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雛高祭の役割を決める、ロングホームルームの時間。
「まだ決まっていないのは、ポスター係だけですね」
学級委員長の国枝さんが黒板に視線を移し、名前の書かれていない項目をチェックした。
「どなたか、やっていただける方はいませんか?」
しーんとする教室内。校内に貼り出す宣伝用のポスターを作成するのだけれど、センスを問われるうえに失敗したら大恥をかくので、誰も手をあげない。
それに、文化部に所属していない人は、もうほとんど何らかの仕事を割り振られている。文化部のメンバーは、先に国枝さんからお役御免を言い渡されていて、部活の方を優先できることになっていた。
なので、残っているのは……この場にいない人物、ひとりだけ。
「わかりました。それでは、ポスター係は市之瀬さんにやっていただくことにしましょう」
さくっと、国枝さんは独り決めしてしまう。私が教室の隅でひとり蒼白になっていることに気づくはずもなく、彼女はチョークで黒板に市之瀬くんの名前を書き殴る。
待って待って。それはダメだってば。
「これですべて決まりましたね。では、近いうちに工程表とスケジュールをお配りしますので、各自責任を持って遂行してください」
ええっ。ちょっと、ウソ。決めちゃうの?
「くれぐれも遅れのないように。玉利さんは、随時進行具合を確認して私に報告してください。あと、文化部に所属されている方、余裕があればクラスの手伝いをしていただけると助かります。よろしくお願いします」
じゃなくてっ。それだけはダメなんだって。そんなの頼んだら、市之瀬くん、絶対困る。ものすっごく、困ると思う!
「ほかに何か、質問はありますか?」
誰も何も言わない。もうみんな帰り支度を始めてそわそわしている。
私は助けを求めるように、斜め後方の席の有村くんをふりかえる。有村くんはだらっとした姿勢で頬杖をついて、半開きの目をうとうとさせている。何度視線を送っても、私の救難信号に気づかない。
どうする? どうすんの?
「では、これで終わ……」
「あっ、あのっ!」
私は反射的に手を挙げていた。挙げてしまってから、どうしようと焦る。
「はい。なんでしょう、加島さん」
「えっと、えーと」
言うべき言葉を何も考えていなかった。
なんて言う? 市之瀬くんにポスター係は無理です、ほかの人にしてあげてくださいって? そんなこと言えない……。
「私もポスター係をやりたいんですけど!」
思わず、いつもより大きな声で叫んでしまい、ざわつき始めていた教室の中がふたたびしんとなる。
国枝さんが、何を言っているのかしらこの子は、みたいな目をして私を見る。
「ポスター係は、市之瀬さんおひとりでいいように思いますが」
よくないんです、それが。
「それに加島さんは、確か美術部でしたよね?」
「そうなんだけど……でも、あの、クラスのほうも、何か参加したいなと思って」
「そうですか」
不思議そうに首を傾げながらも、国枝さんは「では、お願いします」と言った。
ほっとして息をつく。とたんに教室中の視線が自分に集まっていることに気づいて、うろたえる。こういう場で発言なんかしたのは、初めてだ。緊張して汗が滲んでくる。
でも、よかった。なんとかできて。
ホームルームが終わると、亜衣が心配そうに声をかけてくれる。
「いいの? 美術部で展示する作品、まだ決まってないって言ってなかった?」
「あー、うん。でも大丈夫」
私は急いで教科書とノートをカバンの中に放りこむ。たった今、とてもいいことを思いついたのだ。
「じゃあね」と亜衣に手を振って、早足で教室を出る。
今の今まで、雛高祭に出す作品を何にするか決めていなかったけれど、今、クスノキを描こうと決めた。もうこれしかないという感じ。
そうすれば堂々とあの秘密の場所に通えるし、市之瀬くんとふたりきりになっても気詰まりじゃない。だって私は作品を描くためにあの場所へ行くんだから。
廊下を急ぎ足で歩きながら、まだ秘密の場所にいるかもしれないと考えて、どきどきする。美術室にスケッチブックを取りに行き、後輩に行き先を告げて教室を出る。
ところが、クスノキのところに市之瀬くんはいなかった。もう教室にもどってしまったらしい。
勢いづいた上昇気分が一気に下降し、私は溜息をついた。
あらためて、クスノキの幹の周りを歩いてみる。
現実離れした大きさに、何度見ても溜息が出る。ここだけ古代の森のようだ。枝のすきまから細い筋のような光が射しこむ様子は、神々しいとさえ思う。
あたりを見渡してみたけれど、どこにも案内板のようなものは見当たらない。いつ来ても人はいないし、わかりやすい道案内がないのかもしれない。
整備して観光地にしてしまわないところが、商魂とは無縁の雛条らしいと言えば雛条らしい。
スケッチブックを開いて、私は目の前のクスノキを見つめた。
息を吐く。
耳をすます。
葉擦れの音だけが聞こえてくる。
遠いところから誰かが語りかけてくるような、静かな、やさしい音。
「加島」
背中に声がかかって、私はふりむいた。市之瀬くんの声を聞き間違うはずもなく、こちらに歩いてくる彼の姿を目に収めると心が跳ねた。
市之瀬くんは、私が手にしていたスケッチブックを隠す間もなくのぞき見る。それから感心したように「すごいな」といって、複雑そうな顔をした。それから言いにくそうに、雛高祭のことを聞く。
ポスター係の仕事を説明すると、どんどん、市之瀬くんの表情が硬くなっていく。
日頃から表情ないけど、今回はさらにひどい。よっぽど嫌なんだろうなあ。それなのに私がひとりでやるからと言っても、なかなかうんと言わない。
市之瀬くんが、自分が頼まれた仕事を他人に押しつけるようなことはしないって、わかっているけれど。こんなことくらいしか、私が力になれることなんてないのに。
「こんなときくらい、私に頼ってよ」
思わず、言ってしまった。市之瀬くんはしぶしぶ了解してくれたけれど、生意気だって思われたかもしれない。
その後も調子に乗って、聞かれもしないことをべらべらしゃべってしまうし。市之瀬くんは、なんかちょっと呆れてたっぽい。途中から全然しゃべらなくなった。
もう確実に変なヤツだと思われてる。大反省。私は絵のことになると夢中になってしまうところがあるから、気をつけよう。
途中で教室にもどる市之瀬くんと別れて、私は美術室に向かった。
「あ、先輩。さっき、市之瀬先輩が探してましたよ。会えました?」
美術室でおしゃべりしていた一年生が、私がもどってきたのを見ていった。
「うん、会った。ありがと」
「市之瀬先輩って、やっぱりかっこいいですよねー」
素直な目を向けられて、どう反応していいかわからず、私は笑ってごまかす。
「五組の住友先輩と付き合ってるんですよね。お似合いだなーうらやましいなー」
そう……お似合い。
誰が見ても、お似合いなんだよね……。
私は窓際のイスに腰掛けて、スケッチブックを開いた。
さっき描いたばかりのクスノキのスケッチは、どこから見ても普通のクスノキの絵だった。これでは、小学生の写生画と変わらない。
もっと何か……。
もやもやした影のような漠然としたイメージが、頭の中で遠くなったり近くなったりしている。つかめそうで、つかめない。こういうときは、いろいろな方向から、ひたすら探るしかない。もどかしい。
あのクスノキには、クスノキの精と村の娘の、ふたりの霊が宿っているのだろうか。結局、ふたりは再会できたことになるのかな。それとも……。
イメージが遠ざかる。
頭で考えると、いつもうまくいかない。
私は目を閉じて、胸の中心に意識を集中する。全身で心臓の音だけを聞く。
あのクスノキは、私に、ひとりのイメージしかよこさない。
描けるだろうか。私に。
私はもう一度スケッチブックを見つめる。
描いてみたい。
膜を切り裂くように、イメージが鮮明な姿で浮かび上がった。




