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16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第7章 大丈夫だから
35/88

 * * *



 まさか、と思って何度も確認した。

 高三の春、クラス替えの掲示に目を凝らす私。神様っているのかもしれない、と心の中で思う。


「紗月、また同じクラスだねー!」


 突然、後ろからがばっと抱きつかれた。それから耳もとで、ぽそっとつぶやく。


「有村も一緒。めちゃくちゃうれしー」


 亜衣は、一年の終わり頃から髪を伸ばしはじめて、二年の夏からメイクをするようになって、この二年で身長が十センチも伸びて、誰が見てもきれいな、恋する女の子になっていた。


「なんだよ、また松ぼっくりと一緒じゃん」


 ただひとり、有村くんだけが気づいていなかったけれど。

 私はもういちどクラス替えの掲示を確認する。

 三年一組。出席番号二十七番、加島紗月。出席番号二番、市之瀬郁。

 これ以上、何も、いらないです。




「市之瀬郁クンを推薦しまーす!」


 五月。体育祭の出場種目を決める、ロングホームルームの時間。

 市之瀬くんがいないのをいいことに、有村くんが市之瀬くんをクラス対抗リレーの選手に推薦して、誰ひとり異論なく決定してしまった。


「ちょっとー、本当に市之瀬に頼んで大丈夫なわけ?」


 体育委員でもある亜衣は、本気で心配している。有村くんに何度も詰めよって、確認すること六回目。


「だーいじょーぶ。あいつの足は超人並みだから。絶対うちのクラスが優勝するって」

「そういうことじゃなくて! 体育祭の当日に休むとか、直前になって行方をくらますとか、余裕でありそうじゃん!」

「あー。いやー。どうかなー。たぶん大丈夫だと思うけどなー」

「あんたの大丈夫って、ぜんっぜん誠意が感じられないんだけど」

「なんだよ、そういうおまえこそ大丈夫なわけ? 足、ひっぱらないようにしろよな」

「わ……私……がんばるもん」


 それまでの勢いが急にしぼんで、亜衣は小声になっている。リレーに出場する女子のひとりが最後まで決まらなくて、結局、体育委員の亜衣が出場することになったのだ。


 雛高の体育祭のいちばんの目玉は、学年の区別なしに行われる、最終種目のクラス対抗男女混合リレーなのだった。勝ったクラスには生徒会から景品が配られるので、けっこうみんな気合いが入る。

 クラス対抗リレーは総距離が八百メートル。ひとり二百メートルを走ることになる。走り慣れていない人にとっては、この距離の全力疾走はけっこうきつい。


「それより市之瀬のほうが不安だよ。棄権なんてカッコ悪いことしたくないし。ほんとに大丈夫かなあ……。で、本人はどこ?」


 話題の中心になっているその当人は、放課後になっても教室にもどってこない。


「あー……たぶんあそこだ。もどってこないところを見ると、まだ寝てるのかもなー。俺、ちょっと見てくる」

「携帯鳴らせば?」


 亜衣が言うと、有村くんが大きく手を振る。


「ダメダメ。あいつ、昼寝のときは電源切ってるから」

「うわ。何様だよ」


 亜衣が苦い顔をして、「起こしに行くのはいいけど、あんたも練習に遅れないでよね」と釘を刺す。

 亜衣が教室を出ていった後、何か考えこんでいた有村くんが、突然私のほうを向いた。


「加島さん、一緒に来てよ」

「えっ」


 ぼんやりしていた私は、たちまち挙動不審になる。


「な、なんで? どこに?」

「いいトコロ」


 有村くんは、何やらにんまりと笑って、秘密めいた言葉を口にする。

 よくわからないまま、私は有村くんと一緒に教室を出た。

 校舎の外は、暖かい春の陽射しであふれていた。

 頭の上を、ひとつかみの白い雲が流れている。高いところの雲を、低いところの雲がゆっくりと追い越していく。


 広いグラウンドのあちらこちらで、部活がにぎやかに始まっていた。

 有村くんは、体育館の角を曲がって、裏庭へ向かう。裏庭を囲む木立は、すっかり色を変えていた。力強い、くっきりとした緑色。生命力のほとばしる色。


「ねえ、どこに行くの?」


 裏庭の真ん中をどんどん突き進む有村くんの後を追いながら、私は不安になって聞いてみた。このまま行ったら、敷地を囲む金網のフェンスに激突する。


「郁の、秘密の場所」


 肩越しにふりむいて、有村くんはうれしそうに言った。


「知りたくない?」


 ……知りたい。

 私は黙って有村くんの後ろに従った。


 とうとう金網に突きあたってしまった。

 すると、有村くんは前後左右にすばやく視線を走らせ、誰も見ていないことを確認すると、ひょいと地面にかがみこんだ。そして、大きな背中を丸めて、金網の下に空いている穴をくぐり抜ける。


 まさか、ここから外に出るってこと?

 私は唖然とした。

 これって……先生に見つかったら確実に怒られるよね。


 躊躇していると、有村くんが金網の向こう側から「早く早く」と催促する。

 しょうがない。

 周囲に注意を払いながら、私は身をかがめて、金網の穴をくぐった。スカートがひっかからないように気をつける。


「じゃ、行こっか」


 余裕の笑みを浮かべて、有村くんは木立の中に続く細い道のようなところを歩いていく。

 これは本当に道なの、と聞きたくなるくらい、かすかな道。生い茂った雑草が行く手を邪魔して、足もともよく見えない。ざくざくと進んでいく有村くんの大きな背中だけを頼りに歩く。

 頭上には木の枝が渡っていて、背が高い有村くんは、時どき頭をかがめた。もうすっかりこの道を通るのに慣れている感じだった。


「この道、郁は小六のときに見つけたって言ってたけど……加島さんは初めて?」


 私は有村くんの背中に「うん」と答える。

 六年生だった市之瀬くんは、どうしてこの道を見つけたんだろう。澪入山には登ったことがないって言ってなかったっけ……あ。もしかして、夏休みの学級登山?


 道はほんのわずかに上り坂だった。山の奥に入っていくにつれて、あたりは薄暗く、空気が冷たくなっていく。山の匂いが一気に濃くなる。

 どこまで行くんだろう、と思ったとき、突然広い場所に出た。


 あっと息を飲む。

 巨大なクスノキが、空を埋めつくすように枝を広げて立っていた。

 見たこともないような大きさだった。

 私は言葉を失って、その場に立ちつくす。


 木漏れ日が揺れながら落ちてくるその下に、市之瀬くんがいた。

 クスノキの大きな根の上に寝転がって、眠っている。


「じゃ、後はよろしく」


 有村くんはそう言って、帰ろうとする。


「えっ。待って待って。ど、どうしたらいいの?」

「だから、郁を起こして。俺は部活に行かないと」


 有村くんはひらひらと手をふり、たった今通ってきた道をさっさともどっていく。

 私は途方に暮れて、目の前のクスノキを見上げた。

 本当に立派な木だった。


 もしかして……これが、樹齢九百年の伝説のクスノキ?

 おずおずとクスノキに近づいた。

 太い幹の表面はひび割れのようなでこぼこした樹皮で覆われていて、ところどころやわらかな青い苔が生えている。

 足もとに落ちている葉を拾うと、幹の大きさに比べて小さめで、堅くて、つやつやしていて、先が尖っていた。


 学校の近くに伝説のクスノキがあるなんて、ちっとも知らなかった。

 興奮して、胸がどきどきした。

 空に近いところの枝が風に揺れて、葉群がかすかにさわさわと鳴った。静かな音だった。私が近づくと、枝に止まっていたヤマガラが飛び立った。


 市之瀬くんは、まだ気持ちよさそうに眠っている。鳥の羽音で目を覚ますかと思ったけれど、起きる気配はない。

 私はそのまま市之瀬くんのそばを離れた。無防備な寝顔を見ると、起こす気になれなくなった。私も、もう少しこの場所にいたい。


 同じクラスになっても、市之瀬くんの私に対する態度は相変わらずだった。教室で目が合うことはほとんどないし、たまに合ってもすぐにささっとそらされる。

 市之瀬くんは、いつも有村くんや同じクラスの男子たちと一緒にいることが多い。クラスの女子とは、あまり話さない。時どき、三組の住友さんが教室を訪ねてくることがある。住友さんとは、ちゃんと話す。


 ふたりが付き合っていることは、みんな知っている。それでもひそかに下級生の女子に告られたりしているらしい。亜衣が偶然現場を見たと言っていた。「市之瀬にふられたかわいそうな女の子は、きっとほかにもたくさんいるはずだ」とも。


 やっぱり、住友さんは特別なんだろうな。

 ふたりが一緒にいるところを見るたびに、そう思う。そして悲しくなる。


 頭上から五月の光が射しこんでくる。

 よく見ると、足もとにクスノキの小さな花が落ちていた。

 私はしゃがみこんで、三ミリほどの白い花を拾っててのひらに載せる。花が咲いていることにも気づかないほど、ひそやかなほころび。


 やわらかな風が空を渡るたび、高い枝の葉が静かに揺れる。

 どこかに川が流れているのか、水の音が聞こえる。

 まるで、別世界。


「何やってんだ?」


 びくうっとして、てのひらの花をこぼしてしまう。ふり向くと、さっきまで寝ていた市之瀬くんが半身を起こして不思議そうにこっちを見ていた。


「あ……起きた?」


 一瞬どうしていいかわからなくなり、とぼけたことを口走る。


「なんでここにいんの?」


 市之瀬くんにじっと見られて、私はパニックに陥る。


「えっと、あの、私、有村くんに頼まれて、その」

「ひょっとして、もう放課後?」

「うん」

「ヤバ」


 市之瀬くんは立ち上がると、制服についている草や葉を手で払った。ついでに髪もばさばさとかき乱す。


「宇藤のやつ、怒ってた?」


 私は笑ってごまかした。世界史の宇藤先生は、私たちのクラスの担任だ。一年ときは四組の担任だったから、市之瀬くんは二度目。

 確かに、「なんであいつは俺の授業ばかりさぼるんだ」と言って、すごく怒っていた。


「このクスノキって……伝説のクスノキだよね?」


 私はクスノキを見上げながら、聞いてみた。

 市之瀬くんはクスノキの根から下りてくると、向こうを向いたまま、ぶっきらぼうに「まあな」と答える。

 答えてくれたことにほっとして、私はさらに言葉をつなぐ。


「こんなところにあったなんて、全然知らなかった。私、見たの初めて」

「ふーん。よかったな」


 市之瀬くんが、そっけなくはあるものの、私の言葉にちゃんと返事をしてくれたことがうれしくて、私は有頂天になった。


「もう行くぞ」


 そう言って、私のほうを向いた市之瀬くんの前髪に、草がついていた。私は何も考えずに手を伸ばし、背伸びをして、市之瀬くんの髪についていた草をとった。

 その瞬間、自分が予想していなかった近さに、市之瀬くんの顔があることに気づいた。至近距離で目が合う。

 市之瀬くんは驚いたような顔をしていた。私はそのまま固まっていた。


 いつも遠くから見ていた市之瀬くんの髪に、私の手がふれた。脳がしっかりと認識を進める。心と体はますます大混乱して、一気に熱が上昇した。

 先に冷静さをとりもどしたのは、市之瀬くんのほうだった。無言で私から離れると、何もなかったように学校へもどる道を歩いていく。落ち着いた足取りで。


「あのね。さっき、ホームルームで体育祭の種目について話し合ったんだけど」


 私は舞い上がってることを知られたくなくて、わざと平静を装い、事務的に話した。そしてその裏側で、住友さんはふれたことがあるんだろうかなどと不埒なことを考えていた。


「市之瀬くん、クラス対抗リレーに出ることが決まったから」


 金網の穴をくぐり抜けて裏庭に出たところで、市之瀬くんがぴたりと足を止めた。ふりむいた顔からは表情が消えていて、私は一歩後ずさる。


「なんだそれ。誰が決めたんだよ」

「有村くんが……」


 市之瀬くんの顔がすうっと冷たさを増した。さらに不機嫌になったみたいだった。


「おまえは?」

「え?」


 焦る。まさか矛先がこっちに向くとは。


「私は……借り物競走だけ」

「は? ずるくね?」

「え、だって」

「そういえばおまえ、一年のときも二年のときも、そういうお遊び系の競技しか出てなかったよな」


 どうしてきっちりチェックされているのでしょう……。


「くっそー健吾のやつ。毎回毎回、めんどくせーことに巻きこみやがって」

「ホームルームにいなかった市之瀬くんが悪いんだよ」


 じろりと睨まれる。すみません、と思わず謝りかけたそのとき。


「こぅらあーっ、市之瀬ぇっ!」


 ものすごい大音響で叫び声が上がった。

 グラウンドから、宇藤先生が猛突進してくるのが見えた。


 宇藤先生は野球部の顧問で、野球部が練習に使っているのはグラウンド西北の角。私たちがいる場所とはかなり離れているのだけど……おそるべき視力。

 まずい。もしかして……金網をくぐり抜けたところ、見られた?


「今までどこにいたんだ、おまえはっ! またさぼりかっ!」


 すごい勢いでグラウンドの端から走ってきて、息を切らせながら市之瀬くんに詰めよる。

 どうやら、学校の敷地を抜け出した現場を見られたわけではないらしい。

 ほっとする私の横で、市之瀬くんは、ものすごく面倒くさそうに「はあ」とつぶやいた。


「遅刻はするな、授業をさぼるなと、何度言ったらわかるんだっ。態度を改める気がないのか、おまえはっ」

「そういうわけじゃないんですけど」


 市之瀬くんは淡々と答える。宇藤先生は鼻の上に皺をよせて、「だったらどういうわけだ、言ってみろ!」とさらに大声で迫った。


「つい寝過ごして」

「そんなもん言い訳になるか! それにその髪もだっ! 何度も何度も何度も言わせるな! 耳がついてないのか、え!? 聞こえてるよな、こんな大声でしゃべってんだからっ!」


 片方の眉をつり上げて、宇藤先生は一方的に怒鳴る。


「先生」


 私は思わず口をはさんでいた。


「市之瀬くんの髪は地毛ですよ。先生、ちょっとしつこいです。なんなら小学校のときの写真、証拠に提出しましょうか?」


 自分でも気づかないうちに語気が強くなっていたらしい。宇藤先生が呆気にとられて私を見ている。


「そういうわけなので。失礼します」


 私は市之瀬くんの制服の袖をつかみ、宇藤先生に背を向けて歩き出す。

 体育館の角を曲がると、市之瀬くんが急に立ち止まって前屈みになった。どうしたのかと思っていると、押し殺した低い笑い声が聞こえた。


「なんで加島が怒ってんだよ」

「え……それは……つい」

「ついってなんだよ。しつこいとか、言うか普通。先生に。あーおもしれー」


 市之瀬くんが目を細めて笑うのを、こんなに近くで見るのは初めてかもしれない。私はひそかに感動して、市之瀬くんの顔をじっと見つめてしまった。


「ところでさあ」


 ようやく笑いがおさまると、市之瀬くんはやわらかな笑顔のままで私を見た。


「そろそろ離してくれる?」


 なんのことかわからず、ぽかんとしていると、市之瀬くんが右手で自分の左腕を指さした。私の手は、まだしっかりと市之瀬くんの制服の袖を握りしめていた。あわてて手を離す。


「ごめんっ」

「いいけど。おもしろかったから」


 また笑いだす。そんなにおもしろかったですか……。


「だいたい、市之瀬くんがちゃんと先生に説明しないからだよ。なんで言わなかったの?」

「あー……めんどくさくて」


 やっぱり。ですよね。

 校舎のほうへと歩き出した市之瀬くんの後ろを、私は少し遅れて歩く。

 神様、と心の中で祈る。

 このまま、ずっと一緒にいさせてください。できれば、ふたりきりで。


「市之瀬くん」


 住友さんが笑顔で渡り廊下を走ってきて、市之瀬くんの隣に並ぶ。神様は、やっぱりいないのかもしれない。

 少し西に傾いた太陽が、かすかに色の混じり始めた光を投げかけていた。陽射しがあたって、市之瀬くんの茶色い髪が金色に近くなる。


 私はバカだ、と思った。

 付き合っているんだから、さわったことがあるに決まっている。

 さっき手がふれたときの感触を思い出して、私は思わず目をそらした。

 たぶん、陽射しがまぶしいせいだ。




 体育祭当日。

 最終種目のクラス対抗リレーが始まる直前になって、予測しなかった事態が起きた。


「お願い、紗月」


 顔の前で両手を合わせて必死に懇願する亜衣を、悲しませることなどできるはずもなく。私は「いいよ」と答える。

 クラス対抗リレーに出るはずだった、もうひとりの女子が、生理痛でダウンした。今は保健室のベッドの中だ。彼女は三番目に走ることになっていた。要するに。

 アンカーにバトンを渡す第三走者の代わりを、いきなり私が引き受けることになったわけ。そして。


「市之瀬はどこよ?」


 アンカーは、もちろん市之瀬くんだった。

 さっきから亜衣はずっといらいらしている。

 市之瀬くんが登校していることは、姿を見かけたので間違いないのだけれど、ほとんどグラウンドには現れず、雲隠れしている。きっとクスノキのところだろう。


 リレーに参加する選手が、グラウンドに集まり始めていた。せめて一回だけでも亜衣とバトンパスの練習をしたかったけれど、もう時間がない。


 思えば、ずいぶん走っていない。

 この前ちゃんと走ったのはいつだっけ。四月のスポーツテストのとき? でもあのときは体調が悪くて、本気で走らなかった。

 リレーなんてもっと悲惨だ。中学二年の体育祭以来だ。バトンパス、本当に大丈夫だろうか。まだ勘が残っていたらいいけど、もし忘れてたら……。


 あ、だめだ。

 手が震えてる。

 こういうとき、どうするんだっけ。緊張しないおまじない。そんなの、あったっけ。ないよ。緊張するよ。だって練習してない。いきなりぶっつけ本番。思い出した。私、本番に弱いんじゃなかった? こういうの、ダメなんじゃなかった?


「加島」


 名前を呼ばれて、ふりむく。

 いつのまに現れたのか、市之瀬くんがすぐ後ろに立っている。平然と私の顔を見下ろして、平然という。


「大丈夫だから。いつも通りでいこう」


 ぽん、と大きな手が私の背中を押した。

 市之瀬くんの落ち着いた言葉は、私の暴走するネガティブ思考をあっけなく止めた。背中にふれた温かくて大きな手は、私の緊張を一瞬で溶かした。

 晴れ渡った空が青いことに気づいた。今日は朝から汗ばむくらいに暑くて、陽射しの強さに夏の予感がしていた。


 山の緑がまぶしい。

 時おり吹く風が、クラスの応援旗をたなびかせる。

 思い出した。

 そうだった。

 どんなに私が緊張していても、ガチガチに固くなっていても、市之瀬くんがいれば大丈夫なのだ。私は、彼にバトンを渡せばいいだけ。いつも、そうだったように。


 クラス対抗リレーがスタートした。

 喚声が巻き起こる中、あっという間に私たちの番がくる。

 第一走者は副委員長の玉利くんだった。

 ホームルームで委員長の国枝さんに命じられてリレーに出ることになったという経緯はともかく、意外と速い。見る間にほかのクラスを引き離して、トップに躍りでた。


 バトンパスでちょっともたつきながらも、第二走者の亜衣にバトンが渡る。

 玉利くんがかなり差をつけてくれていたので、このままトップで私がバトンを引き継ぐことになるだろうと思った。そのはずだった。


 テイクオーバーゾーンの手前で、亜衣が転倒するのが見えた。亜衣の手を離れてバトンが転がり、ほかのクラスの選手たちがつぎつぎと追い越していく。

 亜衣は魂が飛んでいってしまったように、手をついたまま茫然としていた。


「立って、亜衣!」


 私は大声で叫んでいた。


「大丈夫だからっ!!」


 次の瞬間、亜衣がさっと起き上がってバトンを拾うのが見えた。私は亜衣からバトンを受け取ると、無我夢中で走った。

 頭の中からいろいろなものがすこんと抜けて、空っぽになっていた。心も体もびっくりするほど軽くて、風に乗っているみたいだった。


 絶対に大丈夫。

 そう信じていた。

 市之瀬くんなら、絶対に大丈夫。


 離されていた距離が縮まる。抜ける、と思った瞬間にテイクオーバーゾーンに入った。

 あのとき身につけた感覚は、今もまだ消えていない。ちゃんと残っている。市之瀬くんが教えてくれた、完璧なバトンパス。


 市之瀬くんにバトンを渡すと、私はトラックの内側に移動してしゃがみこんだ。息が乱れてうまく呼吸できない。肺が暴走している。それでも私の目は市之瀬くんから離れなかった。

 私からバトンを受け取ってすぐに、ひとり抜いた。大きなストライドでカーブを曲がる間にまたひとり抜く。喚声が大きくなる。直線ゾーンで一気にスピードが上がり、ふたり抜いた。あとひとり。


 そのとき、私は息をするのも忘れていた。

 ゴール手前で、市之瀬くんが最後のひとりを抜いた。私の目の前で、いつものように、市之瀬くんはゴールテープを切った。

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