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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第8章 ただの友達
38/88

 * * *



 夏休みが終わり、二学期が始まった。


 いつものように昼寝場所から教室にもどると、ちょうどホームルームが終わったところだった。

 黒板の前にいた委員長の国枝が、「先に行って席を取っておいてください。私は職員室に行ってきますから」と副委員長の玉利に向かって命令を下し、教室に入ってきた俺の顔を見るなり忙しそうに告げた。


「あ、市之瀬さん。あなた、ポスター係に決まりました。決定事項に関する異議申し立てはいっさい受け付けません。与えられた仕事は責任を持って遂行してください。こちらはこちらで準備することが山積みで、いろいろと忙しいんです。あなたにかまっている暇はないんです」


 まだ何も言っていないのに、国枝は一方的にまくしたてる。


「詳細は加島さんに聞いてください。仕事は彼女と一緒に行っていただきますので」


 俺に質問する隙を与えず、国枝は資料を抱えてつかつかと廊下を闊歩していく。

 今日のロングホームルームで雛高祭の役割を決めると言っていたから、おそらくそのこと言っているのだと思うが、ポスター係って。

 なんとなく……ものすごく、嫌な予感がする。


 唯一の救いは、「加島と一緒」という情報だった。

 だが教室の中を見渡してみても、加島の姿は見当たらない。

 そういえばあいつ、携帯持ってたっけ? まあ、持っていたとしても、俺は番号を知らないのだから意味がないのだが。


 教室の後ろで、健吾が夢見心地な目で窓の外を眺めていたので、加島の居場所を知っているか聞いてみた。


「さあ。さっきまでいたけどなあ」


 健吾は生返事をして、また窓の外に視線を移す。

 夏休みに入る直前、雛条高校野球部は地区予選の三回戦で敗退した。

 健吾や富坂たち三年生はその試合を最後に引退して、今は二年生を中心とした新チームに変わっている。

 にもかかわらず、健吾は未だ未練たっぷりのまなざしで、グラウンドの練習風景を毎日のように眺めているのだ。


「なあ。雛高祭って、何やるんだ?」


 抜け殻化している野球バカに、一応、聞いてみる。


「雛高祭なんかどうでもいい……」

「おまえの感想は聞いてねえから。うちのクラス、何やるんだ?」

「さあ……なんだっけ……」

「もういい」


 帰り支度をしている松川をつかまえて聞くと、今さら聞くなと言いたげな顔をされた。うちのクラスの出し物が「和装カフェ」に決まったのは、夏休み前だという。


「ほら、国枝さんち、呉服屋さんでしょ。レンタル落ちの振袖とか袴とか、ただで使わせてくれるって」


 それで国枝ははりきっているわけか。


「加島は?」

「なんか急いで出ていったよ。美術室かなあ」


 そう言えばそうだ。加島は美術部で、雛高祭が近いこの時期、文化部は何かと忙しいはずだ。


「ところで」


 俺は少し屈んで、声をひそめた。窓際にへばりついている役立たずの巨体に、視線を送る。


「あれ、どうにかなんねえの」


 すると、松川の顔色が一瞬で変わった。


「なんで私に聞くの?」

「おまえ、マネだろ」

「私は野球部のマネージャーで、あいつのマネージャーじゃありません。それにもう引退して、野球部ともあいつとも無関係です」


 とってつけたような敬語で冷たく言い放つと、松川はさっさと俺から離れていく。

 どうやら俺の知らないところで重大な問題が起きているらしいが、健吾が松川の気持ちに気づくとはとうてい思えないので、おおかた松川がしびれを切らしたのだろう。いずれにしろ、今は下手に関わらないほうがよさそうだ。


 俺は、同じ一号館の三階にある美術室に行ってみた。

 当然であるが俺は美術の授業を選択していないので、美術室を利用することはまったくない。

 床の上にキャンバスが無造作に重ねられ、油絵の具の匂いが染みついた教室に足を踏み入れるのは、何気に抵抗を感じる。どこまで苦手意識が強いんだか。

 イーゼルの前で絵筆を握る生徒が数人いたが、そこにも加島はいなかった。


「あのー。誰か探してるんですか?」


 教室の中にいた美術部員らしき女子二人が、もじもじしながら声をかけてきた。さっきから何度もこちらを見ては、二人で耳打ちし合っていた下級生の女子だ。


「えーと、加島いる?」

「加島先輩なら、スケッチをしに行くって言ってました」

「どこに?」

「さあ……」


 首を傾げる彼女たちにひとまず礼をいって、美術室を後にする。そのまま校舎を出て、裏庭に向かった。

 金網をくぐり抜けてクスノキのある場所へ行くと、加島がいた。クスノキから少し離れたところに立ってスケッチブックを広げ、熱心に鉛筆を動かしている。


 何を描いているかは一目瞭然だった。

 加島の目は、空の下に大きく広がるクスノキを見つめている。声をかけようとした俺は、一瞬その瞳の深さに息をのみ、ためらった。

 木漏れ日が、加島の頬をかすめる。息をしていないのではないかと思うほど、一心に見つめている。


「加島」


 声をかけると、白いシャツの肩がびくんと震えて、加島がふり向いた。俺だとわかると、たちまち表情がゆるむ。


「何やってんだ?」


 近づくと、加島は照れくさそうに「雛高祭に出す絵。まだ全然描けてなくて」といった。隠そうとするスケッチブックを、俺はすばやくのぞきこむ。

 鉛筆で描かれたクスノキの絵だった。

 描き始めたばかりのようで、まだやわらかい線によるものだったが、それでも樹皮の堅さや枝のうねり、それに光の射す感じまではっきりとわかる。木漏れ日が見える。


「おまえ、ほんとすごいな」


 鉛筆一本で、どうやったらこんなふうに目の前のものを描けるのか、理解も想像もできない。

 しばらく絵に見とれていると、強い視線を感じて、見ると加島がじっと俺を見つめている。そこでようやく本来の目的を思い出した。


「雛高祭のことだけど」

「あ……うん」


 加島はスケッチブックを閉じて、落ち着きなく視線をさまよわせる。


「国枝に聞いたんだけど、ポスター係って……何?」


 加島は不思議そうに俺を見た。


「何って、そのまんまだよ。校内に貼り出す宣伝用のポスターを作るの」

「俺が?」


 冗談はやめてほしい。


「……えーと」


 加島は困ったように視線を泳がせて、言った。


「あの、市之瀬くんは、何もしなくていいよ」

「え?」

「私ひとりで、できるから」


 いつもの俺なら手放しで喜ぶところだが、複雑な気持ちになる。

 加島の口調から、俺にまったく期待していないことがわかる。ペアを組む相手が俺だとわかったときから、だぶんひとりでやるつもりだったのだろう。


「そういうわけにはいかねえよ」


 思わず、そう言ってしまっていた。加島が驚いたような表情をする。俺はあわてて言い訳をした。


「加島ひとりにやらせたら、あとで国枝に何を言われるかわかんねえし。それに、加島はそっちの作品も描かなきゃいけないんだろ?」


 スケッチブックを目で示すと、加島はやわらかく笑った。


「たぶん、なんとかなるよ」

「だけどさ」

「こんなときくらい、私に頼ってよ」


 加島が力強い目で俺を見上げる。めずらしいことなので、ちょっとたじろいだ。しかたなく「わかった」と言っておく。ただし。


「手伝うフリくらいはさせろよな」


 そう言うと、加島はかすかに笑いながらうなずいた。

 美術室にもどるという加島と一緒に、クスノキを後にして学校にもどった。裏庭から校舎に向かう。


「でも、ほんとにいいの? 受験勉強とか、忙しいんじゃないの?」

「それはみんな一緒だろ。加島だって、大変なんじゃねえの? 関東の美大を受けるんだよな」


 歩きながら話す。


「うん。市之瀬くんも関東だよね」


 ほんのわずか、加島の声に言葉以上の含みがあるような気がしたが、気のせいだろうか。


「市之瀬くんは成績優秀だもんね。余裕でうらやましいなあ」

「そんなことねえよ」


 高三の二学期ともなると、さすがに受験の話題からは逃れられない。

 と言っても教室の中はいつも通りで、今から浪人生活を豪語している輩も少なからずいて、あまり緊張感を感じないのだが。


「私は実技にあんまり自信がないから、学科も頑張らないと」

「自信がないって……あれで?」

「ないよ。私なんて、全然だもん」


 加島は苦笑まじりにいって、俺の言葉を否定する。


「才能のある人は、もっとすごいよ。私はただ好きなだけ」

「いつも楽しそうだもんな、絵を描いてるとき。俺にはまったく理解できないけど」


 スケッチブックを抱えて、加島はぎょっとしたように俺を見る。それから小さくうなずいて、言った。


「にぎやかだから……かな」

「にぎやか?」

「うん。いろんなものが見えたり、聞こえたりして。感覚がね、こう、ぱあっと開く感じ。外にあるものと内にあるものとが交流するみたいな。音とか匂いとか手触りとか、思い出とか憧れとか、そういうものがどおっとあふれてきて、もう描きたくて描きたくてしょうがなくなるの。でも、描いても描いても消えないから、いつまでも終わらないんだよね」


 人が変わったように話し出した加島を見ながら、俺は話の内容を理解できずに「ふーん」と頼りない相づちをうつ。よくわからないけれど、目に見えるものだけを描いているわけではないらしい。


 加島はしばらく黙っていたが、ふいに胸を突かれたようにはっとして、「だから寂しく感じるのかも」と、ひとりごとを言った。

 どういう意味なのかわからなかった。加島はうつむいていた顔を上げた。


「美大を出ても、絵を描く仕事に就けるかどうかわからないけど……でも、たぶん、描くことはやめないと思う。おばあちゃんになっても、絵を描いている気がする」


 加島の目はやわらかな西日を反射して、まっすぐ前を見つめている。耳をすませないと聞こえないほどの、いつも通りの小さなささやきだったのに、その言葉は俺の胸に力強く響いた。

 ぎゅっと引き結ばれていた加島の唇が、ふいに力をなくしてゆるんだように開く。歩いていた足を止めて、おそるおそるといった感じで加島の顔が隣にいる俺に向く。


「なんか……私だけしゃべりすぎ? 変なこと言った?」


 さっきまで力強い光を宿していた目が、もう混乱の色を極めている。


「あーもうやだ。ごめん、今の聞かなかったことにして」


 なぜか、スケッチブックで顔を隠す。


「何も、変なことは言ってないと思うけど?」


 俺がそう言っても、加島はスケッチブックで顔を隠したまま。俺は加島の手からスケッチブックを奪い取り、おろおろしている加島の頭をスケッチブックで軽く叩いた。そのまま、立ち止まっている加島を置いて歩き出す。

 しばらくしてから、加島が小走りに追いついてくる。


 内心は動揺していた。俺の後ろを頼りない足取りで歩いていると思っていた加島が、本当はずっと先をひとりで歩いているのだと知って、うろたえるのと同時に焦りを感じていた。


 何に対しても本気になれず、常に中途半端なことしかできない自分が、ひどく薄っぺらい中身のない人間のように思える。目的もなく、ただなんとなく選んだだけの進路が、ぼんやりかすんで遠退いていく。知らないうちに前を歩いていた加島の背中が、今もどんどん離れていくような気がする。


 胸を支配するのは、これ以上離されたくないという焦燥感だった。今からでも遅くない。走ればきっと間に合う。だけど、どこへ? 向かう先もわからないのに、俺は加島に追いつくことができるのか?


 階段の途中で三階の美術室に向かう加島と別れ、俺は四階の教室にもどった。

 住友がひとりで俺がもどるのを待っていた。窓際の席に座って、部活のかけ声が飛び交うグラウンドを窓から見下ろしている。俺が教室に入ってきたことに気づくと、住友はほっとしたように笑った。


「どこ行ってたの? 帰ろ」


 住友がカバンを手にして席を立つ。俺は教室の真ん中あたりで、住友から適当な距離を保って立ち止まる。


「悪い。ひとりで帰って」


 平坦な声に少し驚いたような顔をして、住友が俺を見る。そして浮かんでくる懸念を押しのけるように、朗らかな笑顔を浮かべる。


「何か用事があるの? 終わるまで待ってるよ」

「いや、そうじゃなくて。住友とは、もう一緒に帰れない」


 住友の固まった視線を受け止めて、俺は続けた。


「ごめん。俺、もうこれ以上、住友のそばにはいられない」


 少しずつ、俺を見つめる住友の目の中に悲しみを湛えた諦念の色が広がっていく。すぐに痛みを伴う後悔が胸を刺してきたが、俺はそんな自身の甘えをふり払った。


「加島のことが好きなんだ」


 動きを止めたように静かな教室内に、俺の声が響く。


「ごめん」


 最初から、間違っていた。

 間違えたのは俺で、住友は何も悪くなかった。

 中学三年の夏、加島のことを忘れたくて住友と付き合った。心は加島を想ったまま、住友と会う時間を重ねていった。それがどんなに相手を傷つける行為なのか、ちゃんと理解できたはずなのに。結局、俺は自分のことしか考えていなかった。

 本当の意味で住友と付き合っていたのは、たった三か月だった。自分が犯した間違いに気づくのに、三か月もかかった。その後は──。


「ううん。私のほうこそ、ごめんね」


 長い沈黙のあと、住友はかすれた声で言葉を吐き出した。


「私に市之瀬くんを縛りつける権利なんか、なかったのに。とっくに、ふられちゃってたのに。ほんと、私ってバカだね」


 目をそらしたくなるほど痛々しい笑顔を見せて、住友は弱々しくいった。カバンを肩にかけなおし、窓際の席を離れる。


「今までありがと。バイバイ」


 住友はそっけなく言うと、俺の顔を見ずに足早に教室を出ていった。

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