった。
市之瀬くんの隣にいられるのは、私じゃなくて住友さんだった。
市之瀬くんは、私のことなんてなんとも思っていない。きっとただの幼なじみで、ただの友達。
亜衣の言う通り、見こみのない人を好きでいてもしょうがない。ちゃんと私のことを見てくれて、私のことを好きだっていってくれる人を、探すべきだと思う。
でも、私は市之瀬くんのことをずっと好きでいたかった。
私ひとりの胸の中でひそかに想うだけなら、許されると思っていた。だから誰にも打ち明けずに、心の底に隠してきた。
だけど、住友さんは気づいてしまうかもしれない。
私が描いたあの絵を見たら、住友さんなら、気づくかもしれない。私が誰を想ってあの絵を描いたか──。
美術室へ向かう足が、自然と速くなっていく。小走りになりながら、祈った。
お願いだから、もう少しだけ。
あと少しだけでいい。卒業するまででいいから、市之瀬くんのことを好きでいさせて。お願い。
静まり返った廊下に私の息づかいと足音が響く。美術室の扉を開けると、中にいたのは住友さんひとりだった。
住友さんは、私が描いた絵の前に立っていた。私と目が合うと、「やっぱり上手だね」と言った。でも、今度は笑わなかった。
澪入山のクスノキだと、誰が見てもわかる絵だった。
その大きな枝から鳥が飛び立つ瞬間を、たくさんの色を使って描いた絵。私の好きな色を、ぜんぶ塗りこめた絵。キャンバスからあふれる、想いの色。
「加島さん」
住友さんの声がかすれていた。重苦しい緊張が教室を満たした。
「正直に答えて。市之瀬くんのこと、どう思ってるの?」
ひとつの答えを切望して、住友さんの瞳が揺れている。彼女の不安が伝わってくる。切なくなるくらいに。
「なんとも思ってないよ」
私は用意していた言葉を口にする。
「本当に? 本当に、なんとも思ってないの?」
それを聞いてどうするの。そう問いたくなるのを、私は唇を噛んでこらえた。
私の気持ちなんか聞いたって、誰も幸せにならないのに。
「市之瀬くんとは、ただの友達だよ。昔から」
その台詞を口にしたとき、嘘だとわかった。
ひそかに想うだけでいいなんて嘘だ。卒業するまででいいなんて嘘だ。このままでいいなんて大嘘だ。
私は、市之瀬くんの気持ちがほしいと思っている。
たぶん、ずっと前から。




