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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第8章 ただの友達
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 * * *



 雛高祭が近づくと、いよいよ準備に忙しくなってきた。


「あれほど遅れないようにと言ったのに、どうなっているんですか」


 国枝は工程表をチェックしながら、隣にいる玉利に向かってぶつぶつ文句を言った。

 放課後の教室は、看板や衣装や小道具に占領されて、ごった返している。


「加島さん、ポスターはどんな具合ですか?」


 一緒にいる俺を端から無視して、国枝は加島に尋ねる。


「あと少し。たぶん、今日か明日には完成すると思う」

「順調なのはポスターだけですね。本当に助かります。ですが……落ち着いて描ける場所がありませんね」


 教室の机と椅子は全部廊下に出しているし、床は看板やら生地やらで見事に埋まっていて、作業スペースの取り合いになっている。おまけに騒がしい。確かにこれでは、集中できそうにない。


「市之瀬さん、宇藤先生に事情を説明して、社会科教室の鍵を借りてきてください」


 国枝に指示され、俺は加島と社会科教室の前で落ち合うことにして、教室を出た。

 宇藤は職員室にいた。俺が事の次第を説明すると、鼻の上に皺をよせて、感心と疑惑の入り交じった目で俺を見た。


「めずらしいな。おまえが学校行事に積極的に参加するなんて」

「なりゆきで」

「ふーん。まあいいことだ」


 そう言ってふたたび机に向かいかけて、ふと思い出したようにふり向く。


「そう言えばおまえ、農学部だったよな。第一志望」

「はあ」

「理科の成績がとびぬけていいことは知っていたが、農学に興味があるとは知らなかったなあ。研究者を目指すつもりか?」

「はあ……」


 答えられずに適当にお茶を濁そうとすると、宇藤は片方の眉をつり上げて溜息をついた。イスを回転させて、俺と向き合う。


「おまえのやりたいことはなんだ?」


 それがわかったら、苦労しない。

 黙っていると、宇藤はますます心配した顔つきで俺を見た。


「おまえ、一年のときからずっとそうだよな。野球部やサッカー部やテニス部の試合に駆り出されて、そこそこ活躍するくせに、部員にはならない。ひとつのことに、本気で打ちこもうという気がないのか?」

「勝ち負けには興味ありません」


 つい、本音を漏らした。

 宇藤は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに飲みこめた様子で「なるほど」と言った。


「だがなあ、そうは言っても、世の中には競争原理が蔓延しているからなあ……仕事に就けば、嫌でも誰かと競うことにはなると思うぞ。人と争いたくないなら、観覧席で試合を見るだけの傍観者になるしかない」


 そう言って、しばらく真面目な顔で考えこんでいたかと思うと、「あるいは」と顔を上げて言葉を足した。


「競技場の外に出るか、だな」


 意味深な笑みを浮かべて、宇藤は俺を見上げた。


「外に出れば、競技場がただの競技場にすぎないことに気づくかもしれない。そこには、競技場の何倍も、何十倍も、何百倍も広い世界があるかもしれない」

「しれない、って……なんですか」


 宇藤は大声で笑って、

「俺は見たことないから、そうとしか言えん」などと、堂々と威張った。


 期待して損した。一瞬、宇藤の言葉に雲が晴れたような気がしたのに、やはり気のせいだったようだ。

 だが宇藤はまったく意に介する様子もなく、話を続ける。


「ほれ、なんて言ったかな。この宇宙は十次元から成り立っていて、人が認識できるのは四次元までっていう……」

「超ひも理論」

「お。よく知ってるな」


 宇藤が感心した顔をする。


「つまり俺が言いたいのはそういうことだ。おまえが認識している世界が、世界のすべてじゃない。この世界はおまえの想像をはるかに越えて広大だ。それだけは間違いない」


 授業以外で、宇藤の社会科教師らしい言葉を聞くのは初めてだった。

 結局、俺は何も見ていないってことか。自分のいる場所も。その外にあるものも。でもどうしたら……。

 なんだかますますわからなくなってきた。

 俺は無言で片手を差し出した。


「なんだ?」


 宇藤がきょとんとして尋ねる。


「鍵ですよ。社会科教室の」

「それなら、三組の生徒が持ってったぞ。郷土史研究会の……誰だったかな。雛高祭で発表する年表を作るとか言ってたが」


 ふいに全身が焦りにとらわれて、俺は宇藤に一礼し、急いで職員室を出た。

 本館の三階にある社会科教室に向かう途中、やけに廊下が薄暗いことに気づいた。


 まだ日が暮れるまでには時間があったが、見ると窓の外が暗くなっていた。嫌な感じに重たげな黒雲が空を覆っている。さっきまで晴れていたのに。

 場所柄、このあたりは天気が変わりやすい。なんといっても標高三百メートルの、神尾山地のど真ん中なのだ。


 社会科教室の扉は開いていた。

 明るい話し声が、教室の外の廊下にまで響いている。

 教室の入り口に立つと、机を挟んで向かい合っていたふたりは、すぐに俺に気づいて会話を中断した。


「おまえら、ポスター係なんだって?」


 汐崎が笑いながら言った。並べた机の上に、大きな紙を広げている。


「汐崎くん、雛条の歴史年表作ってるんだって。ほら、こんな大きいの」


 加島が興奮気味に言い、目の前に広げている紙を指し示す。

 近づいてみると、模造紙を継ぎ合わせた横長の紙に、びっしりと手書きの文字が並んでいた。上半分に雛条の歴史が書かれ、下半分に世界と日本の主な出来事が書かれている。


「このメンツで模造紙を囲んでいると、昔のことを思い出さない?」


 汐崎がなつかしそうに言い、加島が「ほんとだね」と笑う。


「あの頃から、汐崎くんは雛条のことに詳しかったよね。どうして興味を持つようになったの?」


 机の上には数冊の歴史の本と、三巻からなる雛条市史、年表の下書きをしたノートが並んでいる。


「最初はやっぱり澪入山のクスノキ伝説かな。子供心に切なくなったって言うか」

「あ、私も」


 加島がうれしそうに同意する。


「あの話の中でさ、クスノキを伐るように命じた都の権力者って、平清盛じゃないかって説があってさ。計算すると樹齢の年数とも合うし」


 汐崎は雛条市史の一冊を手に取る。かなり古いものらしく、布張りの紫色の表紙が色あせている。


「それで、もっと詳しく知りたくなって、親にねだって誕生日にこれを買ってもらったんだ」


 えっ、と加島が驚きの声をあげる。


「子供のときから、こんな難しい本を読んでたの?」

「……うん、まあ」


 汐崎は照れくさそうに言って、本をぱらぱらめくる。

 誕生日に市史をねだる小学生って……どんな小学生だよ。

 俺はふたりのそばを離れて、窓際の席に腰を下ろし、窓の外を眺めた。


「高校を卒業したら、どうするの? 大学で郷土史の研究をするの?」

「大学は史学系を受けるつもりだけど……でもいずれは、ここで地元の人の役に立つ仕事をしたいと思ってるんだ」


 それから汐崎と加島はそれぞれの作業に熱中し、汐崎が本のページをめくる音と、加島が筆を洗う水音だけが聞こえ、教室の中はひっそりと静かになった。


 ポスターは合計三枚用意することになっているが、一枚はすでに完成していた。残りの二枚もほぼできあがっていて、あとは細かい部分の色を塗るだけ。

 デザインは三枚とも違う。どれも目を引くような凝ったデザインだった。たかが高校の文化祭に使うのがもったいないくらいだ。しかも手描きなので、けっこう時間がかかっている。


 少し前に「パソコンのソフトとか使わねえの?」と加島に聞いたら、苦手なのだといっていた。

「使い方がよくわからなくて、よけいに時間かかっちゃうから。手描きしたほうが楽だし、早いよ」


 色塗りは、俺も少し手伝った。細かいところは残して加島に任せ、簡単で無難なところだけ塗らせてもらった。それでも、絵筆を握るのは中学のとき以来で、緊張した。


「じゃあ、僕は先に帰るよ」


 汐崎の声がして、見ると机の上の資料をすっかり片づけ、広げた模造紙を丸めている。


「加島さんたちは、まだ残るの?」

「うん、もう少しだから」


 汐崎の顔が、一瞬俺のほうを向いた。だが俺には何も言わずに、「じゃあ、お先に」と加島に告げて、荷物を抱えて教室を出ていった。

 汐崎がいなくなると、前よりもいっそう、静かになった。


 社会科教室の隣は準備室、その隣は進路指導室で、今日は使われていない。本館は視聴覚室や会議室など、ふだん使われることの少ない教室が多いから、職員室がある一階以外はひときわ静かだった。

 今はどのクラスも雛高祭の準備に追われている。俺たちの教室の周辺は放課後になると騒々しさが倍増したが、その喧騒もここまでは届かない。


 いつも狭く感じる教室が、たったふたりだと広すぎるくらいだった。

 俺は時折加島の様子をうかがいながら、雨の降り出した窓の外を見ていた。

 雨脚はあっという間に激しくなった。

 駐車場のアスファルトには白い飛沫が立ち、薄闇に沈んだ植え込みの木々が風に揺れる。ざあっという水の音が教室の静けさを奪いとる。


 加島は、最後の仕上げにかかっていた。真剣な表情で、ひとつひとつ、色を重ねていく。

 自分がどこにいるのか、加島は知っている。

 その場所から、外に出る道を選んだのだ。汐崎も。

 やりたいことを見つけるということは、二度と引き返せない道を選ぶ覚悟を決めるということだ。たったひとりで。


 俺は……?

 俺は今、どこにいるんだ?

 そして、どこへ向かえばいい……?


「あのときの巨大絵画」


 突然、加島が言った。筆を動かす手は止めずに。


「あれ、あの後どうしたんだろうね」


 商店街のアーケードに展示されていたのは知っているけれど、その後は知らない。


「俺はもう二度と見たくないけどな」


 そう言うと、加島が声を出して笑った。顔がこちらを向く。


「りっちゃん、市之瀬くんに厳しかったもんね」

「中学に入ってからも、ずっとうるさかったからな。クラス違うのに」


 あんなふうに、あからさまに勝負を挑んでくるやつが、俺は苦手だった。だけど、同時にうらやましくもあったのかもしれない。


「あいつ、どうしてんの? まだ陸上やってんの?」

「すごいよ。今年の夏に、短距離でインターハイに出たんだって。大学でも続けるみたい」


 いつになく会話が弾んで、俺は胸中ひそかに熊井に感謝する。だが、このままではどうにもならない。

 ポスターは、確実に今日中には仕上がる。そうなると、もうこんなふうにふたりきりで過ごすこともなくなってしまう。こんな絶好の機会は、二度と訪れないかもしれない。


 加島の気持ちを確かめたかった。

 体育祭のリレーで加島からバトンを受け取ったとき、何も変わっていないような気がした。六年前も今も、俺たちの気持ちは同じだと感じた。嫌われてはいない……と、思う。

 だけど、好かれてもいないかもしれない。

 汐崎との会話を聞いてしまった今は、自信がなかった。


 風の音が強くなってきていた。とっくに日が暮れて、あたりはすっかり暗くなっている。

 みんなまだ残っているのだろうか、と考えているとき、ふいに窓が光った。しばらくして、低い地鳴りのような音が聞こえてきた。


「帰れるかな」


 加島が不安そうな顔つきで窓に歩みよった。帰りのバスを心配している。

 また窓が光る。聞こえてくる雷鳴の足音は、さっきよりも近くなっている。続けざまに空が光り、すぐ頭上で空気を切り裂くような凄まじい破裂音が響いた。


 直後、暗闇に落ちる。

 校舎の中で悲鳴が響く。停電だとわかったが、身動きできない。

 窓を叩く雨の音が激しさを増し、風が唸りをあげて通り過ぎる。


 社会科教室の中は静まり返っていた。

 加島は声をたてなかった。上下左右もわからない闇の中、俺は窓のそばで立ちすくんでいた。空が稲光で光る一瞬の明るさのうちに、加島が立っている位置を確認する。


「そこにいて」


 そう声をかけて、加島のそばに行く。

 遠くで、人の声が飛び交っている。何を言っているのかはわからないが、とにかく校舎に残っているのは俺たちふたりだけではないとわかって安心した。


 だが声の遠さからして、この近くには誰もいないようだった。隣の社会科準備室からは人の気配も物音もしない。声は三年の教室がある一号館や、中庭を挟んで真向かいにある二号館のほうから聞こえてくる。

 徐々に暗闇に目が慣れてきて、ぼんやりだが加島の顔がわかった。動かずに、こっちを見ている。俺が近づくと、加島はすぐに俺の手をつかんだ。


「怖い」


 消え入りそうな声だったが、はっきり聞こえた。

 肩にふれると想像以上に細くて小さかった。こらえきれなくなって、抱きよせてしまう。加島の体温とともに鼓動が伝わる。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


 拒む気配を感じなかった。加島を抱きよせたまま、雨の音に紛れて聞こえてくる教室の壁時計の音を聞いていた。このまま、時間が止まってしまえばいいのにと思う。


 指が髪にふれる。髪を撫でると、加島がぎごちなく俺の背中に手を回してきた。やわらかい。あまりの気持ちよさに胸が疼いた。ほんの少しだけ体を離して、加島の顔を見た。うつむいたまま、こっちを見ようとしない。両手で加島のやわらかな頬を包むように、上を向かせた。

 目が合った瞬間に、抑えていたものが弾け飛んだ。ゆっくりと顔を近づける。


 突然、世界が明るくなった。

 眩しさに目を細め、そして我に返る。

 俺たちは見つめ合ったまま、しばらく動けずにいた。加島の目には、紛れもない戸惑いの色が浮かんでいた。


「残ってるやつは教室にもどれー」


 廊下の先で、教師が叫ぶ声がした。俺は加島のそばを離れて、教室を出た。一号館にも二号館にも明かりがついている。教室に残っていた生徒たちの騒ぐ声が聞こえる。

 俺はふり返って、加島を見た。加島はまだ茫然として、窓際に立ちすくんでいた。


「教室にもどろう」


 ぼんやりした顔のまま、加島がうなずいた。

 社会科教室を出て西館の教室にもどるまで、俺は一度も加島をふりむけなかった。

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